25:名刺代わりの工具
旧鉱山都市バルドを見下ろす北側の監視塔。
かつては風化し、崩れるのを待つだけだったその塔も、今はヴィンが設計した補強用ボルトとアルキメデスが打った鋳鉄のフレームで、鉄壁の要塞へと生まれ変わっていた。
俺はその最上階から、眼下に広がる景色を眺めていた。
ここにあったのは死臭と絶望だけだった。
だが今、そこには規則正しい『音』がある。
溶鉱炉から立ち昇る煙突の煙。
レギナの号令に従い、一糸乱れぬ動きで歩哨に立つ警備隊の靴音。
そして、食堂から漂う温かい麦粥と焼き立てのパンの匂い。
(……ようやく、この仕組みが熱を帯び始めたか)
ふと、自分の左手の掌に目を落とす。
ペンを握り込み、数千、数万の数字と格闘してきた証である分厚いタコ。
右手に刻まれていた剣のマメは、今や綺麗に消えて無くなっていた。
思い出すのは、十二歳の頃だ。
軍の輜重部隊。華やかな騎士たちが戦功を競う陰で、俺は泥にまみれた馬車の車輪を数え、カビた干し肉の在庫を帳簿に書き込んでいた。
そんな俺を引き抜いたのは、後に『勇者』と呼ばれることになる、太陽のような笑顔を持つ男だった。
『君の帳簿の付け方は、魔法よりも美しいね。ノア、僕らと一緒に来ないか? 君がいれば、僕らはもっと遠くまで行って、世界を救える気がするんだ』
彼は、本気でそう信じていた。
実際、俺がパーティーに入ってから彼らの装備の摩耗は劇的に減り、ポーションの在庫が戦場で切れることは二度となかった。
そして俺たちは魔王を倒したのだ。
彼らは今も、大国の重鎮として平和のために剣を振るっているだろう。
それでいい。彼らには象徴としてそうあってほしいのだ。
彼らは確かにそれだけの勇気と正義を示してくれた。
忘れることはないし、俺は間違いなく彼に感謝している。
だが。 英雄の剣がどれほど鋭くても、ロジスティクスのない平和は砂の城でしかない。
俺が求めたのは一時の勝利ではなく、誰もが腹を満たし、役割を持って明日を信じられる、永続的な『システム』だった。
「――代表。黄昏に耽るのは、この報告書を承認してからにしてください」
背後から、セリアーナの冷徹な声が響いた。
振り返ると、彼女はいつもの革張りの帳簿を抱え、満足げに口角をわずかに上げている。
「……良い報告か?」
「ええ。バルドの農業プラント、および鉄屑の再生事業。これらすべての投資回収率が予測を上回りました。本日、ネクサスは創設以来初の『月間黒字』を達成しました。……おめでとうございます、ノア代表」
セリアーナが差し出した帳簿の右下には、誇らしげに記された『純利益』の数字があった。
その時、塔の螺旋階段を駆け上がる騒がしい音が聞こえた。
「ノア! じいさんがついにやったよ!早く見てくれ!」
ヴィンデールが煤まみれの顔を輝かせ、後ろから重い木箱を抱えたアルキメデスが、珍しく相好を崩してやってきた。
木箱の中には、鈍い銀色を放つ十数本の道具――レンチやハンマー、そして精密なノギスが並んでいる。
「ただの鉄屑じゃねえ。……代表の言う通り、俺の経験とヴィンの図面、そしてここの高純度魔喰石で温度を制御した炉。それらが噛み合って生まれた、究極の『規格品』だ」
アルキメデスが一本のレンチを手に取った。
そこには、ネクサスのシンボルである『交差する剣と歯車』の紋章が刻印されている。
「どのレンチを手に取っても、誤差は髪の毛一本分もない。……これなら、世界中のどんな機械のボルトだって回して見せるぜ」
俺はそのレンチを手に取り、冷たく確かな重量感を確認した。
これこそが、剣に代わる俺たちの武器だ。
どこでも買えて、誰でも使えて、壊れた世界を修理するための『標準』。
「……バルド初の、正式な輸出製品だな。これにネクサスの刻印を打て。世界中に、俺たちの存在を認めさせるための名刺代わりだ」
そのカタルシスに浸る間もなく、塔の入り口からモルディスが慌てた様子で姿を現した。
「ノアの旦那! 大変だ、ガレリアの街に『犬』が紛れ込んでやがる!」
モルディスは脂汗を拭い、声を潜めた。
「商業ギルド連盟の本部から、査察官と腕利きの隠密が派遣されたらしい。……あんたたちが流している麦と鉄の出所を、奴らが血眼になって探ってる。……そろそろ、隠し通すのも限界ですよ」
室内に、一瞬の緊張が走った。
セリアーナの瞳に鋭い光が宿り、レギナが静かに槍の柄を握り直す。
だが、俺は窓の外に広がる、夕闇に灯り始めた街の明かりを見つめ、静かに鼻で笑った。
「商業ギルドの査察官か。彼らもたまには無料の査察ではなく、まともな視察旅行代金を払うべきだな。……隠すつもりなど、最初からなかったさ、モルディス」
俺は最上階の手すりに手をかけ、街全体に響き渡るような声で、背後の幹部たち、そして下にいる労働者たちへ向けて告げた。
「独占が腐敗を生み、平和が停滞を招くなら、俺たちが世界に『真の競争』を教えてやるだけだ。……モルディス。その査察官たちに、このネクサスのレンチを一つ、手土産として渡しておけ」
俺は手に持っていたレンチを、モルディスへ投げ渡した。
「もはやここは、ただの見捨てられた廃棄都市じゃない。……世界を繋ぎ、回し、そして救うための新しい心臓だ。これより、ここをネクサスの本部と定め、世界経済への参戦を正式に宣言する」
生存のための闘争は終わり、ここから、利権と欲望が渦巻く世界を『仕組み』で塗り替える、本当の戦争が始まろうとしていた。




