24:温もりの報酬
鋭い笛の音が、夕暮れ時の広場を切り裂いた。
「そこまでだ! 槍を収めろ!」
レギナ・フォルマリスの凛とした声が響く。
広場では、巨漢のガルムをはじめとする警備部隊の候補生たちが、泥と汗にまみれて膝をついていた。
数時間の基礎鍛錬。ただ槍を突き、盾を構え、隊列を維持して歩く。
魔法も派手な技もないその地味な反復が、彼らの体力を根こそぎ奪っていた。
「……はぁっ、はぁっ……。あの女、本当に人間かよ。一ミリでも列が乱れたら、あの長槍の柄で尻を叩きやがる……」
ガルムが荒い息を吐きながら、恨めしそうにレギナの背中を睨む。
その視線の先で、レギナは手入れの行き届いた槍をくるりと回し、無造作に背負った。
汗一つかいていないその端正な横顔は、夕日に照らされて不気味なほどに美しく、そして冷徹だった。
その時、広場の端にある廃棄建材の影から、排水の影響で迷い出たと思わしき小型の魔物――二頭の『泥這い(マッドクローラー)』が、音もなく這い出した。
疲労で反応が遅れるガルムたち。
「――陣形を崩すなと言ったはずだ」
レギナが動いた。
予備動作すら見えない一踏み。
電光石火の突きが二閃。
蒼い魔法の光など纏わずとも、その穂先は正確に魔物の眉間を貫き、岩床に縫い止めた。
「……ッ!?」
ガルムたちが息を呑む。
レギナのそれは、自分たちと同じ『肉体』という道具を極限まで練り上げた『練度』の証明だった。
彼女は魔物の死骸から槍を引き抜き、冷淡に言い放つ。
「規律を忘れた瞬間に、お前たちは肉塊に変わる。それを忘れるな」
広場に漂う重苦しい沈黙。
住民たちは、新しくやってきた『鬼教官』の厳しさに、ネクサスが自分たちを縛り上げるだけの監獄に変わるのではないかという不安を抱き始めていた。
だが、その張り詰めた空気を解いたのは、またしてもレギナの笛の音だった。
「本日の訓練は終了だ! これより一秒でも長く武器に触れている者は軍律違反と見なし、明日の食事を抜きにする! さっさと片付けて、指定の場所へ向かえ!」
***
ガルムたちがレギナに追い立てられるようにして向かったのは、旧坑道の入り口近く、ヴィンが管理する第二ポンプ室の隣に急造された石造りの小屋だった。
「おい、これ……なんだ?」
入り口の木戸を開けた瞬間、ガルムたちの顔を真っ白な湯気が包み込んだ。
「ふ、風呂の施設か……!?」
そこにあったのは、巨大な石の掘り込み式浴槽。
大層な大理石の装飾などない、ただの無骨な岩の風呂だ。
だが、中にはなみなみと、少し緑がかった温かい湯が湛えられている。
「ヴィンの奴が作った熱交換器の成果だよ」
小屋の隅で腕を組んでいた俺を見て、ガルムたちは目を白黒させた。
「魔導ポンプを回せば熱が出る。現場の連中に熱力学の法則を説くより、その廃熱で地下水を温めて肩まで浸からせる方が、はるかに効率的なモチベーション回収法だからな。……ガルム、泥を流せ。それが警備部隊に与えられる最初の福利厚生だ」
ガルムたちは誘われるように服を脱ぎ捨て、湯の中に飛び込んだ。
「う、うわあああああっ!! あったけぇ……! 心臓が跳ねやがる!」
温かい湯が、凝り固まった筋肉と冷え切った心を解きほぐしていく。
そして、この湯の恩恵は彼らだけではなかった。
「ノア様、ありがとうございます! これで冬場も手が割れずに済みますわ」
浴場の隣、仕切られた一角では、アンナをはじめとする女性たちが歓喜の声を上げていた。 そこには魔導ポンプの温水が引き込まれた共同洗濯場と、排熱を利用した乾燥室が整備されていたのだ。
「温かい水で洗濯ができるなんて夢みたいです。……それにあのお風呂。一日の終わりに温まれると思えば、あのおっかないレギナ様の訓練も、皆、なんとか耐えられそうですわね」
アンナが笑いながら、籠いっぱいのシーツを運び入れる。
規律を重んじ、役割を果たす。
その対価として、かつては王侯貴族しか享受できなかった『衛生』と『休息』が、労働者たちに等しく与えられる。
「……ほう、悪くない。筋肉の疲労回復には、温熱療法が最も効率的だ」
いつの間にか、セリアーナを伴ってレギナが視察に来ていた。
彼女は湯気の向こうで燥ぐ男たちの声を聞きながら、ほんの少しだけ口角を上げた。
「代表。この浴場の維持コスト、および石鹸などの消耗品の経費は、すべて『警備教育費』名目で計上済みです」
セリアーナが、湯気に巻かれながらも平然と帳簿を叩く。
「ただし、長湯をして明日の始業に遅れる者がいれば、即座に減給対象とします」 「……相変わらず厳しいな。だが、それがネクサスのルールだ」
俺たちは浴場を後にし、その隣に新設された共同食堂へと向かった。
そこでは、モルディスから仕入れたばかりの大麦のパンと、下層で仕留めた魔物の肉をヴィンが魔導コンロで豪快に焼き上げた、無骨な大皿料理が並んでいた。
風呂上がりの労働者たちが、濡れた髪を拭きながら、今度は肉の焼ける匂いに吸い寄せられていく。
「さあ、食え。今日働いた分のエネルギーを補充するのも、お前たちの任務だ」
俺がそう告げると、広場は爆発的な歓声に包まれた。
厳しい訓練、冷徹な数字、そして命がけの作業。
だがその先には、温かい湯と、腹を焦がすような肉の匂い、そして一日の終わりを告げる安らかな眠りが待っている。
住民たちは、湯気とパンの匂いの中で悟り始めていた。
ノアの創ったネクサスという組織は、ただ自分たちを縛り上げるためのものではない。 正しく働き、規律を守れば、この最果ての廃棄都市であっても、人間らしい『生活』を手にできるのだと。
(……剣では、この湯気の匂いは作れなかったな)
俺は、喧騒の中でレオが必死に肉を頬張る姿を見つめ、静かに独白した。
規律は防具となり、労働は明日を築く。
ネクサスという名の巨大な歯車が、住民たちの『希望』という油を得て、より滑らかに、より力強く回り始めた。




