23:不遇の指揮官
執務室の窓から差し込む朝日は、宙に舞う炭塵を白く照らし出していた。
机の上には、昨日下層で回収した高純度の魔喰石と、それによって書き換えられた新たな予算案が幾重にも重なっている。
「……代表。ペンが止まっていますよ。まさか、数十分程度の戦闘で筋肉痛ですか?」
正面に座る財務長セリアーナが、帳簿から目を上げずに冷ややかな声を投げかけてきた。
「筋肉痛ならマシな方だ。……あの付与魔法の余波で、頭の芯がひどく熱を帯びているんだよ」
俺はこめかみを指で押さえ、深く椅子に体を預けた。
下層での掃討作業。あれは確かに、事業拡大のためには避けて通れない工程だった。
だが、俺という経営者が現場の最前線で剣を振るうたびに、この組織は致命的な損失を抱え込んでいる。
「昨日、俺が地下で一時間作業をしていた間、この机の上にある承認待ちの書類は一枚も減らなかった。神様が経営者に一日二十四時間しか与えなかったのは、きっと自分で会社を回した経験がないからだろうな。代表の時間を魔物一匹の命と等価にするのは、金貨をドブに捨てるのと同じだ」
「ようやく理解していただけましたか。代表一人の武力に依存する体制は、もはや組織の限界を超えています。……ですので、私が一つ『最良の駒』を選定しておきました」
セリアーナが無造作に滑らせてきた羊皮紙。
そこには、過去の職務履歴や戦闘技能、そして『過去の雇用主による監査記録』が緻密に記された、一人の女性の名があった。
「レギナ・フォルマリス。三十代。元・中規模傭兵団の隊長。……実力、指揮能力、共に超一流です。ただ、あまりに堅物すぎて、雇い主だった商会の不法横領を真っ向から告発し、その結果、業界全体から疎まれて路頭に迷っていました」
「横領の告発か。お前と気が合いそうだな」
「私が評価したのは、彼女が団を解散する際、部下一人一人の退職金と遺族への補償金を一厘の狂いもなく完遂させたその『帳簿への誠実さ』です。……彼女を深く絶望させたのは、不正そのものではありません。正義を貫いた自分たちが餓死し、不正に手を染めた者が肥え太る『仕組みの欠陥』です」
セリアーナの言葉には、どこか同族を認めるような響きがあった。
俺はリストに記された『レギナ』という女の顔に目をやった。 鋭い目つき、一切の妥協を許さないような固く結ばれた唇。
今のネクサスに必要なのは、勇猛な戦士ではない。
組織という機構を正確に動かすための、冷徹な『番人』だ。
***
一刻(約二時間)後。 バルドの街の入り口、急造されたバリケードの前に一人の女が立っていた。
背中には手入れの行き届いた一振りの長槍。 着古した革鎧はあちこちが剥げ、長きにわたる放浪の過酷さを物語っている。
だが、その背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、塵一つないほど磨かれたブーツの先が、この泥だらけの街に場違いな威圧感を与えていた。
「……あなたが、ネクサスの代表殿か。英雄ノア・レクシオン……」
レギナ・フォルマリスの声は冷たく、よく通った。
彼女は挨拶もそこそこに、鋭いアメジストの瞳で周囲の状況を査定し始める。
「広場の作業員の配置、坑道への補給ライン……効率的ではあるが、警備が穴だらけだ。英雄の隠居所にしては防衛意識が低すぎる」
「だから、お前を呼んだ」
俺は一歩踏み出し、彼女の正面に立った。
レギナは俺を睨みつけるように見つめ、腕を組む。
「話を受ける前に確認したいことがいくつかある。……この組織の資金源はどこだ? 外部の貴族や商会に首根っこを掴まれていないか? 街全体としての負債総額は? 評価制度の基準と、現場で死人が出た場合の弔慰金の規定はどうなっている?」
次々と飛んでくる、事務的で、しかし極めて本質的な質問。
英雄への敬意など欠片もない。彼女が求めているのは信頼ではなく『透明性』だ。
不透明な金のために部下を死なせるのは二度と御免だという、強い意志が感じられた。
俺の代わりに、後ろから歩み出たセリアーナが一冊の帳簿をレギナの前に差し出した。
「財務長のセリアーナ・ヴァイスです。ここに昨年度からのすべての収支決算報告書と、従業員の格付け基準、及び福利厚生の条項をまとめてあります。もちろん負債はゼロ。……不備があれば、今すぐこの場で修正していただいても構いませんよ?」
「……元・商業ギルド本部の監査官か。なるほど、道理で不自然なほど数字が綺麗だと思った」
レギナは帳簿を受け取ると、猛烈な速さでページをめくり始めた。
数分後。彼女はパタンと帳簿を閉じ、初めて俺の方へ視線を戻した。
「……いいだろう。これほど誠実な仕組みの上なら、私の槍も錆びずに済む。代表殿、あんたが求めているのは私の武勇か?」
「いや。俺が求めているのは英雄じゃない。二十四時間、一秒の隙もなく回り続ける『防壁のシステム』だ。あそこにいる素人どもを、プロの番人に変えてくれ」
俺が指差した先では、巨漢のガルムが巨大蟲との戦いで曲がった槍の穂先を、岩に叩きつけて無理やり直そうとしていた。
レギナは、そのあまりに素人な光景に、こめかみをピクリと動かした。
「……あれを戦力に? 正気か? ただの泥遊びにしか見えないが」
「だからこそお前が必要なんだ。今日からお前を、ネクサス警備部門の総責任者として雇用する。……予算と装備、教育方針の全権をお前に与える。文句はあるか?」
レギナは肩に担いでいた長槍を下ろし、それを地面に突き立てた。
「ない。……ただし、あいつらにとって私は魔物よりも恐ろしい鬼に見えることになるだろうが、後悔するなよ」
彼女はそう言うと、悠然とした足取りで広場の中央へと歩き出した。
「おい、そこのデカいの! その槍の扱い方はなんだ! 道具をそんな風に痛めつける奴は、明日自分の命を落とすことになるぞ!! 全員整列しろ! 今、この瞬間から、お前たちの休息時間は私の許可制だ!!」
広場に響き渡る、レギナの雷鳴のような怒声。
ガルムも、レオも、トマスも。あまりの威圧感に石像のように固まった後、慌てて背筋を伸ばして一列に並んだ。
俺はその光景を後ろから静かに見守り、手元の帳簿に一線を引いた。
(……警備部門、稼働。これで俺の時給は適正な場所へ戻せる)
バルドの空の下、また一つ、ネクサスの歯車が重々しい音を立てて噛み合った。
それは、英雄一人の剣に頼らない、組織という名の防壁が産声を上げた瞬間だった。




