16:天秤の檻
荒野を走る荷馬車の御者台で、異端の流れ商人モルディス・グリムバンクは激しく舌打ちをした。
「まったく、骨折り損にならなきゃいいがね」
小太りの体を揺らしながら、彼は手綱を握り直す。
彼が向かっているのは、国境沿いの廃棄都市バルド。
つい数週間前、黒髪のひどく目つきの悪い男――ノアという名の得体の知れない若者に、大麦の種と大量の魔喰石を売りつけた場所だ。
その後、モルディスは耳を疑うような噂を聞いた。
巨大な権力を持つ商業ギルド連盟が、あのバルドという街を『完全な経済封鎖』に置いたというのだ。
外部からの食料供給を断たれた、何もない死んだ街。
今頃、あの街の広場には飢え死にしたスラムの連中の死体が転がっているはずだ。
モルディスの目的は、哀れな死体からわずかな金貨を回収するか、あるいは生き残りがいたなら、持っている荷車の底にあるカビの生えたパンを法外な値段で売りつけることだった。
「商業ギルドに目をつけられるなんて馬鹿な若造だ。まあ、商人としては死人の懐を漁るのが一番利益率がいいんだがね」
脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべ、モルディスはバルドの崩れかけた石壁をくぐった。
だが。 彼の笑みは、広場に出た瞬間に顔にへばりついたまま凍りついた。
「なんだ……こりゃあ」
死臭など欠片もしない。
代わりに鼻腔を殴りつけてきたのは、香ばしく豊かな焼き立てのパンの匂いだった。
広場にはスラムの薄汚いテントの代わりに、ヒノキの端材と泥で組まれた真新しい長屋が立ち並んでいる。
男たちが威勢のいい声を上げながら木材を運び、女たちが笑い合いながら麻袋を縫っている。
そして何より、モルディスの度肝を抜いたのは、倉庫の前に築かれた『黄金の山』だった。
「大麦……!? 馬鹿な、どこからこんな量の……っ!」
しかも、ただ積み上げられているわけではない。
すべての麻袋が寸分の狂いもなく同じ大きさであり、縫い糸の色で整然と分類されている。
長年、裏街道で怪しげな取引をしてきたモルディスですら、背筋が粟立つほどの『完璧な管理』の気配がそこにはあった。
「――おや、ずいぶんと早い到着だな、モルディス」
背後から声をかけると、モルディスは弾かれたように振り返った。
入口の柱にもたれかかる俺と、その一歩後ろに控える濃紺の服を着たセリアーナの姿を見て、男は目を丸くしている。
「ノ、ノアの旦那……! 生きて……いや、これは一体どういう魔法を使ったんで!?」
「魔法じゃない。ただの農業だ。立ち話もなんだ、応接室へ案内しよう」
***
急造された執務室――俺が応接室と呼んでいる部屋に通されたモルディスは、出された香草の茶には口をつけず、落ち着かない様子で周囲を見回していた。
商業ギルドの封鎖を生き延びたばかりか、あれほどの麦を隠し持っている。
だが、相手は所詮、辺境の新興組織だ。
交渉の主導権は外の世界へ自由に動ける自分にあるとでも思っているのだろう。
「コホン。まあ事情は深く聞きませんよ。ですがね、ノアの旦那。これだけの麦、あのまま積んでおいても湿気で腐るだけだ。商業ギルドに睨まれているあんたたちじゃ、外に売りに出すこともできない」
モルディスは揉み手をしながら、調子のいい商人の顔を作った。
「そこで、この俺の出番ってわけだ。ギルドの目を盗んで、俺が責任を持って他の街で捌いてやりましょう。もちろんリスク代は引かせてもらいますが……そうですね、相場の半値、五十ポンドにつき銀貨五枚で買い取ってあげますよ」
恩着せがましいその提案。 俺は何も答えず、ただ手元のマグカップを傾けて一口啜った。
代わりに動いたのは、俺の背後に静かに立っていた財務長、セリアーナ・ヴァイスだった。
彼女は溜息を一つ吐くと、小脇に抱えていた分厚い革張りの帳簿を、ドンッ! と机の上に叩きつけた。
「半値で銀貨五枚? 随分と舐められたものですね、代表」
冷ややかなセリアーナの声に、モルディスは鼻で笑う。
「なんだいお嬢ちゃん。商売の『し』の字も知らない小娘が口を挟むんじゃ――」
「現在の王都周辺における大麦の末端価格は、五十ポンドにつき銀貨十二枚。ここから一番近い中立都市ガレリアでの相場でも、銀貨十枚は下りません」
「なっ……」
セリアーナは帳簿を開き、濁りのないアメジストの瞳でモルディスを射抜いた。
「バルドからガレリアまでの陸路は三日。荷馬車一頭の維持費と御者の日当、そして裏ルートを通るための国境警備兵への袖の下を計算に含めても、五十ポンドあたりの輸送コストは銀貨一枚半。つまり、あなたが提示した銀貨五枚での買取は、リスク代を差し引いても不当に三枚半以上の利益を中抜きしようとする、強盗紛いのぼったくりです」
「な、何を馬鹿な……っ! 裏街道の相場を、適当な素人計算で――」
「素人? 私を誰だと思っているんですか。元・商業ギルド連盟第一級会計監査官の計算に、一厘の狂いもありません」
「だ、第一級会計監査……っ!?」
モルディスの額から、滝のような脂汗が噴き出した。
刀を突きつけられるよりも恐ろしい『数字による暴力』を前に、悪辣な流れ商人は完全に言葉を失い、顔面を蒼白にさせている。
「……セリアーナ、そのくらいにしておけ。彼が息をしていない」
完全に盤面を制圧したところで、俺はマグカップを置き、ゆっくりと口を開いた。
「モルディス。俺はお前を潰したいわけじゃない。むしろ、お前のその裏ルートを通れる足を高く評価しているんだ」
「へ……?」
「俺たちは現在、五十ポンドの麦袋を百個、余剰資産として抱えている。これをすべてお前に預けよう」
俺の言葉に、モルディスは目を見開いた。
「あ、預けるって……じゃあ、買い取らなくていいと?」
「ああ、金貨はいらない。だが無償というわけじゃない」
俺は一枚の羊皮紙を彼の方へ滑らせた。
「俺たちが提示する条件は『物々交換』だ。お前はこの麦をガレリアの街で売り払い、得た利益で大量の『鉄屑』『魔喰石』、そして『高度な工具類』を買い付け、ここへ運べ。俺が欲しいのは金貨じゃない。この街のインフラをさらに発展させるための資材だ」
「麦と、鉄屑の交換……」
「もちろん、お前の利益分は正当に保証する。それに、この街の地下には天候に左右されず無尽蔵に麦を生み出すプラントがある。この契約書にサインすれば、お前は今後一切仕入れの心配をすることなく、うちの麦の独占販売権を得ることになる」
既存の商業ギルドの相場を根底から覆す、提案。
リスクはある。だが目の前に積まれた完璧な品質の麦と、それを無尽蔵に生み出し続けるという俺の言葉が真実ならば――商人として乗らない手はないはずだ。
「……あんた、本気で商業ギルド連盟を相手に経済戦争を仕掛けるつもりかい?」
「戦争? いや、ただの『競争』だ。奴らの腐ったシステムより、俺たちのシステムの方が優れていると証明するだけのな」
モルディスは震える手で羽ペンを握りしめた。
商人としての直感が恐怖とともに警鐘を鳴らしているが、同時に、魂の底から湧き上がる莫大な富の予感に抗えずにいる。
「……乗った。あんたのその狂った計画、この俺の馬車で運んでやるよ!」
モルディスが羊皮紙にサインを殴り書きした。
その瞬間、セリアーナが満足そうに帳簿をパタンと閉じた。
「契約成立です。第一陣の積み込みは、明日朝一番で行います」
俺は立ち上がり、執務室の窓の外を見下ろした。
荒野から吹き込む風が、バルドの街の煙を遠くへと運んでいく。
限界集落という閉鎖された水槽の中で育ったネクサスという組織が、初めて外の大河へと血流を繋いだ瞬間だった。
「さあ、資材が届き次第、次はヴィンデールの出番だ。まだまだ、拠点の開拓は始まったばかりだからな」
俺の低い呟きは、新たな歯車の回る音に静かに掻き消されていった。




