15:最強の共犯者
旧坑道の浅層から吹き抜ける風には、青々とした麦の香りが混じっていた。
ネクサスの第一倉庫の前では、朝から男たちの荒い息遣いと、麻袋が積まれる鈍い音が響いている。
「おう、次! どんどん運べ! 地下プラントの第二陣の刈り入れが終わる前に、第一陣の麦を全部倉庫にぶち込むぞ!」
ガルムが、汗だくになりながら指示を飛ばしていた。
彼の足元には、アンナたちが縫い直した麻袋に詰められた大量の大麦が、山と積まれている。
俺は少し離れた木箱の上に腰掛け、その様子を静かに眺めていた。
彼らの肉体的な働きぶりは申し分ない。
だが、現場の熱気だけで組織が回る時期は、とうの昔に終わっているのだ。
「――そこまで。作業を止めなさい」
喧騒を切り裂くような、冷たく凛とした声が響いた。
振り返ったガルムたちの前に立っていたのは、数日前に行き倒れていた女――セリアーナ・ヴァイスだった。
アンナの仕立直した簡素で動きやすい濃紺の服に身を包んだ彼女は、泥だらけの男たちを前にしても一歩も引かず、その手には分厚い『革張りの帳簿』と羽ペンが握られている。
「あぁ? なんだアンタ、新入りの帳簿係か? 悪いが今は忙しいんだ。麦の数は、後で俺が適当に数えて報告してやるから――」
「適当? 今、適当と言いましたか」
セリアーナのアメジストの瞳が、スッと細められた。
その瞬間、魔物と対峙した時のような底知れぬ圧に、巨漢のガルムが一瞬だけたじろぐ。
彼女はツカツカと歩み寄り、ガルムが今まさに荷馬車に積もうとしていた麻袋を指差した。
「そこのあなた。その袋には、麦が何ポンド入っていますか?」
「は? えーと……大体、五十ポンドくらいじゃねえか? 持った感じ、いつもと同じくらいだしよ」
「……持った感じ」
セリアーナはまるでこの世の終わりのような顔をした後、近くにあった天秤ばかりの前に麻袋を引きずっていき、乱暴にドンッと乗せた。
天秤の反対側には、古い鉄の分銅が乗っている。
「よく見なさい! 分銅側がわずかに下がっている! この袋は四十八ポンドしかありません!」
「に、二ポンドくらい、いいじゃねえか。誤差だろ、誤差」
ガルムが頭を掻きながら笑って誤魔化そうとしたが、それはセリアーナの導火線に火をつけただけだった。
「誤差!? いいですか、たかが二ポンドと侮るなかれ! 一日五十袋の輸送で百ポンドの計算漏れ。それが十日続けば千ポンド……労働者一人を二年以上も養えるだけの食料が、帳簿の上から『消滅』するんですよ! それで誰かが餓死しても、あなたは誤差だと笑うんですか!」
「うっ……」
「そもそも、あなたたちは計量の概念を軽視しすぎです! 『ポンド』という単位は、かつて大陸を統一した旧帝国が、経済を回すために定めた『標準鉄分銅』の絶対的な質量に由来しています。銀貨三百二十枚分の質量……それは単なる重さではなく、人々の信用と命を繋ぐために先人たちが定めた『規格』そのものなのです!」
一息にまくしたてられ、ガルムをはじめとする作業員たちは借りてきた猫のように背筋を伸ばし、完全に押し黙った。
腕っぷしなら彼らの方が百倍強い。
だが、数字と規格という絶対的な真理の前では、いかなる暴力も沈黙するしかないのだ。
「今日から、私の目の前で厳密に計量していない物資の移動は一切認めません。袋の重さはすべて正確に五十ポンドに統一し、縫い糸の色で収穫日を分類しなさい。……さあ動いた動いた! やり直しです!」
「へ、へえっ!!」
セリアーナの号令に、大男たちが慌てて麻袋を解き、慎重に計量をやり直し始めた。
俺は口元を覆い、こみ上げてくる笑いを必死に殺していた。
(完璧だ……)
俺が求めていた『文官の頭脳』は、単に計算が早いだけでは駄目なのだ。
現場のどんぶり勘定を力ずくでねじ伏せ、組織全体に『数字への敬意と恐怖』を植え付けられるエゴイストでなければならなかった。
彼女はまさに、俺の分身としてこの街の血流を管理する最高の心臓だった。
「……随分と楽しそうですね、代表殿」
現場に計量の指示を出したセリアーナが、俺の座る木箱の横にやってきて溜息をついた。
「いや、頼もしい右腕を手に入れた喜びを噛み締めていたところだ。体調はもういいのか?」
「ええ、おかげさまで。あなたのような素人の計算書を見せられた怒りで、熱も吹き飛びましたから」
セリアーナは皮肉げに口角を上げると、抱えていた真新しい革張りの帳簿を開き、俺の前に差し出した。
そこには、俺が書きなぐったミミズの這ったような計算式とは違う、整然と並んだ美しい数字の羅列があった。
「この三日間で、現在のネクサスの全資産、食料備蓄、魔喰石の在庫、そして人員のカロリー消費をすべて再計算し、複式簿記の元帳に書き起こしました。結論から言います」
彼女の指先が、帳簿の右下の数字をトントンと叩く。
「あなたの計算は甘すぎました。現場の無駄を省き、適正な配給量に再調整した結果、次の収穫期までの麦の備蓄には『十五パーセントの余剰』が出ます」
「十五パーセント……」
俺の目が細まる。
つまり、百五十人の従業員を養ってもなお、無駄なく蓄えられるだけの余剰生産物が生まれ始めたということだ。
インフラが完全に機能し、限界集落が『自立』を通り越して『富の蓄積』のフェーズへと移行した決定的な証拠だった。
「代表。この余剰麦は、倉庫に寝かせておくには惜しい資産です。魔喰石の劣化予測に備え、新たな機材や資材を外から買い入れるための資金に換えるべきです」
セリアーナは帳簿をパタンと閉じ、濁りのないアメジストの瞳で俺を真っ直ぐに見据えた。
それは追われて行き倒れていた女の目ではない。
王都の金融を監視していた、冷徹な一級監査官の顔だった。
「……同情するよ。俺たちは今まで、この街という閉鎖環境の中で血を回してきた。だが、十分に通い詰めたなら、次は外貨と資材を稼ぐ番だ」
俺は立ち上がり、コートの埃を払った。
「さあ財務長。記念すべきネクサスの最初の輸出だ。俺たちのこの黄金の麦を、どこに売りつけようか」
「商業ギルド連盟の正規ルートは使えません。ですが……私に一つ、心当たりがあります。彼らの鼻を明かしてやれる、とびきりの相手が」
セリアーナの唇が、不敵な弧を描く。
剣を抜かずとも、数字と契約で世界を切り裂く。
俺の思想を体現する最強の共犯者が、ここに誕生した。




