14:一厘の狂気
急造された長屋の一室は、アンナたちが森から摘んできた香草を煮出す匂いで満ちていた。
土間に敷かれた藁のベッドの上に、一人の女が横たわっている。
ガルムの報告通り、彼女が身に纏っているのは王都の貴族や豪商の妻女が着るような、上質な絹のドレスだった。
だが、その裾は泥と血で汚れ、ところどころが鋭利な刃物で引き裂かれている。
長きにわたる逃亡生活。
あるいは、執拗な追跡者からの逃走。
彼女の無惨な姿が、背後にある修羅場の過酷さを物語っていた。
「……ひどい熱です。それに、足の裏は豆が潰れて血だらけで。どれだけ歩き続ければこんなことになるのか」
ベッドの傍らで濡れた布を絞っていたアンナが、痛ましそうに顔を歪める。
俺は腕を組み、静かに横たわる女を見下ろした。
年齢は俺と同じか少し下くらいだろうか。
土埃を拭い去った素顔は整ってはいるが酷く青白く、頬は痩せこけている。
だが、俺の視線は彼女の容姿ではなく、その胸元に固く抱き抱えられている『分厚い革張りの本』に注がれていた。
「……アンナ。体を拭く時も、その本は離さなかったのか?」
「はい。少しでも引き剥がそうとすると、意識がないのにうわ言で叫び出すんです。『奪わせない』って……。よっぽど大切なものなんでしょうか」
俺はしゃがみ込み、その革張りの本の表紙を観察した。
擦り切れた装丁。
無数に付箋が挟み込まれた小口。
そして微かに漂うインクと羊皮紙の匂い。
魔導書でも、祈りの経典でもない。
それは紛れもなく、長年使い込まれた『帳簿(元帳)』だった。
ふと、女の細い眉が微かに動いた。
閉じていた瞼が震え、ゆっくりと開かれる。
濁ったアメジストのような瞳が、焦点の合わないまま天井の木組みを彷徨い――。
「……っ!?」
次の瞬間、女は弾かれたように跳ね起きた。
彼女はすぐさま自分の胸元を探り、革張りの帳簿がそこにあることを確認すると、喉の奥でヒュッと引き攣った息を吐き出し、ベッドの隅へと後ずさった。
「ここは……!? あなたたちは誰です! 商業ギルドの追手ですか!」
張り裂けるような声だった。
恐怖に震えながらも、彼女は帳簿をかばうように抱きしめ、俺たちを鋭く睨みつけている。
「落ち着け。ここは旧鉱山都市バルド。商業ギルドの息などかかっていない、ただの辺境の街だ。お前は街の入り口で倒れていたところを、うちの警備班に拾われた」
「……バルド? 嘘です。あんな死んだ街から、こんなに温かいスープの匂いがするはずがない……」
女は混乱したように周囲を見回した。
無理もない。数週間前まで、ここは泥水をすするだけの限界集落だったのだから。
「信じるか信じないかはお前の自由だ。だが、お前を追っている連中が誰であれ、この街に手出しはさせない」
俺は立ち上がり、彼女を見下ろした。
「俺はノア・レクシオン。この街を買い上げ、インフラを回している民間公共組織『ネクサス』の代表だ。……お前の名前は?」
女は俺の鋭い視線を真っ直ぐに受け止めた。
怯えはある。
だが、その瞳の奥には決して折れない、鋼のような芯の強さが光っていた。
「……セリアーナ・ヴァイス。元・商業ギルド連盟王都本部の、第一級会計監査官です」
第一級会計監査官。その肩書きを聞いて、俺の口角が自然と吊り上がった。
(ビンゴだ……)
大陸の物流と金融を牛耳る商業ギルドの中枢、その金の流れを監視するトップエリート。
「なるほど。そんなエリートが、どうしてこんな最果てで行き倒れている? しかも、血まみれのドレスで」
「……これを、守るためです」
セリアーナは、抱きしめていた帳簿をさらに強く握りしめた。
「連盟の重鎮たちが関税を誤魔化し、裏帳簿を使って大規模な不法横領を行っていました。私は……それを告発しようとして、命を狙われたんです」
「正義感か。くだらないな」
「正義感じゃありません!」
俺の言葉に、セリアーナは激昂したように声を荒げた。
「数字が『嘘』をついていたからです! 帳簿の右と左が合わない! 誰かの私欲のせいで、完璧なはずの複式簿記の美しさが泥で汚されていた! 会計士として、計算の狂いを放置することなど死んでも許せなかっただけです! この帳簿は……私の命より重いんです!」
狂気だ。
自分の命が狙われると分かっていても、帳簿の数字が合わないことの方が許せない。
金への執着ではなく、完璧なシステムと数字への異常なまでの偏執狂。
俺が探し求めていた『文官の頭脳』の条件を、彼女は完璧に満たしていた。
「アンナ。彼女にスープを飲ませてやってくれ。少し話の長くなる夜になりそうだ」
俺はそう言うと、持っていた書類の束――徹夜で格闘していた、ネクサスの資材管理とカロリー計算の羊皮紙を無造作にベッドの傍らの木箱に置いた。
わざと、文字がセリアーナの方へ向くようにして。
アンナが温かいスープの入った木椀を差し出す。
セリアーナは恐る恐るそれを受け取り、一口すむと、あまりの温かさと旨味にポロポロと涙をこぼした。
極限状態の飢えと疲労が、ようやく和らいだのだろう。
だが。
俺が予想した通り、彼女の視線は数秒後、木箱の上に置かれた俺の計算書へと吸い寄せられた。
スープをすする手が止まる。
アメジストの瞳が、羊皮紙に書かれた無数の数字の羅列を猛烈な速度で追い始めた。
「……な、なんですか、これ」
セリアーナの表情から先ほどの疲労や恐怖が完全に消え去り、プロの監査官としての冷徹な顔つきに変わった。
「うちのギルドの備蓄と、労働力の損耗を予測した計算式だが」
「ひどい……ひどすぎます! 文字は乱雑、項目の分類も大雑把! なにより、これ……!」
彼女は椀をアンナに押し付けると、ベッドから身を乗り出し、血の滲む指で俺の羊皮紙を叩いた。
「この『大麦の消費予測』! 百五十人の労働力に対して一日に一・二ポンドの消費としていますが、重労働班と軽作業班のカロリー消費係数の掛け算が間違っています! この計算だと三日後の備蓄が実際の在庫よりも二ポンド分、計算上で浮いてしまいますよ! 死に直結する致命的な誤差です!」
「……」
「それにこの『魔喰石の劣化予測』! なぜ単利計算なんですか!? 使用時間に応じて劣化速度が加速するなら、複利で計算しないと十日後の出力低下を見誤ります! ああもう、誰ですかこんなずさんな帳簿をつけた素人は!! 見ているだけで虫酸が走ります!」
数日間まともに飯も食わず、倒れる寸前まで追い詰められていた女が、たった一瞥で俺の徹夜の計算の欠陥を見抜き、説教を始めている。
アンナが目を丸くして固まっていた。
だが、俺はこみ上げてくる笑いを必死に押し殺していた。
「……なるほど。確かに俺のミスだ。俺は剣を振るう片手間で数字をいじってきただけの、ただの素人だからな」
「代表自らが帳簿を!? 組織の長が経理の末端作業まで抱え込むなんて、組織管理の基本から外れています! パンクするのは時間の問題ですよ!」
「同感だ。だから俺は今、猛烈に感動している」
俺はベッドの前にしゃがみ込み、説教モードに入って息巻いているセリアーナと真っ直ぐに視線を合わせた。
「セリアーナ・ヴァイス。お前が商業ギルドから盗み出したその裏帳簿は、いずれ奴らの首を絞めるための最高の『爆弾』になる。俺がお前を匿い、その帳簿という名の剣を振るう機会を与えてやる」
「え……?」
「お前はもう、行き場のない逃亡者じゃない」
俺は、彼女の泥だらけの手にネクサスの紋章が刻まれた銅貨を一枚握らせた。
「俺の狂った帳簿を、お前のその執念で完璧な芸術に仕立て直せ。今日からお前を、民間公共組織『ネクサス』の財務長として雇用する」
セリアーナは、握らされた銅貨と俺の不敵な笑みを交互に見つめた。
最果ての死んだ街。
狂ったように湧き出る熱湯。
黄金の大麦の匂い。
そして、商業ギルドを平然と敵に回すと言い放つ、底知れぬ男。
「……とんでもない場所に、拾われてしまったみたいですね」
セリアーナは大きなため息をつきながらも、そのアメジストの瞳にはかつての鋭い光と生気が確かに戻っていた。
ネクサスの心臓を動かす、最強の『頭脳』を手に入れた瞬間だった。




