13:空白の座席
鋸が真新しい木材を噛みちぎる小気味よい音が、朝の冷たい空気を震わせていた。
つい先日まで飢えと絶望の呻き声しか聞こえなかった廃棄都市バルド。
その広場は今、凄まじい熱気と喧騒に包まれている。
「おう、そっちの丸太を支えろ! 重心をずらすなよ!」
数日前の過酷な『適性検査』を突破した元木こりのトマスが、汗だくになりながら声を張っていた。
彼の指示のもと、作業員たちが手際よく木材を組み上げていく。
雨風を凌ぐのがやっとだったスラムの薄汚いテント群は解体され、ヒノキの端材と泥を固めた、簡素だが頑丈な『長屋』へと次々に姿を変えつつあった。
広場の別の一角では、火傷の痕を持つ女アンナを中心に、数人の女性たちが車座になって針を動かしている。
男臭かった現場に、彼女たちのような細やかな手仕事ができる者が加わった恩恵は計り知れない。
ほころびて使い物にならなかった麻袋は次々と修繕され、地下プラントで刈り取られた大量の麦を安全に保管するための『資産』へと生まれ変わっていた。
「いいぞお前ら! その調子で今日中に屋根を張っちまえ!」
元ゴロツキのガルムが、見違えるように立派になった長屋の柱を叩き、豪快に笑う。
新しく加わった三十八人の労働力。
それは単なる『数』の増加ではなく、大工仕事、裁縫、資材の仕分けといった『専門技術』の拡張でもあった。
歯車が噛み合い、街という巨大なシステムが確かな産声を上げて回り始めている。
だが——その現場の熱気から完全に隔離された急造の執務室で、俺は一人、静かな地獄と戦っていた。
「……くそっ。第三倉庫の湿度計算が合わない。誰だ、木材の乾燥に地下の排熱を勝手に使った奴は……」
俺は血走った目で羊皮紙を睨みつけ、インクで黒く染まった指先で羽ペンを走らせた。
机の上は文字通り『紙の山』に埋め尽くされている。
百五十人に膨れ上がった人員のシフト表。
三度の食事を維持するための厳密なカロリー計算。
魔喰石の劣化予測グラフ。
そして、地下プラントの土壌に撒く燐肥の配合比率。
人が増えれば、当然ながらそれを管理するための『変数』は指数関数的に跳ね上がる。
先日の適性検査で、俺は泣き叫ぶ難民たちを無情に切り捨てた。彼らを無差別に救わなかったことに後悔はない。
同情や慈善で分け与えたパンは、数日で必ず尽きる。
だが、彼らに役割を与え、需要と供給の歯車に組み込めば、彼らは俺が死んだ後でも自らの力で食い繋いでいくことができる。
冷徹に数と価値を弾き出し、破綻しないシステムを作り上げること。
それこそが、ただ剣を振るうことしかできなかった俺が見つけた、この腐った世界での唯一の救済なのだ。
しかし、その救済を維持するための代償が、今の俺の肉体を容赦なく削り取っていた。 丸二日、まともに眠っていない。
頭の奥で鈍い痛みが脈打ち、数字の羅列が時折、意味のない虫の群れのように見え始めていた。
「ノアの兄ちゃん、起きてるか?」
軋むドアが開き、獣人の少年レオが顔を出した。
彼の手には木製のマグカップが二つ握られている。
中からは、アンナたちが近くの森の入り口で摘んできたという香草を煮出した温かい茶の匂いが漂っていた。
「……悪いな、レオ。そこに置いてくれ」
「兄ちゃん、目の下真っ黒だぞ。ヴィンの奴と同じ顔になってる」
レオは呆れたようにマグカップを置き、机を埋め尽くす羊皮紙の山を覗き込んだ。
「なぁ、俺にも手伝わせてくれよ。俺だって最近、百までなら数字を数えられるようになったんだぜ。釘の数くらいなら合わせられる」
「百まで数えられるのか。大した成長だな」
俺は少しだけ口角を上げ、手元の羊皮紙を一枚、レオの方へ滑らせた。
「なら、この計算を頼む。百五十人の労働者が一日に一人あたり一・二ポンドの麦を消費する。現在の備蓄が三千ポンドだとして、次の地下プラントの収穫まであと十四日。一日の消費量を何割削れば、餓死者を出さずに十四日後を迎えられる?」
「ひゃくごじゅうの……いってんに……?」
レオの猫耳がピクリとも動かなくなった。
数秒後、彼の頭からぷしゅぅ、と幻の煙が上がるのが見えた。
「……無理だ。剣で魔物を百匹斬る方が、まだ簡単だ」
「だろうな。お前は現場でガルムたちをまとめる小頭として育ってくれればそれでいい」
俺は苦笑し、レオから羊皮紙を回収した。
無理もない。管理会計や複式簿記の概念など、スラムでその日暮らしをしてきた彼らに理解できるはずがないのだ。
「手足となる労働力は足りた。ヴィンという技術の要もいる。だが、この組織には致命的に欠けているものがある」
「欠けてるもの?」
「ああ。集まった血液……物資と金を循環させ、帳簿という神経を繋ぐ『文官の頭脳』だ。このままじゃ、街が大きくなる速度に俺の事務処理能力が追いつかなくなって組織がパンクする」
英雄と呼ばれた時代もそうだった。
いくら前線の兵士が強くても、後方で兵站を計算する文官が一人倒れれば、部隊は簡単に全滅する。
今のネクサスに必要なのは、剣が振れる戦士ではない。
数字の狂いに命を懸けられる、偏執狂的な『会計の専門家』だ。
俺が重い溜息を吐き、再びペンを握り直そうとした、その時だった。
「ノア!! 大変だ!!」
階段をドタバタと駆け上がる派手な音とともに、ガルムが執務室に転がり込んできた。
「どうした。木材が足りなくなったか」
「違う! 難民の列の最後尾で倒れてた奴を長屋に運び込んだんだが……妙なんだ!」
俺は眉をひそめた。
「難民の怪我人か? 応急手当はアンナたちに任せろと言ったはずだ」
「いや、ただの難民じゃねえ。ボロボロに汚れて血がついてはいるが、着ている服は王都の貴族が着るような上等な絹のドレスだ。……女だよ」
ガルムの言葉に、俺のペンが止まった。
こんな辺境の限界集落に、貴族の女が行き倒れている?
「それに、一番妙なのは……その女、意識がねえのに、分厚い『革綴じの帳簿』だけを後生大事に胸に抱え込んで離さねえんだ。俺たちが引っ張っても、岩みたいに指が強直してやがる」
「……帳簿、だと?」
俺は椅子から立ち上がった。張り詰めていた眠気が一瞬にして吹き飛ぶ。
「上等な服に身を包んだ女が、命の次に大事な帳簿を抱えて、この最果ての街に流れ着いた……」
俺は窓の外、荒野へと続く道の先を見つめた。
ただの迷子ではない。
その女からは、強烈な『数字』と『修羅場』の匂いがする。
(手足の枠は埋まったが、頭脳の枠は空っぽだ……)
俺は机の上の、忌々しい羊皮紙の山をトントンと指先で叩いた。
もしその女が、俺の求める『偏執狂』であるならば。
「……ガルム、案内しろ。俺の『右腕』になる女かもしれない」
俺はコートを羽織り、新たな歯車が待つ長屋へと足を踏み出した。




