12:冷徹な選別
荒野を渡る風が、微かな土埃とともに『それ』を運んできた。
バルドの街の入り口、崩れかけた石壁の向こうに、黒い染みのような影がいくつも揺れている。
「……来やがったな」
元ゴロツキの巨漢ガルムが、油汗を拭いながら重い鉄棍を握り直した。
彼の背後には『ネクサス保安部門』の腕章をつけた十数人の男たちが、急造の木製バリケードを背にして分厚い人壁を作っている。
影の正体は、人間だった。
一人や二人ではない。
ざっと見積もって百人以上。 近隣の寒村で畑を失った農民、魔物の氾濫で故郷を追われた難民、そしてどこかの街で弾かれたスラムの住人たち。
皆一様に頬がこけ、ボロ布を纏い、落ち窪んだ瞳に飢えの狂気を宿している。
昨日、バルドの広場で焼き上がった大量のパン。
その白煙と甘い香りが風に乗り、周囲数十キロの荒野を彷徨う飢えた獣たちを、この死んだ街へと引き寄せてしまったのだ。
「メシ……メシをくれ……っ!」
「匂いがしたんだ! この街にはパンがあるんだろ!」
バリケードの向こう側から、悲鳴にも似た懇願が響く。
最前列にいた男が、丸太にすがりつこうと手を伸ばした。
「おいコラ! 下がれ! ここから先はネクサスの敷地だぞ!」
ガルムが威嚇の怒号を上げ、丸太を鉄棍で叩く。
だが、飢餓がもたらす執念は暴力への恐怖を凌駕していた。
難民たちは後ずさるどころか、さらに群れとなって押し寄せ、ミシミシと木組みの防壁が軋み始めた。
「ノアの兄ちゃん! このままだと押し潰されるぞ!」
俺の隣で、レオが猫耳を伏せて叫ぶ。
俺は片手に羊皮紙の束を、もう片手にインク壺と羽ペンを持ち、ゆっくりとバリケードの最前列へと歩み出た。
ガルムたちが道を空ける。
俺は丸太の防壁の前に木箱を置き、そこに羊皮紙を広げて、冷ややかに群衆を見下ろした。
「パンはある」
俺の静かな、しかし確かな一言で、百人の難民たちの動きがピタリと止まった。
「だが、お前たちに恵んでやる残飯はない。俺たちは慈善事業家じゃない。ここは『ネクサス』という名の職場だ」
ざわめきが起こる。俺は羽ペンの先をインクに浸し、羊皮紙に横線を一本引いた。
「これより『労働価値の適性検査』を行う。合格した者だけをこの街の従業員として雇い入れ、今日の夕飯と寝床を保証する。……不合格の者は、そのまま荒野へ帰れ」
それは、死刑宣告にも等しい冷酷な宣言だった。
「ふ、ふざけるな! 見殺しにする気か!」
「こっちには小さな子供がいるんだぞ! お願いだ、パンの切れ端でもいい、恵んでくれ!」
赤ん坊を抱いた痩せこけた女が、地面に額を擦り付けて泣き叫ぶ。
その悲痛な声に、バリケードの内側にいるレオが顔を歪めた。
つい数週間前まで、彼自身が路地裏でああして泥水をすすっていたのだ。痛いほど気持ちが分かるのだろう。
「ノアの兄ちゃん……地下の麦は、まだ余ってるだろ? 少しだけでも分けてやれないのか……?」
レオが俺の袖を引く。俺は手元の羊皮紙――備蓄と消費のバランスシートから目を離さず、淡々と答えた。
「現在の地下プラントの収穫量と魔導ポンプの出力では、百五十人を養うのが限界だ。現在ネクサスの従業員は百十二人。つまり、俺が新しく『買える』命は、あと三十八人分しかない」
「……っ」
「もし同情でここにいる百人を全員中に入れれば、三日後には地下の土壌から魔力が枯渇し、麦は全滅する。結果、お前やガルムたちを含めた全員が共倒れだ。……俺の仕事は、かわいそうな人間を無差別に救うことじゃない。システムを破綻させず、回し続けることだ」
残酷だが、それが数字という絶対的な真理だ。
俺は袖を引くレオの手を振り払い、群衆の先頭にいた四十代ほどの痩せた男を指差した。
「お前。名前と、前の仕事は」
「えっ……お、俺か? トマスだ。昔は木こりをやってたが、魔物が出て森に入れなくなって……」
「木こりか。ガルム、そこの丸太を持ってこい」
指示を受けたガルムが、重い丸太を男の前に転がす。
「トマス。その丸太を向こうの線まで運べ。体力だけでなく、木材の重心を理解しているかを見る。落とさずに十往復できたら採用だ」
「そ、そんな……! 三日もまともに食ってないんだぞ! この腕で丸太なんて持てるわけが——」
「持てないなら不合格だ。次」
俺が冷たく言い放つと、トマスは血走った目で丸太に飛びついた。
必死に歯を食いしばり、泥にまみれながら重い木材を持ち上げる。
その姿は滑稽なほど必死だった。
「次は、そこの腕に火傷の痕がある女。裁縫か、火の扱いはできるか?」
「で、できます……! 昔、染め物屋で煮炊きを……!」
「なら、そこの麻袋十個にほころびがある。これを一刻以内にすべて実用に耐えうる強度で縫い直せ。出来栄えで判断する」
情けなど一切ない。年齢も性別も関係ない。
俺が見ているのは、彼らが『ネクサス』というインフラの歯車として、どのような価値を生み出せるかという一点のみだ。
力のある者には土嚢運びを。指先の器用な者には、ヴィンデールの工房から出た真鍮部品の選別を。数字の数え方を知っている者には、釘の数の仕分けを。
「……不合格だ。釘の数が三つ合っていない。集中力が欠如している証拠だ。次」 「頼む! もう一回だけ、もう一回だけチャンスを!」
すがりつく男を、ガルムたちが冷酷に引き剥がす。
広場に絶望の嗚咽と、採用を勝ち取った者の安堵の涙が交錯する。
レオは俺の隣でインクの補充をしながら、その凄惨な光景をただ見つめていた。
彼は気づいていた。
このノア・レクシオンという男が、ただの優しい英雄などではないということに。
誰かの命を切り捨てる決断を、一瞬の躊躇いもなく『数字』で行える、底知れぬ怪物なのだと。
「……十往復、終わった……っ! 終わったぞ……!」
最初の男トマスが、口から泡を吹きながら丸太を放り投げ、地面に倒れ伏した。
限界を超えた労働。
だが、その目は確かに俺を見上げ、生への執着を燃やしている。
俺は羊皮紙の『合格者』の欄に、羽ペンで名前を書き込んだ。
「合格だ。トマス、お前をネクサスの木材調達班として雇用する」
俺は懐から、ネクサスの紋章が刻まれた銅貨――街の中でだけ通用する労働証を取り出し、彼の泥だらけの手に握らせた。
「ガルム。こいつに水とパンの半分を食わせろ。その後は地下の温水で泥を洗い流させろ」
「へえっ! おい新入り、立て! メシの時間だぞ!」
ガルムに肩を担がれ、奥の広場へと連れて行かれるトマスの背中を、残された難民たちが食い入るように見つめている。
彼らの目に宿っていたのは、ただの飢えの狂気ではなくなった。
――この冷酷な男の出す課題をクリアすれば、本当にメシが食えるのだ。
その事実が、彼らの絶望を『労働への執念』へと変換した。
パニックを起こしていた群衆が自発的に列を作り始める。少しでも自分の価値をアピールしようと、背筋を伸ばし、泥にまみれた顔を拭う者さえいた。
「……さあ、次は誰だ。俺に価値を証明してみせろ」
俺は新しい羊皮紙を広げた。
慈悲で繋ぐ命は脆い。
だが、己の労働で勝ち取った対価は、確実に彼らの血肉となり、この街の礎となる。
三十八名の採用枠が、刻一刻と埋まっていく。
――その時だった。
静かに並ぶ難民の列の最後尾で、ドサリと重い物が倒れ伏す音が響いた。
「おい、どうした!? 人が倒れたぞ!」
「泥だらけだ……いや、待て、この女……服が血で染まって……!?」
ざわめく群衆の隙間から見えたのは、ボロボロの旅羽織の隙間から、泥と血に汚れた豪奢なドレスを覗かせている、一人の女の姿だった。
俺は羽ペンを止め、その倒れ伏した女へと視線を向けた。
冷酷な選別の現場に舞い込んだ、明らかに異質な『ノイズ』――。
これが、ネクサスの運命を大きく加速させることになる、もう一つの出会いだった。




