第22話:土曜日、九百ポイントの対価と「おんぶ」の真意
土曜日の昼下がり。一条凪は、駅前の広場で待ち合わせの時計を見上げていた。
昨日の放課後、一ノ瀬舞夜から「凪くん、最近運動不足でしょう? 私が直々に『体力作り(コーチング)』をしてあげるわ」と誘われたのだ。
(舞夜がコーチングなんて珍しいな。……でも、確かに最近はみんなに甘やかされっぱなしだったし、少し体を動かすのは良いことだよね)
凪は、動きやすさを重視したジャージ姿で現れた。しかし、人混みを割って現れた舞夜の姿を見て、彼は思わず絶句した。
「……お待たせ、凪くん。準備はいいかしら?」
舞夜は、コーチングとは程遠い、淡いラベンダー色のワンピースに白いカーディガンを羽織っていた。さらりと流れる黒髪からは上品な香水の匂いが漂い、足元は歩きやすそうではあるが、同時にお洒落な編み上げのブーツだ。
「……舞夜。あの、今日は体力作り……だよね? その格好で大丈夫?」
「あら、形から入るのも大事よ、凪くん。……私の『900ポイント』……じゃなくて、私の『真心』を込めたプランなんだから。文句を言わずに付いてきなさい」
舞夜は不敵に微笑むと、凪の腕を躊躇いなく取った。
裏:舞夜のスマホに通知。
『【愛の証明】休日デートの強制執行:落札済権利の行使(900pt相当)』
(……ふふっ。900ポイント。先週までの私なら、この額を出すのに一ヶ月は躊躇したでしょうね。でも、今の私にはその価値がある。……一秒たりとも、誰にも邪魔させないわ)
舞夜が提示した「コーチング」の内容は、驚くほど過酷(甘美)なものだった。
「まずは心肺機能の強化よ」と称して、彼女は凪を連れてお洒落なセレクトショップを巡り、カフェの階段を上り下りし、さらには「エネルギー補給よ」とパフェを半分こして食べさせた。
「……舞夜。これ、本当にトレーニングなのかな? ただの買い物と買い食いに見えるんだけど……」
「失礼ね。私の歩調に合わせてエスコートするのは、立派な体幹トレーニングよ。……ほら、口元にクリームがついているわ。……あーん」
舞夜がスプーンを差し出す。凪は「……っ、自分でやるよ!」と顔を赤らめるが、舞夜の「私の900ポイントを無駄にするつもり?」という無言の気迫に押され、観念して口を開けた。
その光景を、噴水広場の植え込みの影から、血走った目で見つめる三つの影があった。
サングラスをかけ、スポーツ新聞で顔を隠した支倉聖奈と、怒りでバット(おもちゃ)をへし折りそうになっている藍澤凛、そして自販機の陰で震える瀬戸ほのかである。
「……あのおんぶ……じゃなくて『あーん』。私が30ptでおんぶした時はもっと神聖な儀式だったのに! 札束(900pt)で殴って、凪くんの純真を汚しているわ、あの女……!」
「聖奈、落ち着け! ボクだって……ボクだって球拾い(ほのかへの嫌がらせ)をさせてる間に、あんなことされるなんて……! おい、ほのか! もっとしっかり見張れよ!」
「無理ですぅ! 私、もう魚の漢字が頭の中を泳いでいて、何も考えられませんぅ……!」
監視網の怨嗟など知る由もない凪は、夕暮れ時、舞夜に連れられて静かな公園へとやってきた。
舞夜はベンチの前で足を止めると、おもむろに凪に背中を向けた。
「……疲れたわ。凪くん、私を背負いなさい」
「えっ? ……ああ、落札された……じゃなくて、頼まれてた『おんぶ』だね。……いいよ、乗りなよ」
凪が背中を向けて屈むと、舞夜はふわりと彼の背中にしがみついた。
3度目のおんぶ。だが、聖奈の時の「重み」とも、凪沙の「無機質な温もり」とも違う。舞夜の体温は高く、彼女の吐息が凪の耳元を熱く撫でる。
「……凪くん。あなたは、重いと思っているかしら? 私のことが」
「……いや。舞夜は……その、華奢だから、全然重くないよ。……ただ、なんだか今日は、君の気持ちが重いというか……熱い気がする」
凪の背中で、舞夜はポツリと独白した。
「……そうね。私は、あなたを誰にも渡したくないの。……たとえ、このルールが、この世界が壊れても。……札束で買えるものなら、私は全財産を投げ打ってでも、あなたの隣を予約し続けるわ」
「舞夜……? やっぱり、君たち、何かを競ってるよね? 最近のみんな、何かに取り憑かれたみたいに必死だ。……僕、何か力になれること、ある?」
凪の真っ直ぐな問いかけ。
舞夜は彼の首筋に顔を埋め、消え入りそうな声で答えた。
「……そうね。私たちは『あなた』という名の、この世で最も価値のある資産を奪い合っているのよ。……凪くん。あなたは、黙って価値を上げ続けていればいいの」
別れ際。凪は舞夜を見送り、一人で夜道を歩きながら考え込んだ。
「……価値を上げる? やっぱり、みんな受験の偏差値のことを言ってるのかな。……みんなを安心させるためにも、僕ももっと勉強して、良い成績を取らなきゃな」
常識人ゆえの、決定的な勘違い。
その夜、管理端末を操作する藍澤凛(1235pt)は、画面に表示された莫大な数値を眺めて不敵に笑っていた。
「……いいぜ、舞夜。たっぷり楽しんだみたいだな。……だがな、お前が今日放出したその900ポイントは、今、ボクの手元にある。……来週、ボクがどんな『筋肉ルール』で凪を独占してやるか、楽しみにしておけよ」
4桁のポイントという、かつてない暴力を背景にした「凛政権」の暴走が、月曜日から始まろうとしていた。




