第18話:火曜日、家事の嵐と「1.5倍」の誘惑
火曜日の朝。私立聖蘭学園の校舎に足を踏み入れた一条凪は、昇降口を抜けた瞬間に立ち込める「清潔な香り」に鼻を鳴らした。
普段の校舎なら、古い木材と埃、そして運動部の汗が混じり合った独特の匂いがするものだが、今日は違う。まるでホテルのロビーのような、微かな石鹸と除菌スプレーの香りが廊下に充満しているのだ。
(……美化週間、とかだったかな。みんな、朝から奉仕活動に余念がないね)
凪は感心しながら教室のドアを開けた。しかし、教室内の光景は彼の想像を遥かに超えていた。
そこには、腕に「風紀」ならぬ「家事」と書かれた自作の腕章を巻き、仁王立ちでクラスメイトたちの身だしなみを厳しくチェックする支倉聖奈の姿があった。
「あ、おはよう、聖奈。朝から気合が入ってるんだね。その腕章、どうしたんだ?」
「あら、凪くん。おはよう。……ちょうど良かったわ。今週は我が管理者権限により『生活環境改善週間』に指定したの。……ちょっと、そこへ立ちなさい。ネクタイが3ミリ右に寄っているわよ」
聖奈はそう言うと、吸い寄せられるように凪の至近距離まで踏み込んだ。吐息がかかるほどの距離に、凪は思わず身を引こうとしたが、聖奈の鉄の意志を感じさせる瞳に射すくめられる。
「あ、ありがとう。……自分でも直せるけど、なんだか申し訳ないな」
「ダメよ。凪くんの『外面』を整えるのは、このクラスの……いえ、私の義務よ。……ほら、これでよし。ついでに襟の汚れも……。あ、この第2ボタンの糸、少し緩んでいるわね。今すぐ直してあげるから、じっとしていて」
聖奈は魔法のようにポケットから裁縫セットを取り出すと、凪の胸元で銀色の針を鮮やかに踊らせた。わずか数十秒。
裏:聖奈のスマホが、勝利を告げる小気味よい音を鳴らす。
『【愛の証明】身だしなみの徹底管理:15pt獲得(家事ボーナス1.5倍適用)』
(……ふふっ。15ポイント、確実に回収完了。やっぱり「労働」こそが経済の基本。汗を流さずして、凪くんの隣に立つ資格はないわ……!)
聖奈が内心で勝利の美酒に酔いしれる中、窓際の席では一ノ瀬舞夜が、愛用の高級万年筆を指先で回しながら、その光景を苦々しく睨んでいた。
資産557ptを誇る彼女にとって、聖奈が定めた「物品提供ポイントの半減」と「労働ポイントの1.5倍」というルールは、まさに富裕層への懲罰的増税に他ならなかった。
(……いいわよ、聖奈さん。私が「汗を流して稼ぐ」ことなんてないとでも思っているのかしら? 資本主義の恐ろしさは、持てる者がその労働力すら買い叩くところにあるのよ)
プライドをかなぐり捨てた舞夜が、ついに動いた。彼女は凪が飲み終えた空のペットボトルを目ざとく見つけると、優雅な所作で椅子から立ち上がり、それをひったくるように回収した。
「凪くん。そのゴミ、私が分別して捨ててきてあげるわ。……あ、ついでに机の周りに落ちている消しゴムのカスも、このミニ掃除機で吸い取ってあげる」
「えっ? 舞夜がゴミ拾いなんて珍しいね。……美化意識、高いんだな。ありがとう、助かるよ」
『【愛の証明】廃棄物の回収・清掃:4.5pt獲得(3ptの1.5倍)』
(……4.5ポイント……! 小数点以下の端数が出るほど地味な稼ぎ。お嬢様と呼ばれたこの私が、ゴミ拾いで小銭を……! 屈辱だわ! でも、塵も積もれば山となるのよ!)
舞夜はゴミ袋を手に、震える手で「労働」という名の泥沼に足を踏み入れた。
昼休み。教室はもはや「三ツ星レストラン」の厨房と化していた。
聖奈のルールにより、今週は「手作りのおかず提供」に莫大なボーナスが設定されている。それを知っている者たちが、一斉に凪の机を包囲した。
「先輩ぃ! 今日のおかずは、消化に良い根菜の煮物ですぅ! あ、お口の端にタレが……私が、私が拭いて差し上げますぅ!」
瀬戸ほのか(143pt)が、どこから用意したのかフリル付きのエプロン姿で、凪の口元に高級ティッシュを突き出す。
「凪、魚の骨が心配だから、ボクが全部ピンセットで抜いておいてやったぜ。これなら喉に刺さる心配はゼロだ。ほら、食え!」
藍澤凛(185pt)もまた、野球の練習で鍛えた集中力を「鮭の解体」に全振りしていた。
「……みんな、家政婦の修行でもしてるのかな。……あ、でも本当に美味しいよ。ありがとう、みんな」
凪が一口食べるたびに、周囲で「チャリン」という幻聴のようなポイント獲得音が響き渡る。凪の純粋な感謝という名の通貨が、インフレを加速させながら各々の財布へと流れ込んでいった。
放課後。掃除の時間になっても、凪の周りからは人影が絶えなかった。
凪がホウキを持とうとすれば三人がかりで奪い取られ、バケツを持とうとすれば「腰を痛めますぅ!」と全力で制止される。結果として、凪は自分の机の周りで棒立ちしているしかなかった。
「聖奈。なんだか今日一日、至れり尽くせりだったよ。……おかげで、学校が家みたいに居心地いいよ。ありがとう」
「……家みたい、ですって?」
聖奈の脳内で、その言葉が劇的に変換された。
(家みたい……つまり、実質的な「同棲」宣言!? 凪くん、私をもう「帰るべき場所」として認識しているのね……!)
『【評価ボーナス】居住性の向上:30pt獲得』
聖奈は恍惚とした表情で、自らモップを高速回転させ始めた。
一方、ゴミ捨て場から泥まみれで戻ってきた舞夜は、汚れ一つない聖奈の幸せそうな顔を睨みつけた。
「いいわよ聖奈さん。今週、私を『労働者階級』に格下げしたこと、一生後悔させてあげるわ。……金曜日のオークション、私の資産は、あなたの『家事の結晶』をすべて札束で叩き潰すためにあるのよ」
富豪の逆襲と、現管理者の独裁。
そして、何も知らずに「今日の教室は本当に綺麗だったな」と満足げに帰宅する一条凪。
物語の経済圏は、聖奈政権の「過剰奉仕」によって、さらなる歪みを孕んで週末へと突き進む。
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■火曜日終了時の所持ポイント
一ノ瀬 舞夜:575pt(ゴミ拾い等により微増)
霧島 凪沙:279pt(居眠り掃除加点)
藍澤 凛:210pt(給食奉仕加点)
支倉 聖奈:238pt(家事独占により大幅回復)
瀬戸 ほのか:168pt(ドブ板営業)




