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第8話 囮

方針が変わったのは、ある会議の席だった。


「あの女には、既に接点のある人物がいます」


指先で、一枚の記録を机の上に滑らせる。

あの店への、頻繁な出入りの履歴。


「カイル中尉です。彼を、糸口に」


レインは、しばらく答えなかった。指を組み、机の一点を見ている。


窓の外では、輸送機が低く唸りを上げて過ぎていく。その震動が、床を通して靴の裏に伝わってきた。


ウイルスは待ってくれない――音が、そう急かしているようだった。


「だが、それは」


「穏便に済ませる手は尽きたかと」


「……穏便に済むなら、それが一番だろう」


低く、彼は言った。


「現状、我々は接触すらできていません」


苦々しさを隠さずレインの部下は言った。


「……最終手段として、彼を使う。傷つけはしない。話を聞いてもらうための、方便だ」


言い終えて、レインは短く息を吐いた。

その響きに、隠しきれない後ろめたさが混じっていたことに、部屋の誰も触れなかった。


任務は、任務だった。





数日後、カイルは巡回の途中で呼び出しを受けた。


「特別任務だ。詳細は現地で」


それだけの指示に従って、詰め所の裏の医務室へ向かう。

ドアを開けると、消毒液の匂いが鼻を突いた。

白衣の男が、愛想よく袖をまくらせる。


「軽い検診だ。すぐ終わる」


腕の内側に、冷たい消毒綿が触れ、続いて針先の硬い痛みが走った。

押し込まれる薬液の感触が、静脈を冷たく上ってくる。


異変は、数秒後だった。


指先が痺れ、部屋の輪郭が滲む。

天井の照明が、やけに眩しく尾を引く。

立っているつもりの膝が、もう床を捉えていない。


「……なん、だ、これ……」


崩れる体を、背後から誰かの腕が受け止めた。

天井の光が、ぐるりと流れて遠ざかる。

耳鳴りの奥で、誰かの声がした。


「すまない。これも任務だ」


その声を、カイルは意識の最後の縁で、確かに聞いた。





その夜、店に戻ったリラは、扉に指をかけた瞬間、動きを止めた。

鍵の掛かり具合が、掛けたはずの向きと違う。


指の腹が、その僅かな差を捉えていた。


音もなく中へ滑り込む。空気に、知らない人間の残り香が混じっていた。


革と、機械油と、規律の匂い。

昼間、坂の下から自分を見ていた、あの匂いだ。


カウンターの上に、一枚の紙が置かれていた。


――カイル中尉は軍で拘束した。第七訓練場まで、一人で来い。

  危害を加える意図はない。話をしたいだけだ。


読み終えて、リラはしばらく動かなかった。指先から、体温がゆっくりと引いていく。

紙の縁が、握った手の中で、じわりと湿った。


――また、か。


瞼の裏で、遠い火が揺れた。


焦げた梁の、鼻を刺す匂い。

怒号。

振り返らずに炎の奥へ消えていく、二つの背中。


あの時も、自分の手は、空を掴んだだけだった。

そして、七年前のあの夜。

理性を灼き切られて、目の前の青年の首筋に牙を立てた、あの熱い感触。


近づいたものが、壊れていく。それが、この身に染みついた法則だった。


だから、誰とも深く関わらずに来た。

それなのに――鈴を鳴らして入ってくる、あの不器用な男の存在が、いつのまにか、無視できない重さになっていた。


その報いのように、今、彼が引きずり出されている。

自分のせいで。


怒りは、静かだった。

喚きたい衝動は、どこにもない。


ただ、鳩尾の底で、氷に似た硬い塊が、ゆっくりと角を持っていく。

かつて、自分を狩ろうとした者たちへ向けた熱とは、質が違った。


あれは恐怖と憎しみだった。

これは――もっと深いところにある、自分自身への、静かな失望に近かった。


紙が、手の中で乾いた音を立てて潰れた。

指先が、僅かに震えている。怒りか、恐れか、その両方か。

判じる前に、リラの足は、もう扉へ向かっていた。


守れなかったものは、もう戻らない。

だが、今、目の前にあるこれだけは――違う。


夜の坂を、影が一つ、滑るように駆け下りていく。

足音は、ほとんど鳴らなかった。


冷えた夜気が、頬を裂くように後ろへ流れていった。

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