第8話 囮
方針が変わったのは、ある会議の席だった。
「あの女には、既に接点のある人物がいます」
指先で、一枚の記録を机の上に滑らせる。
あの店への、頻繁な出入りの履歴。
「カイル中尉です。彼を、糸口に」
レインは、しばらく答えなかった。指を組み、机の一点を見ている。
窓の外では、輸送機が低く唸りを上げて過ぎていく。その震動が、床を通して靴の裏に伝わってきた。
ウイルスは待ってくれない――音が、そう急かしているようだった。
「だが、それは」
「穏便に済ませる手は尽きたかと」
「……穏便に済むなら、それが一番だろう」
低く、彼は言った。
「現状、我々は接触すらできていません」
苦々しさを隠さずレインの部下は言った。
「……最終手段として、彼を使う。傷つけはしない。話を聞いてもらうための、方便だ」
言い終えて、レインは短く息を吐いた。
その響きに、隠しきれない後ろめたさが混じっていたことに、部屋の誰も触れなかった。
任務は、任務だった。
*
数日後、カイルは巡回の途中で呼び出しを受けた。
「特別任務だ。詳細は現地で」
それだけの指示に従って、詰め所の裏の医務室へ向かう。
ドアを開けると、消毒液の匂いが鼻を突いた。
白衣の男が、愛想よく袖をまくらせる。
「軽い検診だ。すぐ終わる」
腕の内側に、冷たい消毒綿が触れ、続いて針先の硬い痛みが走った。
押し込まれる薬液の感触が、静脈を冷たく上ってくる。
異変は、数秒後だった。
指先が痺れ、部屋の輪郭が滲む。
天井の照明が、やけに眩しく尾を引く。
立っているつもりの膝が、もう床を捉えていない。
「……なん、だ、これ……」
崩れる体を、背後から誰かの腕が受け止めた。
天井の光が、ぐるりと流れて遠ざかる。
耳鳴りの奥で、誰かの声がした。
「すまない。これも任務だ」
その声を、カイルは意識の最後の縁で、確かに聞いた。
*
その夜、店に戻ったリラは、扉に指をかけた瞬間、動きを止めた。
鍵の掛かり具合が、掛けたはずの向きと違う。
指の腹が、その僅かな差を捉えていた。
音もなく中へ滑り込む。空気に、知らない人間の残り香が混じっていた。
革と、機械油と、規律の匂い。
昼間、坂の下から自分を見ていた、あの匂いだ。
カウンターの上に、一枚の紙が置かれていた。
――カイル中尉は軍で拘束した。第七訓練場まで、一人で来い。
危害を加える意図はない。話をしたいだけだ。
読み終えて、リラはしばらく動かなかった。指先から、体温がゆっくりと引いていく。
紙の縁が、握った手の中で、じわりと湿った。
――また、か。
瞼の裏で、遠い火が揺れた。
焦げた梁の、鼻を刺す匂い。
怒号。
振り返らずに炎の奥へ消えていく、二つの背中。
あの時も、自分の手は、空を掴んだだけだった。
そして、七年前のあの夜。
理性を灼き切られて、目の前の青年の首筋に牙を立てた、あの熱い感触。
近づいたものが、壊れていく。それが、この身に染みついた法則だった。
だから、誰とも深く関わらずに来た。
それなのに――鈴を鳴らして入ってくる、あの不器用な男の存在が、いつのまにか、無視できない重さになっていた。
その報いのように、今、彼が引きずり出されている。
自分のせいで。
怒りは、静かだった。
喚きたい衝動は、どこにもない。
ただ、鳩尾の底で、氷に似た硬い塊が、ゆっくりと角を持っていく。
かつて、自分を狩ろうとした者たちへ向けた熱とは、質が違った。
あれは恐怖と憎しみだった。
これは――もっと深いところにある、自分自身への、静かな失望に近かった。
紙が、手の中で乾いた音を立てて潰れた。
指先が、僅かに震えている。怒りか、恐れか、その両方か。
判じる前に、リラの足は、もう扉へ向かっていた。
守れなかったものは、もう戻らない。
だが、今、目の前にあるこれだけは――違う。
夜の坂を、影が一つ、滑るように駆け下りていく。
足音は、ほとんど鳴らなかった。
冷えた夜気が、頬を裂くように後ろへ流れていった。




