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第7話 潮時

その晩、レインはもう一人、別室に人を呼んでいた。


痩せた青年だった。

白衣の袖が、細い手首で余っている。


なぜ情報部の担当官じきじきに呼ばれたのか。まだ呑み込めていない様子で、椅子の上で指を組んだり解いたりしていた。膝が、細かく上下している。


「アーネスト君、だったね」


「ははいいい!!」


「ふふ、君の名を解析の報告書で見た。あの変異体の体液と、七年前の血液。一致に最初に気づいたのは、君だそうだね」


青年の背が、僅かに伸びた。

専門の話題に触れた途端、指の落ち着かなさが、ぴたりと止まる。


「……正確には、波形の相同性が閾値を超えた、というだけで。あの体液には、感染の“原型”に近い何かが……感染者を、作り出せるだけの、」


そこまで一息に喋って、自分が喋りすぎたことに気づいたように、青年は口をつぐんだ。

頬が、僅かに赤い。


レインは、微かに笑った。

それから、声を落とす。空調の唸りに紛れるほどの低さに。


「その“原型”の出どころに、近く手が届く。表向きは、戦力として」


「表向き……」


「本当の狙いは、彼女自身だ」


青年の喉が、小さく上下した。


「命じるのは、これだ。彼女の血、組織、体液――手に入る範囲で、気取られずに採取し、解析する。あの災厄の根が、本当にこの女にあるのか。……それを、静かに、確かめてほしい」


「……本人には、伏せたまま、ですか」


「そうだ」


レインの声から、いつもの丁重さが一枚、剥がれた。

残ったのは、疲れた男の低い声だった。


「気は進まないだろう。私も進まない。だが、これで根が分かれば、次に喰われる惑星を、一つでも減らせるかもしれない。……君にしか頼めない」


青年は、しばらく手元を見ていた。

爪の先で、机の縁を一度、掻く。それから、細い声で、しかしはっきりと答えた。


「……やります。ただ、一つだけ」


「なんだ」


「もし彼女が、敵ではないと分かったら。……その時は、正直に打ち明ける許可を、いつか、ください」


レインは、青年の顔をしばらく見つめた。末席の研究員のはずの男の目に、思いがけず、退かない硬さがあった。


「……覚えておく」


それだけ答えて、レインは席を立った。


約束は、しなかった。


できなかった、というほうが近い。





最初の訪問は、空振りに終わった。

レインが坂を上って店の前に立ったとき、扉には既に「臨時休業」の木札が下がっていた。

指で触れると、まだ冷たい。掛けられて、そう時間は経っていない。


窓の奥は暗く、人の気配だけが、たった今そこから抜けたようだ。


「……お会いできませんでしたか」


呟いて、レインはそれ以上踏み込まなかった。

丁重に一礼し、坂を下りる。


自分が動き出したのとほぼ同じ頃に、リラという女がその気配を嗅ぎ取って消えたことを、彼はまだ知らない。


二度目も、三度目も、同じだった。

訪う日に限って店は閉まり、遠くから様子を窺えば、視界の端にいたはずの人影が、瞬きの間に消えている。


まるで、こちらの呼吸を読まれているようだった。


「……随分と用心深い」


報告書に、そう書きつける。

ペン先が紙を掻く音だけが、静かな部屋に残った。焦りではない。


ただ、退けないという、疲れた職務の意志が、彼の奥には硬く残っていた。





――同じ頃。


リラは、店の奥で手を止めていた。

理由のない胸騒ぎが、数日前から続いている。

鳩尾あたりが、ざわついて落ち着かない。


客足に、混じるものがあった。


部品を検分するふりをしながら、目だけが棚の奥や帳簿の背を撫でていく視線。


丁寧に消された足取り。

素人ではない。

かつて自分を狩ろうとした者たちと、同じ匂いがした。

革と、機械油と、規律の匂い。


窓の隙間から、坂の下を窺う。

街の雑踏に紛れて、動かない人影が一つ。視線が合う前に、リラは身を引いた。


――潮時だ。


指が、勝手に動いていた。


工具を布に巻き、値の張る部品を選り分け、背嚢へ収めていく。

この作業は、体が覚えている。

何十年も、こうして街から街へ、名を変え、顔を変え、消えてきた。

半日もあれば、この店の痕跡は、風のように掻き消せる。


その手が、ふと止まった。


店の隅、ルーがいつも座る空の椅子。

カウンターの端、カイルが決まって手に取る、あの壊れかけの部品。

目に入った途端、指先の動きが鈍る。


――関わるな。分かっていたはずだった。


リラは、目を閉じ、短く息を吐いた。

それから、また荷造りの手を動かす。


動かしながら、いつもより、ずっと遅かった。


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