第9話 取引
その頃、第七訓練場の待機所では、若い兵士たちが、欠伸を噛み殺していた。
「なあ、こんな夜中に叩き起こして、戦闘訓練って本気かよ」
「知らねえよ。傭兵崩れの実地評価、としか聞いてない。腕試しに付き合わされる的当てだろ」
一人が、麻酔銃の弾倉を、面倒くさそうに込め直す。
実弾ではない。訓練用の、痺れさせるだけの弾だ。
「相手、一人なんだろ?こっちは機体まで出して、大袈裟な」
「上の考えることは分からん。……まあ、楽な任務ならそれでいい」
軽口を叩き合いながら、誰も、球状の拘束フィールドの中で頭を垂れている中尉のことは、深く考えていなかった。
人質だ、とは、誰も聞かされていない。
ただの、評価対象の確保――その程度の説明しか、下りてきていなかった。
風が吹くと、雲の切れ間から月が見えた。
最初に気づいたのは若い兵士だ。
「おい、あれ」
大きな声ではなかったが、思わず上擦った声は訓練場によく響いた。
そこでやっと、兵士たちは身構えた。
月明りに照らされて、影が一つ。
若い女が一人、赤い瞳をさらしている。
第七訓練場は、コロニーの外れの、照明だけが白々と灯る広い更地だ。
今夜、中央に淡く発光する球がある。
重力制御の拘束フィールド。
その中で、カイルの体が僅かに宙に浮き、力なく頭を垂れていた。
傷は一つもない。
傷がないことが、かえって、この場の作りものめいた冷たさを際立たせていた。
リラの中で、一段、温度が下がった。
声は上げない。
ただ、まっすぐに歩を進める。
乾いた土を踏む靴の音が、静寂に一定の間隔を刻む。
四方の闇から、人影が滲み出た。
拘束具を提げた者、麻酔銃を構えた者。
同時に、地面が震え、無骨な人型の機体がいくつも起き上がる。
関節の駆動音が、夜気を軋ませながら、リラを囲む輪を狭めていった。
油と、冷えた金属の匂いが、風下から漂ってくる。
拡声器の声が、更地に響いた。
「――夜分に、申し訳ありません」
丁寧な、しかしどこか疲れた声だった。
「何度か、正式にお訪ねしました。そのたびに、あなたはいなかった。話をする機会を、こちらは何度も探したつもりです。……こんな形になったことは、詫びます」
リラは、足を止めなかった。
「機体を起こしたのは、あなたを害するためではありません。逃げられれば、二度と辿り着けない。それが分かっているだけです」
包囲の輪が、じり、と縮んだ。駆動音が、一段高くなる。
「どうか、話だけでも聞いていただきたい。……ですが、力ずくででも留まっていただく用意が、こちらにあることも、隠しません」
慇懃な物言いの底に、抜き身の意志が透けていた。
詫びながら、退路は塞いでいる。
その二枚舌こそが、リラには一番信用ならなかった。
「――勝手なことを」
低く、それだけ呟いて、リラは沈み込んだ。
先に動いたのは、彼女だった。
地を蹴り、最寄りの機体の懐へ一息に入る。
装甲の継ぎ目、剥き出しの関節――狙いは、正確だった。
踏み込んだ拳が油圧の管を潰し、噴き出した作動油が生温く手の甲を濡らす。
金属が悲鳴じみた音を立てて、機体が膝から崩れた。
麻酔弾が、空気を裂いた。細く高い音。
リラは体を捌いてそれを流し、撃った要員の懐へ入り込むと、銃を奪い取り、傍らの機体の肘関節へ叩きつける。
青い火花。動きの止まった機体を蹴って、距離を取る。
二機が同時に、太い腕を振り下ろしてきた。
強化床が、その一撃で陥没する。
轟音と、足裏から突き上げる震動。
だが、腕が落ちきる刹那には、リラはもうその内側にいた。
剥がれた装甲の奥、脈打つように駆動する制御部へ、肘を一閃。
機体が痙攣し、機能を失って沈む。
「おい。これ、訓練か?」
囲んでいた要員たちの足が、少しずつ後ろへ下がっていく。
麻酔弾も、拘束具も、彼女の前では、ただの飾りに過ぎなかった。
汗と、機械油の焦げる匂いが、更地に立ち込め始めていた。
最後の一機――一回り大きな指揮官機が、進路を塞いで立った。
リラは、止まらなかった。地を蹴り、跳ぶ。
頭部のセンサー塊へ、落下の重みごと踵を打ち込んだ。
閃光。
ガラスの砕ける鋭い音。
巨体がのけぞり、耐えきれずに背から倒れて、床を大きく揺らした。
静寂が、戻る。
リラは、荒い息を一つだけ吐いた。
倒れ伏した鉄の群れを縫って、フィールドの操作盤へ歩み寄る。
剥き出しの制御パネルを見つけ、迷いなく拳を落とした。
火花が散り、指先に痺れが走る。
淡い光が、音もなく消えた。
宙にあったカイルの体が、支えを失って落ちた。
リラの腕が、それを受け止める。
思っていたより、軽かった。そして、熱かった。
指先に触れた首筋に、確かな脈が打っている。汗ばんだ肌の温もり。
それだけのことに、詰めていた息が、緩んだ。
「……カイル」
頬に手を添えると、瞼が微かに震えた。
「……う……」
薄く開いた目が、焦点の合わないまま、自分を抱える者を映す。
その霞んだ視界の底で、何かが繋がった。
瓦礫の夜。
フードの影。
「下がってて」と告げた、抑揚のない声。
それと、今、名を呼ぶこの声とが――重なった。
「……お前、あの時の……」
掠れた呟きに、リラの肩が強張った。
答えを探して、結局、何も言えず、視線だけを僅かに逸らす。
その沈黙が、答えだった。
カイルは、問い詰めなかった。ただ、確信だけが、静かに彼の底へ沈んでいく。
直後、限界が来た。瞼が、また落ちる。
「……あ……」
腕の中で、体から力が抜けた。
「――カイル?」
呼んでも、返事はない。
だが、胸は上下している。
ただ、深く眠りに落ちただけだった。
リラは、そっと息を吐いた。
倒れた機体と、後退った要員たちが、遠巻きにその光景を見ていた。誰も、近づこうとはしなかった。
その輪の外から、足音が一つ、乾いた土を踏んで、ゆっくりと近づいてくる。
*
「……見事なものです。予想以上でした」
レインだった。
両手を軽く上げ、敵意のないことを示しながら。
「まず、謝罪させてください。手荒な真似をしました。ですが、おかげで確信が持てた」
リラは、眠るカイルを抱えたまま、視線だけを男へ向けた。
声も上げず、表情も動かさない。
それなのに、更地の空気が、その一瞥で凍った。
後ろに控えた要員の何人かが、無意識に半歩下がる。
ざり、と土を擦る足音。幾度も命の際を潜った者だけが纏う、静かで底の知れない圧が、彼女の全身から匂い立っていた。
レインの額に、汗が滲む。
夜気は冷えているのに。それでも、彼は視線を外さなかった。
「……彼に、何かあったら」
低く、静かな声だった。どんな怒鳴り声より重い警告が、その一言に沈んでいた。
「……承知しております。二度と、こんな真似はしません。お約束します」
レインは頭を下げ、それから居住まいを正した。
「単刀直入に申します。七年前、バーンロックで、傭兵団『鉄の牙』に在籍しておられましたね。当時の記録と、先日のヴェスパーの一件――特徴も、戦い方も、完全に一致しました」
リラは、答えない。
ただ、聞いていた。奥歯の裏で、七年という言葉が、鈍く軋む。
「回りくどいことはしません。あなたの力を、調査団に貸していただきたい」
一度、言葉を切って、レインの声の質が変わった。事務の膜が剥がれ、下にあったものが覗いた。
「正直に話します。この星系は、いくつもの惑星を、あの災厄に喰われてきました。我々はその度に後手に回り、失ってから気づく。……その繰り返しでした」
丁寧な物腰の奥に、静かな疲労と、噛み殺した悔しさが滲む。
「これまで五つの惑星を失いました。」
「次は守りたい。」
まっすぐに、リラを見据える。
その響きだけは、駆け引きの色をしていなかった。
「見返りに、正式な身分証を用意します。過去の記録は、こちらで“処理”します」
「……断ったら」
「今夜のことは繰り返しません。約束します。ですが――拘束は、免れないでしょう。戸籍のない、正体不明の高危険人物として」
脅しというより、疲れた諦めに近い声だった。
リラは答えず、腕の中の寝顔に目を落とした。レインは、その視線の落ちる先を見て、静かに一手を進めた。
「……もう一つ。彼――カイル中尉も、既にこの調査団の、正式な一員に選ばれています」
リラの顔が、僅かに上がる。
「あの襲撃での働き、そして、正体不明の助っ人についての、貴重な証言者として。……つまり、あなたが何を選ぼうと、彼はこの任務に加わる」
胸の底で、何かが軋んだ。
「協力してくださるなら、彼のそばにいられる。危険な任務です。彼一人を送り出すより――あなたの目が届く方が、いいとは思いませんか」
明白な駆け引きだった。
同時に、リラの最も柔らかい場所を、正確に突く言葉でもあった。
リラは、しばらく、眠る横顔を見つめていた。
穏やかな寝息。
この顔が、自分の知らないどこかで危険に晒される――その想像だけが、彼女には耐えられなかった。
奥歯を、静かに噛む。
「……今回だけだ。ウイルスの調査だけ」
絞り出すような声だった。
「代わりに、二度と彼を巻き込まないと誓え」
「必ず」
レインは、即座に頭を下げた。
リラはその頭を、値踏みするように、しばらく見つめ、それから小さく息を吐いた。
数十年、守り続けた隠遁の日々に、彼女は自らの手で、その場で幕を引いた。




