第10話 治療室
次に目を開けたとき、カイルは白い天井を見ていた。
規則的な電子音。
消毒液の匂い。
ここが治療室だと悟るのに、少しかかった。
窓からは朝日が差し込んでいて、無くなりかけた点滴バッグにあたり反射している。
体を起こそうとすると、後頭部の奥に、鈍い痛みがはしった。
鎮静剤の名残だ。
舌が乾いて、上顎に張りついている。
傍らの椅子に、リラがいた。腕を組み、壁に軽く背を預けて、目を閉じている。
カイルは、呆気にとられて、しばらくその横顔を見ていた。
店で見せる、隙のない警戒の顔とは、まるで違う。
ひどく無防備な、静かな寝顔だった。付き添っていたらしい。
その疲れが、浅い寝息に滲んでいた。
声をかけるのを躊躇う。
だが、身じろぎした拍子に、ベッドの金具が軋んだ。
その微かな音で、リラの瞼が開いた。
「――気がついた?」
寝ぼけた気配は、一片もなかった。
深く眠っていたように見えたのに、目覚めは、刃のように速い。
カイルは、少し驚いた。
「ん」
差し出されたのは未開封の水だ。
「……ここは」
「治療室。……丸一日近く、眠ってた」
喉を潤していると、記憶が繋がり始める。
医務室の針。
薄れる意識。
それから――宙に浮くような感覚、砕ける金属の音、崩れ落ちる機体の影。
「……俺を助けに来たのか」
リラは、すぐには答えず、視線を僅かに逸らした。
「……見ての通り」
素っ気ない声だった。それでも、その裏に、隠しきれない何かがあることを、カイルは感じ取った。
「……悪かった。巻き込んで」
リラが、意外そうに彼を見た。
「俺が、あの店に通ってなければ、お前はこんな目に遭わなかった」
リラは黙り、それから静かに首を振った。
「それは違う」
声に、確かな芯があった。
「あなたがいなくても、いずれ同じことになってた。……戸籍のない女なんて、いつかは目をつけられる。それだけ」
「……戸籍が?」
戸籍が無い。
カイルはうまく言葉を返せなかった。
もどかしさだけが残る。それ以上は、重ねなかった。
朝日が床のタイルを斜めに横切り、リラの足元まで伸びている。しばらく、二人とも黙っていた。空調の低い音だけが続く。
「……そういえば」
「何」
「あの襲撃の夜。瓦礫の中で、俺を助けた影」
リラの体が、僅かに強張る。
「さっき、一瞬思い出した。……あれも、お前だったんだな」
リラは、しばらく沈黙した。誤魔化す余地は、もう残っていなかった。
「……そう」
短く、それだけ認めた。
「……なんで、黙ってた」
責める色は、ない。ただの疑問だった。
「知られたくなかったから」
「なんで」
「それは、目立ってしまえば……。失うから。いろいろと」
リラは、それ以上続けなかった。
カイルにも、その先を聞く気はなかった。
それから、ずっと引っかかっていたことを、口にする。
「……お前、ずっと体調、悪かっただろ」
リラが、僅かに目を伏せる。
「あの夜、俺を助けたせいで、無理してたんじゃないのか」
リラは、答えない。
「それなのに、また。さっきもぐっすり眠ってた。……本当に大丈夫なのか」
案じる響きだけが、その声にはあった。
「お前、ずっと隠れて静かに暮らしてきたんだろう。それを、俺のために手放していいのか」
問われて、リラはすぐに答えられなかった。
長い間、自分の生き方そのものを、こんなふうに案じられたことは、なかった。
「……そこまで未練はない」
強がりのようで、半分は本音だった。
「あの店を続けてたのは……」
そこで、言葉が途切れた。
一度だけ口を開き、また閉じる。
どこか落ち着かなさげに、意味もなく指を組み替える。
続きは、口にしなかった。
ただ、視線を僅かに逸らす。
カイルは、その途切れた先を、問わなかった。ただ、沈黙を受け止めた。
「……礼を言う。あの夜、助けてくれて」
「……別に」
そっけない返事だった。
その耳元だけが、僅かに赤くなっていた。




