第3話 花の香り
低く沈んだ影が一つ、横あいから飛び込んでくる。
跳ね上がるような蹴りが、銃を握った腕を真横から断ち割った。
骨の折れる音。銃が石畳を跳ねて転がる。
返す動きで放たれた次の一撃が顎を捉え、巨体が宙に浮いて、瓦礫の山へ落ちた。
「――は?」
声が漏れた。
影は振り返らない。
フードを目深に被り、口元はスカーフ。
素顔は見えない。ただ、平坦な声だけが落ちてきた。
「下がってて」
言われるまま、後ずさる。影はもう次へ動いていた。
そこから先は、カイルの理解を超えていた。
防刃装備の個体がナイフを薙ぐ。
影は紙一重で懐に入り、手首を掴んで捻り上げ、体格差を無視した力で地面へ叩きつける。
倒しては次へ、振り向く間もなく次へ。
技は一体ごとに違い、迷いは一つもなかった。
目で追えたのは、最後の一撃だけだ。
その、一瞬だった。
乱戦の唸りとは違う、乾いた高い音が、遠くの瓦礫の上から走った。
狙撃だった。
群れの中の一体――他とは動きの質が違う、じっと機を窺っていた個体が、いつのまにか長銃身を構えていた。
影の反応は、常人の域を超えていた。上体をひねって、弾道から身を外す。
外しきれなかった。
弾は肩口をかすめ、フードの布を裂いて後ろの闇へ抜けていった。
影の足は止まらない。浅い傷に見えた。
だが、裂けた布の下から、線を引くように、赤いものが散った。
数滴。
ただ、それだけだった。
その血が、すぐ傍らで崩れ伏していた感染者の一体に、降りかかった。
カイルの目の前で、それは起きた。
倒れていた個体が痙攣した。
血の触れた皮膚が、内側から押し上げられるように蠢いた。
腕があり得ない角度に膨れ上がり、関節が伸びていく。白く濁った目が、ぐるりと影のほうへ向いた。
一拍で、それは別のものになっていた。
「――なんだ。これは」
カイルの喉から、掠れた声が漏れた。
影の足が、初めて明確に止まった。
フードの下から、変わり果てた個体を見る。
その背中に、硬い緊張が滲んだ。
変じたものが跳んだ。
だが、振り下ろされるはずの一撃は――来なかった。
影へ届く前に、その体が宙で引き攣った。
膨れ上がった腕が、今度は内側へ捻じれていく。
まるで、肉体そのものが変化に追いつけていないようだった。
白く濁った目が、宙を睨んだまま、内側へ潰れていく。
それは一歩、影のほうへ踏み出そうとして――
崩れた。
辺りに、静寂が戻った。
影は、崩れ落ちたそれを見下ろしていた。
それまで感染者を沈めてきた、流れるような動きとは、まるで違う静止だった。
仕留めた、のではない。勝手に、壊れた。
その事実を確かめるように、影は一瞬そこに立っていた。それから、次の一体へ向き直る。
カイルは、後ずさりながら見ていることしかできなかった。
理解が追いつかない。
だが、この動きを、知っている気がした。
最後の一体――ひときわ大柄な重装備が、雄叫びを上げて突進する。
影は正面から受けず、勢いを流し、腕を取って、投げた。巨体が土煙を上げて沈む。
静かになった。
倒れ伏した感染者たちが、折り重なって夜に散らばっている。
硝煙と、焦げた金属と、雨上がりの湿った石の匂いが混ざって漂う。
フードの下で肩がわずかに上下していた。
素早く視線が周囲を巡る。まだ何かを警戒するように。
カイルは、瓦礫に散らばった装備の残骸に目をやった。
着崩れた軍用装備。
対装甲火器。
防刃の戦闘服。
「……こいつら、元は軍人か」
影は答えない。
転がった残骸を一瞥しただけだった。その沈黙が、肯定のように重かった。
「あんた、何者だ」
やはり答えはない。影はこちらへ、ほんの一瞬だけ視線を向けた。
それだけで用は済んだというように、影は背を向ける。
「増援が来る前に下がって。ここは長くもたない」
平坦な声だった。
なのに、その声を聞いた瞬間、カイルの胸の奥で、何かが小さく軋んだ。
いつか、どこかで。
思い出せない。ただ、遠い記憶の底を、指先でかすめたような感触だけが残った。
花の匂いが、一瞬、鼻をよぎった気がした。
硝煙しかないはずの、この夜に。
影は瓦礫の陰へ消えていく。
呼び止めようとして、声が出なかった。
後には、倒れた群れと、疑問だけが残った。
武装した感染者。
あの影。
自分はなぜ、知っている気がするのか。
遠くで、再建されたバリケードの向こうから、味方の突入する銃火が近づいてくる。
夜の底が、ようやく白み始めていた。




