第31話 一度だけ
第31話
明かりの落ちた医務室。艦の夜間帯は二十二時に始まる。廊下の照明が段階的に落ちて、空調の音が一段低くなる。
カイルは、その変化を身体で覚えていた。入隊してからずっと、この音を聞いてきた。
ベッドの傍らに簡素な椅子。そこが、カイルのここ三日間の定位置だ。
眠くなれば、座ったまま仮眠をとる。
起きている時は、リラの目覚めを待っている。
それを繰り返していた。
規則的な機械音を聞いていると、思考の深いところまで潜ってしまう。
あの時。排気坑に入る前。リラだけ残さなければ。
そもそも、あの場所に長居しなければ。開いた扉の奥へ進まなければ。
考えれば考えるほど、もっといい方法があったかもしれないと後悔ばかりが募っていく。
目をベッドへ戻す。
リラの身体には、脱出時の傷が残ったままだ。
腕にも脇腹にも包帯が巻かれ、肩から胸へ青黒い痣が広がっている。
血が足りていない。
だが、輸血はできない。
彼女の血は人間のどの型にも当てはまらず、合う血は一滴も見つからなかった。
薬も、効かない。
三日経っても、傷は初日とほとんど変わっていなかった。
ふいに、電子キーの操作音が闇に落ちた。
錠の外れる乾いた音。扉が開く。
廊下の非常灯が細く床に差し込み、その光を背にして影が一つ入口に立っていた。
革靴が鉄の床を打ち、一歩、二歩。歩幅はいつも通りだった。
カイルは顔を上げなくても、それが誰だか分かる。
レインだった。
「中尉、もう三日だ」
「はい」
「休め」
「最低限は寝てます」
「……お前の責任ではない」
カイルは、その言葉に自嘲気味に笑ってみせた。
「いいえ。俺のせいです」
レインは、すぐには答えなかった。
しばらくベッドのほうを見ていた。管の繋がれた腕を。薄い青の患者衣を。その、動かない顔を。
それから何か言いかけて、――やめた。
短く息を吐く音がした。
「……限界になる前に、休め」
そう言い残して彼は背を向けた。
革靴の音が、来たときと同じ間隔で遠ざかっていく。
部屋がまた、静かになった。
そしてまた、思考の渦が回り始める。
どうしてだろう。
あの施設から帰還してから、カイルはこればかり考えていた。
リラはどうして、俺を守ろうとするのか。
考えれば考えるほど分からない。
リラとは、店主と客だった。七年間、それだけの間柄だ。
カウンターの向こうに彼女がいて、カイルは月に何度か通う。
三ヶ月間来ないことがあっても、彼女は何も訊かなかった。
名前と注文。二人の間にあったのは、それくらいのものだった。
距離が縮まったのはここ最近のことだ。
ようやく名前と注文以外の言葉を交わすようになった。
それだけの、はずだった。
なのに、彼女はいつも彼の前に立つ。
カイルが撃たれる場所に、いつの間にか立っている。
氷河でも、排気坑でも。
自分の身体を盾にして。
静かな部屋で、カイルはそればかりを考えていた。
明かりのやや落ちた医務室のベッド。リラは、そこに寝ていた。
薄い青の、患者用の服。腕には、管が二本。
――そして、その指が、動いた。
カイルは指を見つめたまま、息をのんで固まった。
彼女の手はシーツの上を二度滑って、指先に触れたのは自身の腕から伸びる管だった。
彼女は、それを掴まなかった。
掴むものではないと、指先が分かっているようだった。
「――リラ」
睫毛が震えて。
ゆっくり目が開いた。
薄い色の瞳は天井を向いていたが、天井のさらに向こうを見ているかのような眼差しだ。
その赤色は随分と色あせて見えた。
「――カイル」
「いる。ここだ」
彼女の指が彼の手を握った。初めて彼女のほうから触れられた。
――そう思った直後に、その握力が、子供のそれより弱いことに気づいた。
指が、彼の手の中で緩んだ。
「……あなたを、帰せた」
「――リラ」
「……七年間、頑張った」
カイルの手が、思わず締まった。握りつぶすところだった。
慌てて力を抜いた。
彼女は、痛みを訴えなかった。
「……何の話だ」
「……別に」
笑ったようだった。口の端が少しだけ動いた。
彼女が「別に」と言うときの、顔だった。
「……私は、このまま終わったほうが、きっと、楽なの」
「リラ、」
彼女の目は天井の、その向こうを見ていた。
「……でも、夢を見て」
「夢」
「あんな夢を見たから……」
カイルは、動けなかった。
部屋が嫌に静かで、リラの声以外は何も聞こえなかった。
リラは、まるで最後の言葉を残すように、語り出した。
「……昔、お母さんが、言ってた」
彼女の指が、シーツの上で、わずかに動いた。
「私たちには、特別な人がいるんだって」
「寝物語に、いつも」
リラの唇は、乾いて、割れていた。
それでも言葉は途切れなかった。
「『二人は愛し合って、幸せに暮らしました』」
「『めでたし、めでたし』」
リラの薄い瞳の奥にはカイルが映っていた。
「……一度だけ、触れてもいい?」
「……ああ」
喉が詰まった。
それでも、小さく頷いた。
彼女の手がシーツを離れて、カイルの頬に触れた。
冷たかった。手のひらが、指先が。
リラに訊くべきことは、いくつもあった。
何を七年頑張ったのか。
なぜ、カイルを守ろうとしたのか。
どれも、訊かなかった。
言葉は出ないのに、代わりにこみ上げてくるものがあった。
両親を失ってから、カイルは泣いたことがなかった。
戦場でも。氷河でも。排気坑でも。
泣き方をどこかへ置いてきた男だった。
その男の目の縁に、熱いものが盛り上がっていく。
彼の頬に触れていた手のひらが、それを先に知った。
「……泣かなくていい」
「いつかこうなるって、思ってた」
声が、掠れていた。
そして、リラは、身体を起こそうとした。
管の繋がれた腕が突っ張る。
身体は鉛のように重く、それでも彼女は、シーツから背を浮かせた。
震えながら少しずつ。ほとんど残っていない力の、その最後の一滴までを使って。
「――リラ、無理を」
止めようとした手は、けれど、彼女を止められなかった。
行き場を失って、そのまま彼女の背へ回る。
折れそうな背中を、そっと支えた。
吐息が近い。
二人の間にはいつも三歩の距離があった。カウンターと椅子のない床。
名前と、注文。
決して越えなかったその三歩が、いま消えていた。
睫毛の一本まで見えるほど近くに、リラがいた。浅い呼吸が頬にかかる。
盛り上がっていた涙が、彼の目の縁を越えた。
頬を伝って落ちるその前に。
――リラは、そこへ、唇を、寄せた。
雫を、そっと。
乾いて割れた唇が、彼の頬にしばらく触れていた。
それは、口づけにひどく似ていた。
塩の味がした。
触れた場所から、わずかに熱が移った。
身体の奥で、消えかけていたものが、ほんの少しだけ灯る。
「……あたたかい」
彼女がそう言った。
まるで、生まれて初めてその言葉の意味を知ったように。
薄れていた瞳の焦点が、すぐそこにいるカイルを映した。
七年、三歩離れた場所から見てきた顔が、いま、吐息の届く場所にあった。
彼女の手が、彼の頬から首の後ろへ滑り落ちた。
髪が指に絡む。
優しい手つきだった。
浮かせていた背が、ふいに力を失った。
崩れるように沈む。
カイルはその背を両腕で受け止めた。
折れそうに軽い身体を抱きかかえるようにして、そっと枕へ戻す。
リラの手が、彼の首からすべり落ちた。
その目から、力が抜けていく。
「リラ」
「……ん」
「ダメだ」
彼女の唇が、動いた。
「――死ぬな。それだけでいい」
「……何も言わなくていい。何も教えなくていい。……生きててくれれば」
彼女は長く、彼を見ていた。
それから一度だけ、頷いた。小さく。
「リラ」
目が閉じた。
深い呼吸を、一度。二度。
彼女の顔から力が抜けた。張り詰めていたものが消えた。
彼が見たことのない顔だった。
彼女は安らかに眠っていた。
カイルはその顔を見ていた。
そして、自分の頬を手の甲で乱暴に拭った。
どれだけ、そうしていたか。
彼が身を起こそうとした――そのとき。
機械音が変わった。




