第30話 今度だけは
軍の援軍が到着したのは、街の三分の一が失われたあとだった。
装甲兵は数えるほどで、大半は軽装の歩兵。
部隊はすぐに押しこまれた。
隊列が崩れ、若い兵士たちが通りごとに分断される。
その中に、カイルはいた。
背後の路地に住民が残っているのを知っていて、そこを塞ぐように立っていた。
銃身は陽炎を上げ続け、動きが鈍っていく。
頬に返り血が跳ね、髪が汗で額に貼りついていた。
仲間は群れにのまれ、気づけばほとんど単独になっていた。
リラは、崩れた屋根の上からそれを見つけた。
すぐにわかった。
煙と、焦げた金属と、腐った肉の匂いの中で、その香りだけは見失わなかった。
——逃げろ。
自分に言った。近づいてはいけない。
あの人の運命に関わってはいけない。
そのときカイルの背後の瓦礫が動いた。
一体、這い出してきた。
カイルは気づいていない。
——ああ。
これまで何度も自分に言い聞かせてきた。
近づいてはいけない。
助ければ、関係が生まれる。
関係が生まれれば、私のために誰かが傷つく。
わかっている。
全部、わかっている。
それでも。
目の前でこの人が死ぬことだけは、受け入れられなかった。
愛している、とは思わなかった。
失いたくない、とも、まだ言葉にしなかった。
ただ、身体が動いた。
*
リラは感染者の腕を掴んで、その軌道を逸らした。
皮膚は湿っていて指が沈むほど柔らかく、その下の骨だけが異様に硬かった。
刃のように変形した先端が、カイルの首のすぐ横を通り石壁を削った。
破片が飛んで頬を切った。
カイルが振り返って、目が合った。
灰色がかった、驚くほど澄んだ目だった。
生きている。
そう思ったのと、背中に衝撃が走ったのは、ほとんど同時だった。
——うしろ。
別の一体が、瓦礫の陰から。
鋭く尖った腕が、背中から入って、胸を突き抜けた。
音はしない。痛いとも、熱いとも思わなかった。
ただ、身体の真ん中に大きな穴が開いたのが、風の通りかたでわかった。
内側から、生温かいものがせり上がってきて、咳きこむと、口の端からそれが溢れた。
錆の味。
ずっと昔、床下で唇を噛んだときと同じ味だった。
視界の端が白く滲んだ。
遠で誰かの叫び声が、水を隔てたように鈍く聞こえた。
息を吸おうとして、吸えない。
心臓が動いているのかどうか、わからなかった。
これまで、どんな傷も塞がってきた。
撃たれても、焼かれても、時間さえあれば元に戻った。
生まれて初めて思った。
——これは、治らないかもしれない。
膝が落ちた。
掌の下で、赤いものが、指のあいだからどんどん広がっていった。
最初に浮かんだのは、自分が死ぬことへの恐怖ではない。
彼は……。
こちらへ駆け寄ってこようとしていた。
——来たら、だめ。
声にならないが、そう言いたかった。
まだ、周りには訳の分からない奴らがいる。
私が倒れれば、この人はすぐに殺されるだろう。
両親を失った。あの人とも別れた。少年との日々も失った。
そしてこの人まで。
なぜか、それだけは許せなかった。
*
カイルがそばに来た。
膝をついて、倒れかけたリラの身体を支えた。
若いカイルには、目の前の女が何者かわからなかったはずだ。
ただ、自分を助けて、そのために傷を負ったことだけは理解していた。
だから支えた。
腕が、温かかった。
その温度を、リラは知っている気がした。
床下から抱き上げられた腕。
髪から花びらを取ってくれた指。
塩辛すぎた汁物の器を、黙って受け取った手。
——花の、香りがする。
血と、煙と、腐臭の中で、それだけがはっきりとしていた。
同時に、もうひとつの匂いがした。
カイルの首筋の、薄い皮膚の下。そこを流れているものの匂い。
鼓動が聞こえた。
異様に大きく、近く、速く。
耳のすぐそばで太鼓を打たれているようだった。
喉が焼けた。
舌の裏に唾が湧き、飲みこんでも渇きは消えなかった。
歯の付け根が疼いた。
死にかけた身体が、生き延びるために血を求めはじめていた。
——けれど。
最初に湧きあがったものは、それではなかった。
この人は、このままここにいたら、死ぬ。
私が死ねば、この人は……。
そのとき、リラの中に、初めてはっきりとした言葉が生まれた。
失いたくない。
これまでリラは何を失っても、こう考えてきた。
自分のせいだ。
仕方がない。
近づいた自分が悪かった。
そうやって、受け入れてきた。
受け入れられるようになった自分を、強いのだと思っていた。
——嫌だ。
この人が居なくなるのは、嫌だ。
長く生きて、初めての願いだった。
願いと、生存本能が重なった。
リラの手がカイルの上着を掴んだ。
血で濡れた指が、布に赤い跡をつけた。
糸のほつれた肩の縫い目が、指先に引っかかった。
支えられるまま、身体を寄せた。カイルの体温が、頬に触れた。
鼓動が、耳のすぐそばで鳴っていた。
花の香りと、血の匂いが、混ざった。
ごめんなさいは、声にはならなかった。
——今度だけは。
手が、伸びた。
*
規則的な機械音が聞こえていた。
低く、一定の間隔で繰り返されている。
リラの意識はそこへ戻ってきた。
天井がぼやけて、二重に重なっている。
冷えた金属と、消毒液の匂い。
空気が乾いていて、鼻の奥が痛んだ。
喉に管が触れているのか、飲みこむたびに引っかかった。
船の医療区画だ、と、ようやく理解した。
背中の下は硬い寝台で、腰のあたりに敷布の皺が食いこんでいる。
それをずらすこともできなかった。
指を曲げようとして、動いたかどうかもわからない。
それでも、自分の状態は感覚でわかった。
殿を努めて負った傷。
血が足りないのだろう。再生が、始まっていない。
胸の穴のあたりが冷たかった。
痛みですらなく、ただ、そこに何もないという感覚だけがあった。
——ああ。
私は、死ぬのだ。
不思議なほど、静かに、そう思った。
取り乱さなかった。
長く生きすぎた。
死そのものは、もう怖くない。
これでよかったのだ、と思おうとした。
これ以上、誰かを自分のせいで傷つけずに済む。
離れなければと思いながら、結局あの人のそばを離れられなかった自分も、ここで終わる。
七年前の罪も、私と一緒に消える。
誰かに守られることも、もうない。
誰かを不幸にすることも、もうない。
——よかった。
そう言い聞かせようとして。
あんな夢を見たから。
溢れてしまったのだ。
お母さんみたいに、恋もしてみたかった。
誰かを愛して、同じだけ愛されたかった。
隣を歩きたかった。
くだらない話をして笑いたかった。
朝が来るのを、一緒に待ちたかった。
名前を呼び、呼ばれたかった。
それでも、願いはすべて、ひとつの方向を向いていた。
幸せを望んではいけない。
長いあいだ、それが自分の決め事だった。
破ってはいけない、たったひとつの規則。
——本当は。
本当は、幸せになりたかった。
死を受け入れようとしながら、心の底ではまだ生きたいと願っていた。
その矛盾を、リラは初めて否定しなかった。
*
その香りは、ふいに、乾いた空気の底を細く流れてきた。
甘さの奥に、青い苦み。
懐かしい香りだった。
幼い日の花畑。
母へ渡した、形の悪い花束。
狭い船で初めて咲いた一輪。
燃えてしまった庭。
七年前、あの人の手からこぼれ落ちた、たった一輪。
そのすべてと、同じ香り。
夢の続きなのか。現実なのか。
リラには、まだわからない。
花の香りがする。
いつも読んでいただきありがとうございます。
投稿するたびに細かな改稿を重ねていたところ、ストックがほとんどなくなってしまいました。
そのため、今後は毎日更新が難しくなります。
更新頻度は少し落ちますが、その分、一話ずつしっかり仕上げてお届けしていきますので、これからもお付き合いいただけると嬉しいです。




