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第29話 舞い上がった花

薬品の匂いと清潔なシーツ。

規則的な機械音。

リラの指がわずかに動いた。

カイルは寝台の脇で、その手を握っていた。


「リラ」


呼んでも、目は開かない。

ただ、冷たい指が、ほんのわずかに握り返した。





七年前。バーンロック。

リラは傭兵団に籍を置き、商人の護衛としてその街に入った。


風が強い。舌に薄く砂の味が残って、水を飲んでも取れなかった。


補給のために立ち寄る商隊。駐屯する軍。その両方を相手に暮らす住民。

通りはいつも混んでいて、香辛料と、油と、獣脂の焼ける匂いが層になっていた。


その日、リラは商人の後ろについて市場のある大通りを歩いていた。


正面から、軍服の一団。

若い兵士たちだった。新兵らしく、歩調が揃っていない。

そのなかのひとりと、肩が触れそうな距離ですれ違った。


――花の、香りがした。


砂と、油と、汗の匂いの中を、それだけがまっすぐ抜けてきた。

白い百合に、よく似た香りだった。

甘さの奥に、青い苦み。

一瞬で、幼い日の花畑に引き戻された。

裸足の足の裏の草の感触。母の濡れた指の冷たさ。父の指が髪から花びらをつまみ取る、あのわずかな引っかかり。


懐かしかった。胸の奥が、ほどけるようだった。


だが、同時に喉に熱がこもった。

奥歯の裏に唾が湧き、舌が乾いた。喉の粘膜が張りついて、息をするたびに暑い。

これまで感じたことのない感覚だった。

近づきたい。触れたい。声が聞きたい。

リラは足を止め、人にぶつかられて肩を押された。


振り返った。

軍服の背中が人混みの中を遠ざかっていく。

同僚に何か言われて、その兵士が笑った。

横顔が見えた。


それが、カイルだった。


理由がわからなかった。

自分の中に、これほど強い衝動が眠っていたことをリラは知らなかった。


そのあと、何度も街でカイルを見かけた。

補給所の前で。食堂の窓越しに。夜警の交代の列の中で。


見るたびに、砂と煙の中から、あの香りだけが届いた。

見るたびに、喉の渇きが強くなった。

そして見るたびに、胸の奥が静かになった。

姿を見るだけで、長い年月の孤独が、少しだけ薄れた。


——お母さんが、昔、言っていた。


いつかね、リラにも特別な人が見つかる。

会えば、きっとわかる。


匂いと。

身体が。

教えてくれる。


母のつくり話か、寝かしつけのための昔話だと思っていた。


——特別な人。


この人が、私の特別なのかもしれない。

そう気づいたとき、リラの背中を這い上がってきたのは、喜びではなかった。


もしそうなら。

私があの人に近づけば……。

また、同じことが起きる。

私が、彼を不幸にする。


だから、遠くから見るだけ。

自分に許したのは、これだけにしたのだ。





言葉を交わしたことは一度もない。

同じ通りを歩くだけ。

同じ店に入って、違う席に座るだけ。


じっと見つめていると、視線が合いそうになることが何度かあった。そのたびにリラが先に目を逸らして路地に入った。人混みに紛れた。日陰の壁に背をつけて、砂の混じった風が通り過ぎるのを待った。


——ある日、カイルが花を買っていた。


市場の外れの小さな花売りから。

白い花だ。このあたりでよく採れる、百合に似た小ぶりの野の花。


数本を紙に包んでもらって、カイルはそれを持って歩きだした。

誰かに渡すつもりだったのだろう。

誰に、とは考えなかった。

自分になどと、思ってはいけないから。期待すれば、近づきたくなる。


カイルは結局、それを誰にも渡さなかった。

夕方まで持ったまま歩き、宿舎のほうへ帰っていった。


その途中で、風が吹いた。

砂を巻き上げる乾いた強い風。

紙の包みが緩んで、一輪だけが宙へ舞った。

カイルは気づかなかった。そのまま歩いていった。


リラの手が、勝手に伸びた。

少しだけ慌ててかけよって、地面に落ちるより早くその一輪を受け止めていた。


花びらは思ったより厚い。指の腹に、蝋を薄く塗ったような手触りが残った。

茎の切り口はまだ湿っていて、そこからあの香りが立った。


——渡されたのではない。落ちたものを、拾っただけだ。


カイルは、花が散ったことすら知らない。

それなのに、胸の奥が温かくなるのを、止められなかった。


幼い日の花畑。

母の笑い声。

狭い船で初めて咲いた一輪。

そして、燃えていった庭。


温かかったものすべてが、この香りの中にあった。

誰にも知られないまま、その一輪は、リラの孤独を癒やした。

同時に、願いが生まれた。

もっと近くで見てみたい。話してみたい。自分から、声をかけてみたい。


すぐに、打ち消したけど。


これで充分だ。

花を一輪、拾えただけで充分すぎる。

それ以上を望んではいけない。





襲撃は明け方に始まった。


バーンロックは大規模な感染者の襲来を想定した街ではなかった。

外壁は低く、防衛区画は形ばかりで避難経路は市場を通っていた。


遅すぎる警報が鳴る。

けたたましい音が石壁に反響して、耳の奥が痺れた。

皆、逃げた。逃げる人にぶつかって、人が転んだ。

転んだ人の上を、また人が越えていった。


感染者の群れが外郭から流れこんできた。


臭いが、先に来た。

腐りかけた肉と、酸っぱい体液と、それを覆い隠すような甘い腐臭。

吸いこむと喉の奥が閉じそうになった。

街は、驚くほど短い時間で崩れていく。


リラは契約どおり、商人を守った。

ただし、人間として不自然にならない範囲で。


一撃で倒せる相手を、三度斬った。

刃が骨に噛んで止まるたびに、手首まで衝撃が返ってきた。

避けられる攻撃を、わざと浅く受けた。

腕を裂かれても、傷が塞がる速度を隠すために布を巻いた。

血が布を透って、指が滑った。


その制限の中でよく戦ったと思う。

けれど、数が多すぎた。

角を曲がったところで群れが横から押し寄せた。

商人も、他の護衛も、みんな波に飲まれた。


手を伸ばした指先が外套の裾に触れたが、掴めなかった。

濡れた音がして、悲鳴が上がり途中で切れた。


——また、守れなかった。


本気を出していれば、間に合ったかもしれない。

けれど私は、隠れることを選んだ。

私は、何のために強く生まれたのだろう。


契約主は死んだ。

もうこの街に残る理由はない。

逃げてよかった。


それなのに、リラは戦場から離れられなかった。

煙と血の匂いの向こうから、微かに花の香りがしていた。

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