第29話 舞い上がった花
薬品の匂いと清潔なシーツ。
規則的な機械音。
リラの指がわずかに動いた。
カイルは寝台の脇で、その手を握っていた。
「リラ」
呼んでも、目は開かない。
ただ、冷たい指が、ほんのわずかに握り返した。
*
七年前。バーンロック。
リラは傭兵団に籍を置き、商人の護衛としてその街に入った。
風が強い。舌に薄く砂の味が残って、水を飲んでも取れなかった。
補給のために立ち寄る商隊。駐屯する軍。その両方を相手に暮らす住民。
通りはいつも混んでいて、香辛料と、油と、獣脂の焼ける匂いが層になっていた。
その日、リラは商人の後ろについて市場のある大通りを歩いていた。
正面から、軍服の一団。
若い兵士たちだった。新兵らしく、歩調が揃っていない。
そのなかのひとりと、肩が触れそうな距離ですれ違った。
――花の、香りがした。
砂と、油と、汗の匂いの中を、それだけがまっすぐ抜けてきた。
白い百合に、よく似た香りだった。
甘さの奥に、青い苦み。
一瞬で、幼い日の花畑に引き戻された。
裸足の足の裏の草の感触。母の濡れた指の冷たさ。父の指が髪から花びらをつまみ取る、あのわずかな引っかかり。
懐かしかった。胸の奥が、ほどけるようだった。
だが、同時に喉に熱がこもった。
奥歯の裏に唾が湧き、舌が乾いた。喉の粘膜が張りついて、息をするたびに暑い。
これまで感じたことのない感覚だった。
近づきたい。触れたい。声が聞きたい。
リラは足を止め、人にぶつかられて肩を押された。
振り返った。
軍服の背中が人混みの中を遠ざかっていく。
同僚に何か言われて、その兵士が笑った。
横顔が見えた。
それが、カイルだった。
理由がわからなかった。
自分の中に、これほど強い衝動が眠っていたことをリラは知らなかった。
そのあと、何度も街でカイルを見かけた。
補給所の前で。食堂の窓越しに。夜警の交代の列の中で。
見るたびに、砂と煙の中から、あの香りだけが届いた。
見るたびに、喉の渇きが強くなった。
そして見るたびに、胸の奥が静かになった。
姿を見るだけで、長い年月の孤独が、少しだけ薄れた。
——お母さんが、昔、言っていた。
いつかね、リラにも特別な人が見つかる。
会えば、きっとわかる。
匂いと。
身体が。
教えてくれる。
母のつくり話か、寝かしつけのための昔話だと思っていた。
——特別な人。
この人が、私の特別なのかもしれない。
そう気づいたとき、リラの背中を這い上がってきたのは、喜びではなかった。
もしそうなら。
私があの人に近づけば……。
また、同じことが起きる。
私が、彼を不幸にする。
だから、遠くから見るだけ。
自分に許したのは、これだけにしたのだ。
*
言葉を交わしたことは一度もない。
同じ通りを歩くだけ。
同じ店に入って、違う席に座るだけ。
じっと見つめていると、視線が合いそうになることが何度かあった。そのたびにリラが先に目を逸らして路地に入った。人混みに紛れた。日陰の壁に背をつけて、砂の混じった風が通り過ぎるのを待った。
——ある日、カイルが花を買っていた。
市場の外れの小さな花売りから。
白い花だ。このあたりでよく採れる、百合に似た小ぶりの野の花。
数本を紙に包んでもらって、カイルはそれを持って歩きだした。
誰かに渡すつもりだったのだろう。
誰に、とは考えなかった。
自分になどと、思ってはいけないから。期待すれば、近づきたくなる。
カイルは結局、それを誰にも渡さなかった。
夕方まで持ったまま歩き、宿舎のほうへ帰っていった。
その途中で、風が吹いた。
砂を巻き上げる乾いた強い風。
紙の包みが緩んで、一輪だけが宙へ舞った。
カイルは気づかなかった。そのまま歩いていった。
リラの手が、勝手に伸びた。
少しだけ慌ててかけよって、地面に落ちるより早くその一輪を受け止めていた。
花びらは思ったより厚い。指の腹に、蝋を薄く塗ったような手触りが残った。
茎の切り口はまだ湿っていて、そこからあの香りが立った。
——渡されたのではない。落ちたものを、拾っただけだ。
カイルは、花が散ったことすら知らない。
それなのに、胸の奥が温かくなるのを、止められなかった。
幼い日の花畑。
母の笑い声。
狭い船で初めて咲いた一輪。
そして、燃えていった庭。
温かかったものすべてが、この香りの中にあった。
誰にも知られないまま、その一輪は、リラの孤独を癒やした。
同時に、願いが生まれた。
もっと近くで見てみたい。話してみたい。自分から、声をかけてみたい。
すぐに、打ち消したけど。
これで充分だ。
花を一輪、拾えただけで充分すぎる。
それ以上を望んではいけない。
*
襲撃は明け方に始まった。
バーンロックは大規模な感染者の襲来を想定した街ではなかった。
外壁は低く、防衛区画は形ばかりで避難経路は市場を通っていた。
遅すぎる警報が鳴る。
けたたましい音が石壁に反響して、耳の奥が痺れた。
皆、逃げた。逃げる人にぶつかって、人が転んだ。
転んだ人の上を、また人が越えていった。
感染者の群れが外郭から流れこんできた。
臭いが、先に来た。
腐りかけた肉と、酸っぱい体液と、それを覆い隠すような甘い腐臭。
吸いこむと喉の奥が閉じそうになった。
街は、驚くほど短い時間で崩れていく。
リラは契約どおり、商人を守った。
ただし、人間として不自然にならない範囲で。
一撃で倒せる相手を、三度斬った。
刃が骨に噛んで止まるたびに、手首まで衝撃が返ってきた。
避けられる攻撃を、わざと浅く受けた。
腕を裂かれても、傷が塞がる速度を隠すために布を巻いた。
血が布を透って、指が滑った。
その制限の中でよく戦ったと思う。
けれど、数が多すぎた。
角を曲がったところで群れが横から押し寄せた。
商人も、他の護衛も、みんな波に飲まれた。
手を伸ばした指先が外套の裾に触れたが、掴めなかった。
濡れた音がして、悲鳴が上がり途中で切れた。
——また、守れなかった。
本気を出していれば、間に合ったかもしれない。
けれど私は、隠れることを選んだ。
私は、何のために強く生まれたのだろう。
契約主は死んだ。
もうこの街に残る理由はない。
逃げてよかった。
それなのに、リラは戦場から離れられなかった。
煙と血の匂いの向こうから、微かに花の香りがしていた。




