第28話 小さな家
年月が過ぎた。
子供用の寝台からリラの足がはみ出るようになり、女が持ち帰る古着の丈は足りなくなった。
小型船は、ひとり分の生活のために造られている。
食料の消費。
排出される熱と水。
生命反応。
隠しきれない痕跡が、少しずつ増えていく。
見つかれば、誰かに、連れて行かれる。
女はその日が来ることを、ずっと前から知っていたのだと思う。
だから女は、船からリラを降ろした。
昇降口が開いた瞬間、湿った風が顔にぶつかった。草と、雨あがりの土の匂い。機械を通していない空気に、リラは咳きこんだ。
緑の多い惑星の、街の郊外。森と草地に囲まれた一軒家。いちばん近い家まで、歩いて一時間はかかる。
家の中には、必要なものがすべて揃っていた。身分証。金銭。衣服。保存食。工具。薬。棚の並びは、船の収納とまったく同じ順序だった。長い時間をかけて用意されたものだと、ひと目でわかる。
けれど女は、そのことについて何も言わなかった。
街の中心に近づかないこと。
危険を感じたら、最低限の荷物だけを持って逃げること。一度離れた場所には、二度と戻らないこと。
必要なことだけを、いつもの声で告げた。
自分が大きくなったから。
隠すのが難しくなったから。
頭では、わかった。それでも身体の奥のほうで、別の声がした。
——また、置いていかれる。
一緒に行きたい、とは言わなかった。
だから笑おうとした。
喉の奥が詰まって、声が掠れた。
「大丈夫」
女も、表情を変えなかった。
別れ際、女はリラに小さな鉢を渡した。
土の中に、球根が埋まっている。掌に乗せるとまだ湿っていて、ずしりと重かった。説明はなかった。
リラも訊かなかった。指の腹に、土のざらつきが残った。
昇降口が閉まる。推進器の唸りに草がいっせいに寝て、舞い上がった砂が口に入り、じゃりと鳴った。
リラは手を振った。見えなくなるまで。
腕が痺れても振った。
一度だけ、女がこちらを振り返ったように見えた。
見間違いかもしれない。
あの人は、私を捨てたのではない。
守るために、離したのだ。
それはわかっていた。
——けれど。
私がいたから、あの人は危険を抱えつづけた。
私を大切にしたから、あの人はここまでしなければならなかった。
愛されるということと、誰かに重荷を負わせるということが、このとき、リラの中で静かに結びついた。
*
畑を耕し、買い出しは月に一度だけ。
教わったとおりに暮らした。
庭に白い百合を植えると、翌年には窓を閉めていても香りが届くようになった。
夜。火にかけた鍋の音が家の中で唯一の話し相手だった。料理の時は、いつも量を間違えた。
二人分の癖が、なかなか抜けない。
孤独だった。けれど、安全だった。
誰かを失う心配もしなくていい。
これは平穏だ、と自分に言い聞かせた。
本当は、人の声が恋しかった。
*
大きな嵐だ。一晩中、雨が屋根板を叩いて家全体が唸っているように聞こえた。
朝、外へ出ると、柵の一部が根元から倒れている。
直さなければ、と思って数日が過ぎた。
その数日の間に、少年が入ってきた。近隣に住む子どもで、森を探検していたのか道に迷ったのか、本人にもよくわかっていないようだった。
リラは身構えた。人に見つかってはいけない。それが、最初に教えられたことだった。
けれど少年は、リラを見ても怖がらなかった。膝も肘も擦りむいているのに、まず目を輝かせて言った。
「ここ家があったんだな!知らなかった!」
庭の白い花にしゃがみこんで顔を近づけ、大げさに息を吸って、「いい匂い」と笑う。
そして帰り際、また来る、と言った。
止めるべきだ。柵を直して、二度と入れないように。
でも、リラにはできなかった。
少年はときどきやってきた。
二人で森を歩いて、割れると内側が青い石や、錆びついた機械の破片を見つけた。少年は必ずリラのところへ持ってきた。
両手で抱えて、走って、これを見て、と差し出す。
ある日は、赤くて小さな木の実だった。
噛むと皮が弾け、酸味のあとから、舌の付け根が痺れるほど甘くなる。
「変な顔してる」
少年が笑った。リラも笑った。
自分の笑い声を、久しぶりに聞いた気がした。
——かつて、白い花を抱えて走った子どもがいた。
そのことに、リラは気づかなかった。あるいは、気づいていて、考えないようにしていた。
そのまま何年かが過ぎた。
少年の背が伸び、目の高さが変わり、声が低くなった。
リラの見た目は、ほとんど変わらない。少年はときどき不思議そうにリラを見たが、何も訊かなかった。
いつも門のほうで枝を踏む音がすると、手の動きが止まる。そのたびに、リラは胸が苦しくなった。
また、誰かを大切にしはじめている。
やめなければならない。
わかっていて、自分からは終わらせられなかった。
*
その日は、森の奥まで行った。
風向きが変わったとき、リラは気づいた。濃くて脂じみた、この森のものではない獣の匂い。
草の陰に、大きな影がいた。低い唸りが腹の底に響き、後ろ足が土を掻く。
そして、少年に向かって跳んだ。
考えるより先に身体が動いていて、力を調整する余裕はなかった。
リラは獣と少年のあいだへ滑りこみ、腕を振り抜いた。
手応えは、驚くほど軽かった。
音が遅れて届く。
獣の身体は横へ吹き飛び、若木を折り、その先の岩に叩きつけられる。骨の砕ける音が、湿った布を裂く音と重なった。原形をとどめていなかった。
血が。
草にも、木の根にも、少年の服の裾にも、飛び散ってしまった。
生温かい飛沫が頬にかかり、舌の先に、鉄と塩の味が触れる。
虫の声さえ消え失せた中、リラは振り返り、怪我はないか確かめようとして一歩近づいた。
少年は、後ずさった。
その目が、リラの顔を見ていた。血に濡れた手を見ていた。その向こうの、かたちを失った獣を見ていた。
助けられたことは、わかっているはずだった。
わかっていて、それでも恐怖のほうが勝った。
唇が動いても、音は出なかった。そのまま身をひるがえして走り去り、やがて下草を踏み折る足音は聞こえなくなった。
リラは追いかけない。追えば、もっと怖がられる。
本当は、すぐにでも追いついて、守りたかっただけだと言いたい。
——けれど、もしも追いかけたとして。何と説明すればいいのか。
追いかけたところで、良い未来は想像できそうにない。
手のひらの血が乾いて、指を曲げるたびに皮膚が引きつった。
匂いは、いつまでも消えなかった。
*
少年は家に帰ってもうまく話せなかった。
血のついた服で混乱したまま、口走る。
森。女。化け物。血。一撃。
断片だけが、大人たちのあいだで組み上げられた。
森に人を襲う怪物がいる。
街の自警団も動いた。
誰も、悪意で動いたわけではない。
少年は怯えただけ。
両親は我が子を守りたかっただけ。
自警団は街を守ろうとしただけ。
それぞれの正しさが重なって、リラは怪物になった。
三日後、彼らは家を見つけた。
リラは庭に立って逃げなかった。
十人以上。銃口が向けられ、金属の触れ合う音がいっせいに鳴る。汗と、油と、怯えの匂いがした。
争うつもりはなかった。説明しようとして口を開いた。
言葉は、届かなかった。
誰かが撃った。
肩から胸にかけて、灼けた棒を押しこまれたような熱が走った。
続けて何発も撃たれ、膝が土につく。
口の中いっぱいに、あの鉄の味が広がった。
それでも死ななかったことが、彼らをさらに怯えさせた。
火が放たれた。
乾いた木がはぜ、屋根が落ち、直したばかりの扉が炎の中で反り返って割れた。庭の白い百合が、根元から黒く縮れていく。
煙が喉の奥まで入ってきて、苦かった。
花の香りは焦げた匂いに飲みこまれ、もう嗅ぎ分けられない。
——これが、守った結果。
血を流したまま、リラは森のほうへ下がった。
最低限の荷物だけを持つこと。
すべてを取り戻そうとしないこと。
生きることを優先すること。
背嚢ひとつ。それだけを掴んだ。
一度だけ、振り返った。
家が燃えていた。花が燃えていた。あの人と過ごした日々も、少年と歩いた森も、同じ炎の中で灰になっていく。
舞い上がった灰が頬に落ちて、まだ熱かった。
このとき、リラは決めた。
ひとつの場所に留まってはいけない。
誰かと親しくなってはいけない。
大切に思っても、思われても、いけない。
それからのことは、夢の中でも早く流れた。
惑星が変わる。街が変わる。空の色が変わる。水の味が変わる。硬い水、鉄臭い水、消毒剤の匂いのする水。
同じ味の水を二度飲むことは、めったになかった。
廃品を拾って売った。壊れたものを直した。荷を運んだ。用心棒をした。誰も受けない依頼を受けた。
必要とされることはあった。
けれど、必要以上には近づかなかった。
酒場で誰かが隣に座り、二度目に名前を呼ばれたら、その街を出た。
愛されなければ、その人は私のために傷つかずに済む。
愛さなければ、離れて行かない。
孤独は罰ではない。まわりを守るための、いちばん確実な方法だ。そう信じていた。
服が変わり、髪の長さが変わり、扱う武器が変わっていった。
変わらないのは、いつもひとりで街を出ていくその背中だけだった。




