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第27話 白い百合

花の、香りがした。

白い百合の香りだった。甘さの奥に、青い苦みが混じっている。

やわらかな風で、見渡すかぎりの白がいっせいに傾いだ。


小さな手が、舞い上がった花びらを追いかける。指のあいだをすり抜けて、開いた手のひらには汗と土の跡しか残らない。

それがおかしくて、笑い声が上がった。

自分の笑い声だ、と、ずいぶん遠いところで思った。


一本摘む。茎はまだ水気を含んでいて、切り口から透明なものが糸を引いた。

また一本。黄色い花粉が袖に擦れ、頬を拭った拍子に唇にもつく。舌先で舐めると埃っぽくて、少しだけ苦い。

母に見せる花だ。多ければ多いほどいい。

抱えきれなくなって、リラは集落へ歩きだした。

汗ばんだ二の腕に茎が張りつき、歩くたびに冷たく滑る。


家の前で母が洗い物をしていた。両腕いっぱいの白を突き出すと、濡れた手を止めて、一瞬だけ目を丸くする。

それから、笑った。


「こんなに摘んで」


花畑がなくなってしまうでしょう、と困ったように言いながら母は膝をついて受け取った。

叱る声ではない。濡れた指が手首に触れて、そこだけひやりとした。


父が土間の砂を踏んで出てくる。

髪に絡んだ花びらを指先でつまんで取り、それから花束を覗きこんで、不器用な手つきで茎を押しこみ、かえって形を崩した。

母が笑った。リラも笑った。


その夜、欠けた瓶に挿しただけの花束が食卓に飾られた。汁物は塩気が強すぎて、リラは水を二度おかわりした。

父がそれをからかい、母が父をたしなめる。湯気の向こうで、白い花が揺れた。

明日も明後日もそこにあるものだと思っていた。

失われるということを、まだ知らなかった。





同じ花が、暗闇の中で揺れていた。灰色に沈んだ花が、風もないのに震えている。

遠くで音がした。

雷か、何かが倒れた音のように聞こえた。次に、乾いた破裂音が続く。

それが銃声だと知ったのは、ずっとあとのことだ。


悲鳴。集落の端に火が上がった。木の焦げる匂いに嗅いだことのない匂いが混じっていた。

獣の毛を焼いたときの匂いに似ていて、それより甘い。


母に腕を強く引かれた。

爪が食いこむほどの力で、痛いと言う余裕はなかった。

父が振り返らずに何かを叫ぶ。言葉は覚えていない。

声だけを覚えている。


友人の家へ押しこまれた。床板が持ち上げられ、黒い口が開いて、土と黴の匂いが噴き上がる。


声を出してはいけない。


母がそう言った。震えていない声。板が閉じて服越しに土の冷たさが染みてくる。隙間から落ちる細い光の中で、埃が回っていた。

その埃を、リラはずっと見ていた。


外を、足音がいくつも通り過ぎた。

銃声。

泣き声。

何か重いものが、頭のすぐ上の床に落ちる。板が撓み、木屑が顔に落ちてきた。


リラは両手で口を押さえた。土のついた手のひらが、唇のあいだで砂の味をさせる。

声を出せば見つかる。

幼いリラにもそれは理解できた。だからこそ、苦しかった。

歯を食いしばりすぎて唇の内側を切り、口の中に錆びた鉄の味が広がった。

音が減っていくほど、迎えが来ないという事実が重くなる。


暗闇の中で、リラはなぜか、昼間の花畑を思い出していた。

いつもより遠くまで来ていた。風が止まり、葉ずれの音が消えて少し離れたところで茎の折れる音がした。

ぱき、と。

自分が折ったのではない音だった。振り返っても、木々と白い花しかない。

奥で何かが動いた気がしたが、瞬きをすると、もう何もなかった。

怖くなって、花を抱えて走った。

家が見えたときには、忘れていた。


——帰る場所を、見られた。

私が遠くへ行ったから。

私が帰ってきたから。

私のせいで、見つかった。

確かめる方法はなかった。

確かめてくれる大人も、もういなかった。

それでも、それが、リラの得た最初の答えになった。





長い静寂のあとに、扉が開いた。外の焦げた空気が流れこんでくる。

ゆっくりとした足音が床を渡ってきた。


急いでいない、何かを探している足音だった。

リラは息を止めた。

心臓の音が板の外へ漏れているような気がした。

隙間から、長い黒いローブの裾が見えた。床の埃を掃きながら移動し、やがて止まる。

しばらく動かなかった。


床板が、持ち上げられた。

目の奥が痛むほど白い光が差しこんで、リラは顔を背けた。

逆光で顔は見えない。けれど、フード越しでも女の人だとわかった。


女は何も言わず、床下へ手を伸ばした。背中と膝の下に腕を差し入れて抱き上げ、長いローブの内側へ隠す。

顔を胸元へ押しつけ、外を見せないようにした。


布が唇に触れた。埃と、油と、冷えた金属の匂いがする。

乾いた織り目が頬に食いこんで、そこだけ熱を持った。

味方なのか、敵なのかもわからない。

戻りたかった。

けれど、身体にはもう、指一本動かす力も残っていなかった。

抱き上げた腕は、震えていなかった。冷静で、迷いがなくて、それでいて乱暴ではなかった。

外の音が布に阻まれ、遠い水の底のように聞こえる。

その腕の中で、リラの意識は途切れた。





目を覚ますと、知らない天井があった。

継ぎ目の並んだ金属の板。

低い機械音。

床の振動が寝台を伝って背中を撫でていく。

空気は乾いていて、鼻の奥が痛かった。


小さな丸い窓の外に星があった。瞬きひとつしない、硬い光。

あの女が個人で所有している小型船の中だった。

決まりごとは少ない。

船の外へ出ないこと。

誰かが近づくときは隠れること。

呼ばれるまで出てこないこと。


女が船を降りていくとき、リラは気密扉の前の冷たい床に座って待った。配管が鳴るたびに立ち上がった。

女が帰ってくると身体の力が抜けた。うれしい、とは言わなかった。

言葉にしてしまえば、次に帰ってこなかったときに耐えられなくなる気がした。


女はリラに読み書きを教えた。

星系の名前。

機械の直しかた。

傷の手当て。

痕跡を残さず移動する方法。

そして、料理。


はじめて作った汁物は、水を入れすぎて薄かった。女は何も言わずに最後まで飲み、器を返して、次に塩の量を教えた。翌日のそれは塩辛すぎた。三度目に、ようやく味らしい味になった。

女はなにも言わなかったが、最後まで飲み干した。


その晩、リラは寝台の中で、なぜか泣きそうになった。

船内の一角には小さな栽培区画があった。湿った土の匂いだけが、この船で唯一、地面を思い出させるものだった。

女がどこからか球根を持ち帰り、育てられるか、とだけ言って渡した。

芽が出るまで、リラは毎日そこへ通った。土に指を入れて湿り気を測り、爪のあいだが黒くなった。


白い花が咲くと、換気が回るたびに通路の端まで香りが流れた。甘さの奥に、青い苦み。

故郷の花畑と、同じ香りだった。


その前に、長いこと座っていた。母を、父を、塩辛すぎた汁物の味まで思い出した。

悲しかった。それでも、この狭い船の中に、自分の居場所ができはじめているのを感じていた。

女を、母と同じようには呼べない。

それでも、帰りを待った。

褒められればその日は一日うれしかった。狭い卓に向かい合って、同じものを食べるだけで安心した。

私はまた、誰かに守られている。

そう思うたびに、みぞおちのあたりが冷たくなった。


——この時間も、いつか終わるのではないか。


一度失った者にしかわからない種類の恐怖が、幸福の裏側にいつも張りついていた。


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