第26話 脱出
排気坑は斜めに上っていた。
肘と膝で氷混じりの岩を噛みながら押し上がる。
暑かった。
進み始めていくらもたたないうちに暑いと感じていた。汗がこめかみを伝い、塩の味になって唇に落ちる。
この星ではじめて汗が流れた。
息を吸う。鉄と腐った海藻のような施設の古い匂いが、喉の奥に貼りついた。
「――中尉、上です!」
アーネストの声が、排気坑の上から湿った反響を引いて降ってきた。
「四十メートル!光が見えます!外です!」
「――行け!止まるな!」
その時だった。
何かが腹の底を押した。
音だった。
排気坑だけではない。もっと巨大な何かが軋んでいる。
排気坑が揺れ、天井の氷から細かい滴が散る。
縦に施設全体がゆっくりと傾いた。
氷が溶け始めたのだ。
施設が沈んでいく。
次の瞬間。
転げ落ちるような轟音。
咄嗟に伏せた。
衝撃が先だったのか。
音が先だったのか。
分からない。
顔を上げた時には、カイルの三メートル前で天井が落ちていた。
*
氷が排気坑を塞いでいる。
頭上の氷河が、坑の天井を突き破ってきたのだ。まだ細かい氷の粒がぱらぱらと落ちている。突き破った時の風が頬に残っていた。
カイルはそれを両手で押した。掌に、凍った表面のざらついた冷たさが食い込んだ。
動かなかった。
肩を入れた。
骨が軋む音が体の内側で鳴った。
動かなかった。
「――アーネスト!」
「――中尉!!」
かろうじて声は届く。氷の向こうから、くぐもって遠かった。
「聞こえるか!」
「聞こえます!こっち側は通ってます!中尉、そっちは!」
「塞がってる!」
カイルは掌の下を探ってみた。
氷だ。古い透き通らない氷。
だが、濡れていた。溶けかけた手袋越しに表面を滑る。
指を塊の縁に沿って這わせた。塞いでいるのは排気坑の上半分だけだ。氷の下には隙間がある。
その隙間の奥からかすかに外の空気の匂いが流れてきた。
雪の匂いだった。その隙間は隣の通路へ抜けている。カイルたち通ってきたあの道へ。
氷は排気坑の岩肌に出っ張った角を食い込ませて引っ掛かっているだけに見える。
そこ以外は宙づりだ。その食い込んだ一点さえ外れれば――あとは自分の重さで下の隙間へ滑り、隣の通路へ滑り落ちていく。
だが、今は素手。
拳を当てて叩いたが、掌の骨に痺れが跳ね返ってきた。
鈍い音。氷が割れる音ではなかった。
「――カイル」
その一声でカイルの肩に張っていたものが、ふっと抜けた。
リラが上ってきていた。つまり下は済んだということだった。
生きて、声が届く場所まで上がってきた。
今はそれだけでよかった。
彼女の呼吸が浅く速く、排気坑の壁に反響していた。
「――どけられるか」
「……氷だ。縁が岩に食ってる。そこを割れば下の通路へ落ちる。だが素手じゃ――」
「刃ならここに」
リラが前に出た。
六十センチの排気坑の中で、彼女はカイルの体の下を擦るようにして通った。
その体のあちこちが、濡れていた。
腕も。
脇腹も。
腿も。
擦れるたびに布がぬめった。
鉄錆に似た血の匂いが鼻先を掠め、擦れたところに黒い染みが点々と残った。
数えられないほど。
その瞬間、彼女の体温がカイルの首筋に触れた。
冷たくない。この星に降りてから、初めて彼女が冷たくなかった。
熱いくらいだった。その熱がいいものではないと、カイルには分かっていた。
リラの手は短い刃物。さっきまで別のことに使っていた刃だ。
刃の根元に乾きかけた黒いものがこびりついている。
彼女はそれを氷の食い込んだ縁へ振り下ろした。
金属と氷の高い音が響いた。
もう一度。
また音が鳴った。
「――リラ」
彼女はもう一度、振り下ろした。
刃が食い込み、氷の削れるきしむ音が排気坑に満ちた。
その時、自分たちの息遣いだけの空間に、音が滲んだ。
ぽたぽたと、雫が落ちる音。
氷ではなかった。もっと近くから聞こえる。
気づくと彼女の肩が黒く濡れていた。いや、肩だけではなかった。
腕も脇腹も、動かすたびに。
彼女は全身を少しずつこぼしながら刃を振り下ろしていた。
「――やめろ」
「……いや」
「血が」
「……大丈夫」
また、血の匂いが濃くなった。
ぴき、と乾いた音が排気坑の壁に跳ね、氷の縁に十センチの罅が走る。
その代わりに彼女の体が壁に寄りかかった。
ずるり、と布の擦れる音がする。
「――リラ」
彼女は答えない。
カイルは彼女の顔を見た。狭い排気坑の中で、二人の顔は三十センチと離れていない。
汗と血の匂いが混じって、目は開いていた。
だが、どこも見ていない。
「――何が見えてる」
「……白い」
「何だと」
「……ごめん。少し、白い」
彼女は瞬きをした。
一度。二度。
睫毛に汗の滴が光っていた。
それから焦点が戻ったふりをした。
カイルにはそれが分かった。艦の訓練で飽きるほど見た。
負荷が限界を越えても、この女は気づかない。気づかないまま、まだやれると言う。
実際に、やってしまう。訓練甲板の汗と冷えた金属の匂いの中で、腕が上がらなくなるまで無理をして、それでも顔だけは平気なふりをする。
この、少し焦点のずれた目で。
いま彼女がしているのは、それだった。
「――もういい。やめろ。刃を寄こせ」
「いや」
「寄こせと言ってる」
「……あと少しだから」
リラは氷にまた刃を当てた。
その手が震えていた。
刃先が氷を細かく叩く音がする。
「――もうやめろ!!」
カイルはその手首を掴んで驚いた。
細い。
この腕が、さっきまで感染者の頭を掴んで引き抜いていた腕だ。
それが今は壊れもののように感じる。
「……離して」
「聞け。お前は限界だ」
「……まだ、」
「握れるだけだ」
「握れれば、じゅうぶん」
リラは顔を伏せたまま言った。
声は掠れて排気坑の底に沈むように低かった。
「私が今ここで倒れたら、」
「あなたは帰れない」
「――お前」
「私はあとで倒れる」
彼女は手首を引き抜いた。
カイルが手を離したのだ。
「――だめだ」
「一人で割ろうとするから、傷が広がる」
彼は彼女の隣に体を捻じ込んだ。
血の匂いがすぐそこにあった。
「……何」
「二人でやる」
「刃をそのまま持ってろ」
「……ん」
「お前は支えるだけでいい。押し込むのは俺がやる」
カイルは銃を握ると、グリップを刃の柄に重ねた。
氷が内側でみしりと鳴った。
「――息を合わせろ。お前の吐くのに合わせる」
リラが息を吸った。震えていた。ひゅう、と細い音が喉で鳴った。吐いた。
「――今だ」
カイルは余力を柄に叩き込んだ。
二人分の体重が刃に乗る。
氷が鳴った。さっきより大きく。
裂けが縁の半分まで広がっていた。
裂けかけた氷がその重さで軋んだ。まだ食い込んでいる。あと一突きで外れる。
「――俺が押し込む」
「……カイル」
「お前はあと一回。一回だけ、持ってろ」
吸って。吐いて。呼気が白く、二人の間でほどけた。
「――今だ」
殴りながら押し込んだ。
ぱきん、と澄んだ音が排気坑に響いたと同時に、氷が悲鳴のような音を立てて、甲高く長く、排気坑を裂いた。
支えをなくした氷は、もうそこに留まれない。
宙にあった重さの全部が下へ傾き、排気坑から隣の通路へ。
氷は下へと滑り落ちていった。
岩を擦る長い音が遠ざかって、やがて、ずしん、と底で止まる音がした。
氷が消えた排気坑その先。光が差していた。
青く冷たい、外の光だった。
「――中尉!!」
アーネストだ。
開いた口の向こうにいる。
「――こっちです!掴んでください!」
その顔がリラを見て、止まった。
言葉が続かなかった。
息を呑む音だけが聞こえた。
外の光が彼の背を照らしている。
「――アーネスト」
カイルは言った。
「先に、この人を受け取れ」
「――は、はい」
アーネストの腕が伸びた。かじかんだ細い腕。
その手がリラの腕を取った。掴んだ瞬間、彼の顔が歪んだ。
手に伝わった湿り気のある感触に、だろう。
外からの風が排気坑の中へ流れ込んだ。氷点下四十度の風が、リラの濡れた体を撫でる。
触れたところから熱が奪われていくのが、傍から見ても分かった。
彼女はその風の中で、カイルとアーネスト、二人の腕に預けられた。
もう、立ち上がれなかった。
*
外は白い。三人は雪の上に出た。
風が汗の浮いた顔を平手のように殴った。
皮膚が一瞬で強張るが、カイルはその痛みをありがたいと思った。
生きている者だけが痛がれるのだから。
「――リラ」
彼女は雪の上に崩れたままだ。
肩の布も、袖も、脇腹も、もう黒くない。
外の光の下では、それはただただ赤かった。
体中のいくつもの傷から、赤が雪へ染み出しては凍っていった。
「――リラ!」
彼女は答えなかった。目を薄く開いたまま空を見ていた。氷点下四十度の白い空を。
見えているのか、いないのか。カイルには分からなかった。
アーネストが膝をついた。
抱えていた記録媒体を雪に置いて。
初めてそれを手から離して。両手でリラの傷を押さえようとした。
掌がすぐに赤く濡れてしまい、どこを押さえればいいのか分からなかった。
傷が多すぎた。アーネストの唇が震えていた。
「……あとで、倒れるって、言ったろう」
カイルは彼女の頭を膝に乗せた。髪に雪が触れていた。溶けなかった。
「まだ、あとじゃない」
リラの唇が動いた。
声にはならなかった。呼気だけがうすく白く立ちのぼって、風にちぎれた。
風が鳴っていた。
その音の中で、カイルは彼女の名をもう一度呼んだ。
声が白い息になって、すぐに流された。
雪が三人の上に流れてきた。
音もなく。
積もることもなく。
ただ流れて、通り過ぎていった。




