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第25話 隔壁

通路は来た時と同じだった。

同じ、はずだった。


匂いが違う。

来る時にはなかった鉄錆と、溶けかけた油のような臭いがずっと奥から薄く流れてきていた。


カイルが先頭で走り、その後ろをアーネストが記録媒体を抱えて、最後尾にリラがいた。

三人分の足音が床を叩いて、壁に跳ね返り重なった。

角を一つ曲がった。

黄色い光の中を上りはじめる。

天井の照明が一定の間隔で彼らの肩を撫でては消えた。


そして、二つ目の角の手前で、止まった。

壁が通路を塞いでいた。

床から天井まで。

継ぎ目がない。

黄色い光を、鈍く跳ね返している。

厚さは、分からない。


「――どけられるか」


カイルはその表面に手を当てた。


冷たくない。

指の腹に、ぬるいような体温に近いような感触があった。

金属が外の氷点下四十度に晒されていない。


この壁はずっと天井の中にいたのだ。

何十年も。この日のために。

指先でうっすらとした埃の膜がこすれた。


「無理です」


アーネストが端末を壁に当てた。

走ったせいで、その息が、白く尾を引いていた。


「隔壁です。……生物学的封じ込め用の。設計思想が違います。人が出ないように作ってあるんじゃない。何も出ないように作ってある。空気一つ通さない」


『第三段階』


声が降ってきた。

天井のどこかから乾いた小さな雑音を先に伴って。

抑揚がなかった。


『冷却系統を解除します』


「――冷却」


アーネストが顔を上げた。

その顔が、黄色い光の中で、白かった。汗が、こめかみを一筋、伝っていた。


「――冷却?」


「どうした」


「――待ってください。待って。冷却って、」


彼は、天井を見上げた。それから、壁を見た。

水滴が、浮いている。

金属の表面に細かな粒になって、光を弾いている。

入った時からずっと。


「ここ、氷河の中なんです」


「知ってる」


「違う、違うんです、中尉」


アーネストの声が、上ずった。


「氷河の中に施設がある。……なんで、溶けないんだと思います?」


カイルは、答えなかった。

代わりに、壁に当てた手のひらに、意識を落とした。


「冷やしてるからです。ずっと。何十年も。この施設は、自分の周りの氷が溶けないように、自分を冷やし続けてた。……それを、今、解除した」


音がした。遠い。どこか、深いところで。

床の裏を太い管が這っているのが、足の裏に伝わってくる。

その管の中を何かが逆流する音だった。粘りのある低い腹に響く音。


カイルは、壁に手を当てたままだった。

その手の下で金属が変わった。

冷たくないものが、ぬるくなった。

ぬるいものが、生温かくなった。

同時に鼻先に湿った土のような臭いが立つ。

長く凍っていたものが、緩みはじめる臭いだった。


「――温度、上がってる」


「上がります」


アーネストが端末を見た。

画面の光が、その白い顔を青く照らした。


「氷点下四度。……三度。……二度」


「何度まで上がる」


「分かりません。でも、」


彼はそこで言葉を切った。切って、飲み込んで、それから言った。


「――零度を超えたら氷が溶けます」


その言葉の途中でカイルはそれを聞いた。

通路の下から。

濡れた布を引きずるような音。

一つ。

それから複数。

振り返る。

黄色い光の中を、こちらへ、影が来ていた。


三つ。

五つ。

七つ。


輪郭が揺れていた。関節のあるべきでない場所が折れていた。


「その前に」


アーネストの声はもう震えていなかった。

震える段階を通り越していた。


「この施設に、何体、保管されてたと思いますか」


檻は六段あった。

一段に二十。

それが、光の届かない先まで。

黒い格子が闇の奥へ消えていく。

感染者が来ている。

その反対側に隔壁がある。


「――アーネスト図面だ!この施設の、古い図面!記録媒体になかったか!」


「索引だけです!中身は――」


「探せ!」


「――探します!」


アーネストは、走りながら、片手で端末を叩いた。指が、汗で滑って、一度、二度、外した。

もう片方の手は、記録媒体を抱えている。黒い箱の角が、脇腹に食い込んでいた。

その中に、答えがある。

捨てれば、両手が空く。

彼は、捨てなかった。


「――ありました!」


「何が!」


「索引じゃない!索引の、外です!保守用の区画図が、別の層に――こいつ、隠してない、ただ古すぎて、誰も読まなかっただけだ!」


彼が画面を掲げた。

白い線が走っていた。


通路。区画。そしてその全部の横を、細い線が一本。


「排気坑です」


「――何だそれは」


「空気を、外へ捨てる穴です。……封じ込めの対象外だ。設計者が、そこまで考えなかったのか、それとも――」


「太さは!」


「六十センチ!」


カイルは走った。

背後で濡れた足音が数を増やしていく。


『第三段階、完了。第四段階へ移行します』


声が追ってきた。天井のどこからでもない場所から。


『最深区画の、隔離を解除します』


「――最深?」


リラは走りながら言った。息が、乱れていない。


「……ずっと下に、なにかいる」


アーネストが、走りながら端末を見た。

見て、足が止まりかけた。

その口が半分だけ開いて音が出なかった。


「――アーネスト!」


「――中尉」


「走れ!」


彼は走った。

走りながら端末をカイルの背中へ突き出した。

カイルは走りながらそれを見た。


熱源反応。

赤い点の群れ。

この施設の最深部。

彼らのいる場所から、垂直に二百メートル下。

点がいくつもあった。

数えられない。

三十。五十。

その点が動いていた。

中心へ。


一つ、また一つ。

接触した点が消えていく。

いや、融けている。

赤が赤に流れ込んでいる。

二百メートル下で、五十の熱源が一つになろうとしていた。

画面の隅に文字が出た。


『形状不定』


『複数熱源、統合中』


その瞬間、床がごく僅かに震えた。足の裏に遠い鼓動のように。


カイルは、走った。

走りながらその一つになったものの大きさを計算しないようにした。

できなかった。





排気坑は、床にあった。通路の突き当たり。

格子の蓋が嵌まっている。

錆が縁を赤く縁取っていた。

ボルトが六本。


「――リラ」


彼女は既にそこにいた。

指を格子に掛けて、引いた。

ボルトが六本とも飛んだ。

金属が甲高く鳴って、床の上を跳ねて転がった。

穴の底から風が上がってきた。冷たく、乾いて、微かに、外の氷の匂いがした。


「アーネスト、先に行け」


「――僕が?」


「記録媒体を持ってるのはお前だ。お前が上がらなきゃ、全部無駄だ」


アーネストは一度だけ迷った。

それから坑に足を入れた。

六十センチ。肩が擦れる。

アーネストが肩の格納部からドローンを外した。


「これを付けたままでは通れません」


壁際へ押し込み、記録を継続させた。

金属の縁が上着を通して二の腕を削った。

記録媒体を先に押し上げてから体を入れた。


「――中尉は」


「後から行く。上がれ」


彼が消えた。

坑の中で彼の呼吸だけが反響して遠ざかっていった。


カイルは通路を振り返った。

黄色い光の中で影は数えきれない。

その全部が走っていた。

速い。

濡れた足音が乾いた足音に変わっていた。

さっきの絡まったり、ぶつかったりしていた個体ではなかった。

まっすぐ、こちらへ来る。

先頭の一体の、開いた口が見えた。


「――お前が先だ」


カイルはそう言って銃を上げた。銃把が掌に汗で貼りついた。


「リラ、行け」


「いや」


「命令だ」


「……あなたがここに残ったら、死ぬ」


「知ってる」


「じゃあ、」


「――お前が残っても、死ぬ」


カイルは彼女を見なかった。

見たら言えなくなると分かっていた。

口の中が、乾いていた。舌に、金属のような味が薄く残っていた。


「行け」


彼女は、行かなかった。


カイルの言葉は通路の壁に吸い込まれて消えた。

返事の代わりに、彼女は一歩踏み出した。

カイルの横ではなく。

前へ。


靴底が鉄板を擦る音がやけにはっきりと聞こえた。

彼女の背中が、カイルの視界を塞いだ。

黄色い光をその肩が遮った。

細い。

こんなに、細かっただろうか。

彼女は坑を背にして、立った。

逃げ道に背を向けて。

来るものの方へ体を開いて。

その姿勢の意味を、カイルは、理解したくなかった。


「――リラ」


彼女は答えなかった。

ただ、両手を僅かに下げた。

指を開いた。


通路の奥から風が来た。

最初の一体が、来る。


その臭いが先に届いた。

饐えた、甘い、肉の腐りかけた臭い。

彼女はそれを坑と反対の壁へ叩きつけた。

骨と鉄板の鈍い音。

二体目。

三体目。


「――リラ!」


「先に行って」


「お前」


「私の方が、速い」


彼女は振り返らずに言った。声だけが静かだった。


「あなたが先に上がって、私が最後。……それが一番、生存率が高い」


それは、正しかった。


正しいから、腹が立った。


「――五分だ」


カイルは坑に足を入れた。冷たい風が首筋を舐めた。


「五分経って追って来なかったら、俺は戻ってくる」


「ん」


「返事をしろ」


「……ん」


彼は上りはじめた。

肩が両側の壁に擦れて、鉄の匂いが鼻をついた。

背中で金属の鳴る音が続いていた。

その音が、少しずつ、遠くなっていった。

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