第22話 提供体
区画の奥に、扉があった。檻の列が途切れた先だ。
鉄格子ではない。錆びた臭いが漂いそうな金属の扉。
「――下がってろ」
カイルは蹴った。
扉は、開かない。
代わりに蝶番ごと内側へ倒れ、その下から机が滑り出した。
積み上げられた机だった。
三つ。
四つ。
椅子も。
書棚も。
内側から、扉に、積まれていた。
「……バリケードです」
アーネストが、掠れた声で言った。
「誰かが、ここに、立てこもっていたんです」
赤い光が、点いた。
部屋は狭い。
四メートル四方。
壁が機械で埋まっている。
古い型の演算機だ。
その筐体の全部に埃が積もり、埃の上に水滴が浮いていた。
のっぺりした床に、倒れた椅子が一脚。
その横に、何かが落ちている。
カイルは、光を当てた。眼鏡だ。
片方のレンズが割れている。
「……人が、いたんですね」
「いた、だ」
カイルは部屋を一周した。
「今はいない」
出口は一つしかなかった。
今、自分たちが壊したその扉だけ。
内側から机を積んで、それからこの部屋の主はどこへ行ったのか。
カイルは眼鏡のそばに膝をついた。
床には細い傷。
五本。
爪を立てたような跡が、椅子の下から機械の壁際まで続いている。
傷は、壁際で床へ潜り込むようにして途切れていた。
「――中尉、これを」
アーネストが、机の下に潜り込んでいた。
埃まみれで引き出してきたものを床に置く。
黒い、平たい箱だった。
厚さは指二本分。
角にヒビが入って潰れている。
「記録媒体です。物理隔離型の。……ネットワークに繋がない前提の保管用です」
「読めるのか」
「筐体が割れてます」
アーネストは既に手袋を外していた。
この部屋は外より三十六度、暖かい。
端末のケーブルを差し、画面を叩き、また差し直す。
「――駄目です」
「読めないのか」
「読めます。……読めますけど、全部は無理です。記録層が物理的に欠けてる。……取れるのは索引だけです。中身じゃない」
「索引」
「見出しです。何が書いてあったか、の一覧」
「――出せ」
画面に文字が並びはじめた。アーネストが、それを読み上げる。
声が、だんだんと細くなった。
「……『感染誘発』」
「続けろ」
「『飢餓反応』」
「続けろ」
「『群体同期』。……『個体制御』」
赤い光が、消えた。
四秒。
暗闇の中で画面の光だけがアーネストの顔の下半分を照らしていた。
「『信号源』」
「――『人工再現』」
光が点いた。
カイルは目を細めて画面を覗き込んだ。
意味は分からない。
分からないのに背中の産毛が立っているのが分かった。
「――アーネスト。訳せ」
「訳せません」
「訳せ」
「――僕が訳したら、それは僕の推測になります」
アーネストの声が震えていた。
寒さではない。
この部屋は、暖かい。
「推測でいい。言え」
アーネストは、しばらく画面を見ていた。
それから指で一つ目の項目を叩いた。
「『感染誘発』……誘発です。中尉、発生じゃない」
「――何が違う」
「発生は勝手に起きることです。誘発は起こすことです」
彼の指が、二つ目へ移った。
「『飢餓反応』さっき僕らが檻で見たものです。血を絶たれた個体がどうなるか。……それが項目として立ってる。誰かがこれを、観察してた。何十年も」
三つ目。
「『群体同期』……あの雪原です。二十体が同じ瞬間に、同じものを見た。あれに名前がついてる」
四つ目。
「『個体制御』」
彼はそこで一度止まった。
「……待て、って、言われてた。あれです」
「――五つ目は」
「『信号源』」
アーネストの指が、画面の上で止まった。
「……この項目の下に階層があります。破損してますけど、構造だけは残ってる。……二つ、ぶら下がってます」
「読め」
「A項目『提供体』」
「――提供体」
「B項目。……読めません。文字が欠けてます」
赤い光が、点いた。
カイルはその言葉を口の中で転がした。
提供体。
「……アーネスト。血を抜かれてた奴がいたな」
「……はい」
「あれが、提供体か」
「――違うと思います」
アーネストが、首を振った。
「この並びは、研究の進行順に見えます。感染を起こして、反応を観察して、同期と制御へ進んでる。その後に信号源の解析がある」
「じゃあ、提供体ってのは」
「感染者じゃない、何かです」
彼は六つ目の項目を見た。
見て、その意味に追いついた。
眼鏡の奥で瞳孔が開いた。
「――『人工再現』」
「言え」
「……こいつら、信号を機械で作ろうとしてたんです」
アーネストの声が、部屋の狭さの中で、跳ね返った。
「元の信号は提供体から出てる。でも提供体は、たぶんそう何体もいない。……いや、そもそも生き物です。命令したい時に命令してくれるとは限らない。だから解析した。周波数を測って、波形を写して、機械で同じものを出そうとした」
「――成功したのか」
「分かりません」
「推測でいい」
アーネストは物思いにふけるように押し黙った。
赤い光が、消えて、点いて。
急に顔を上げた。
「ドローンです」
「何だ」
「あの集落で、映像が欠けてましたよね」
「……ああ」
「最初は吹雪のせいだと思いました。でも違う」
彼は、索引を見つめたまま言った。
「もし信号源が体内にあるなら……」
指先が止まる。
「受信だけじゃない。発信もできる」
カイルは黙って聞いた。
「人体とほとんど同じ組成なら……。だけど電気的な性質だけが違う」
「……つまり」
「ドローンの受信系を乱していた可能性があります。映像だけじゃない。距離測定も、識別も」
彼は小さく息を呑んだ。
「だから映らなかった」
アーネストの視線が画面から外れた。
宙を見つめて七年間の報告書を思い返した。
解剖された感染者の、その全部を。
「――信号源は今までの解剖で見つからなかった。神経や血管に沿って、人体の組織へ紛れ込んでいたから。成分までほとんど同じなら、 病理でも異常組織とは判断されなかったのかもしれません」
「だが、電気的な性質だけが違う」
「……はい。受信して、微弱な信号を返す」
アーネストは天井を見上げた。
赤い光が、消えた。
四秒の暗闇。その暗闇の中で、機械の音が鳴っていた。
低い。
連続している。
彼らが扉を抜けてから、ずっと。
何十年も、ずっと。
「……何かが、まだ動いてます」
光が、点いた。
その時、カイルはリラを見た。
見た、というより目に入った。彼女は、部屋の入口に立っていた。
画面が見える位置だった。動いていなかった。
いつもの動かなさではなかった。
カイルには、それが分かる。
七年、あの店に通った。
彼女が黙っているところを何百回も見た。
彼女の黙り方には種類がある。
聞いていない時の黙り方。
答えたくない時の黙り方。
面白がっている時の黙り方――これは口の端が一ミリだけ動く。
これは、そのどれでもなかった。
「――リラ」
彼女の視線は画面にあった。
正確にはその一行。
『提供体』
「リラ」
「……ん」
答えたが、目は動かなかった。
赤い光が、消えた。
四秒。
光が、点いた。
彼女はこちらを向いた。
もう、いつもの顔だった。
表情がない。眉一つ動いていない。
七年、それを見てきたのだから、間違えるはずがなかった。
「――どうした」
「別に」
「今、何か」
「寒いだけ」
カイルは口を閉じた。
この女は、氷点下四十度の雪原で一度も寒いと言わなかった。
言うなら、ここではない。
これが嘘なのは分かった。
だが、なぜ嘘をつくのかも、何を思っているのかもカイルには分からなかった。
聞けば答えてくれるかもしれない。
答えないかもしれない。
答えないなら聞いたぶんだけ、彼女はまたあの店の奥へ引っ込む。
七年かけてそこから一歩だけ出てきた女だ。
カイルはその一歩を知っていた。
「――そうか」
彼は、それだけ言った。
「上着、もう一枚あるぞ」
「いらない」
「そうか」
リラは少しだけ顔を伏せた。
『――こちら艦。感度、四十七』




