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第21話 奥へ

「撤退する」


カイルはそう言った。

言ってから、自分の声が、自分でも意外なほど落ち着いているのに気づいた。


「通信は死にかけてる。扉は勝手に開いた。……ここに三人で入るのは、作戦じゃない。ただの馬鹿だ」


「――中尉」


「異論は聞く。だが手短にしろ」


「ウイルスの手がかりは、あの中です」


アーネストは、扉の隙間から目を離さなかった。


「氷河南縁。座標は、ここです。誤差三十メートル以内。……あれが受信してるなら、送信してるのは、あの奥です」


「それは推測だ」


「はい」


「推測で、部下を二人、穴に入れるのか」


「僕は部下じゃありません」


アーネストが顔を上げた。

眼鏡の奥の目が、寒さで赤くなっていた。


「僕は研究員です。ここに来たのは、答えを持って帰るためです。……あの中に答えがあるなら僕は入ります。中尉が撤退命令を出したら、僕は従います。でも、従いながら、ずっと考えます。あの時入っていたらって」


風が鳴った。


『――ザ――こちら艦。レインだ』


通信が、割り込んだ。

雑音の中で、その声だけが妙に硬く、はっきりと届いた。


『状況は途切れ途切れに聞いた。カイル中尉、判断を仰いだな』


「仰いでいません。撤退すると言いました」


『そうか。なら、上書きする』


カイルは、口を閉じた。


『調査を許可する。ただし条件がある。通信が維持できる範囲までだ。感度が三十を切ったら、それ以上は一歩も進むな。振り返って戻れ。中の何を見つけていようとだ』


「――三十を切ったら」


『切ったら、こちらはお前たちを見失う。見失った班がどうなるかは、お前も知っているだろう』


偵察班。その二文字を、レインは言わなかった。

言う必要がなかった。


「……了解」


「内部は狭い。通信は端末に切り替えます」


アーネストが、先行させていたドローンを呼び戻した。

小さな機体が肩口の格納部に収まり、固定音が鳴った。


『それと、カイル中尉』


「はい」


『扉が内側から開いたと言ったな』


「はい」


『――誰かが、お前たちを入れたがっている』


通信が、雑音に呑まれた。





扉を抜けると風が途切れた。

一歩で世界が変わった。外の音が消えた。

風の唸りも、雪煙が装甲を叩く音も、全部が背後の二十センチの隙間の向こうへ押し込められ、代わりに別の音が来た。


低い。

連続している。

どこか遠くで、機械が回っている音だった。

そして、温度。


「……暖かい」


アーネストが、掠れた声を出した。

暖かくはなかった。だが、氷点下四十度から来た体には、そう感じた。

カイルは端末を見た。


氷点下、四度。

三十六度、違う。


「暖房が入ってるのか」


「いえ」


アーネストが天井を見上げた。


「排熱です。何かが、動いてるんです。何十年も、ずっと」


通路だった。

幅は三メートル。

床は金属の格子。

壁も天井も金属で、その表面に、水滴が浮いていた。


「酸素、問題ありません。有害物質も検出なし」


三人はヘルメットの固定具を外した。


湿った空気が頬を撫でる。


どこか鉄と、腐った海藻のような匂いがした。

湿っている。


呼吸をすると、喉の内側の痛みが引いていく代わりに、匂いが入ってきた。

外で嗅いだものと同じだ。

だが濃い。


金属。

油。

そして、その下から立ち上がってくる、甘い腐敗。

古い。

腐り切って、それ以上腐るものがなくなった後の匂いだった。


非常灯が、点いた。

赤い光が、通路の奥まで一直線に照らし出す。


三秒。

消えた。

暗闇。


四秒。

また点いた。


その繰り返しだった。

何十年も、誰も見ていない場所で、その灯りは、ずっとこれを繰り返していたのだ。


「――カイル」


リラの声だった。彼女は壁に触れていた。

手袋を、外している。


「リラ、手を」


「見て」


赤い光が来た。

彼女の指の下に、跡があった。


カイルは近づいた。

壁面の金属に、溝が刻まれていた。

四本、平行に。

まっすぐではない。

途中で歪み、力尽き、また新しく始まっている。


その隣にも。

その隣にも。


通路の壁が、一面、それだった。


「爪です」


アーネストが、携行灯を壁に這わせた。


「これは、爪。……こっちのは、歯です。この、半円形のは、噛みついた跡だ。……金属に、噛みついてる」


「何体分だ」


「――数えられません」


カイルは、その壁を、光で辿った。

溝は、通路の入口から始まって、奥へ、奥へと続いている。

彼はそこで、足を止めた。振り返った。

扉の内側を、光で照らす。

そこには、何もなかった。

一本の傷もない。


「――おかしい」


「何がです」


「閉じ込められた奴が、まず何をすると思う」


アーネストが、扉を見た。

見て、その意味に追いついて、口を開けた。


「――出口を、掻く」


「出口だ。まず出口を掻く。壊れるまで掻く。指がなくなっても掻く。……ここには、一本もない」


赤い光が、消えた。

四秒の暗闇。


「じゃあ、この爪痕は、」


点いた。


「奥へ行こうとした跡だ」


カイルは、通路の奥を見た。

赤い光の届く限り、壁の溝は続いていた。

全部、同じ方向へ。

出口へ向かうのではなく、この施設の、もっと深いところへ。


「――出られたんだ、こいつらは」


彼は言った。


「扉は開いてた。外は雪原だ。逃げようと思えば、いくらでも逃げられた。……それでも、こいつらは、奥へ行きたがった」


誰も、何も言わなかった。

機械の音だけが、足の裏から伝わってきた。


『――こちら艦。感度、七十二』



通路は、下っていた。

緩やかで、最初は気づかなかった。

だが十分歩いて振り返ると、入ってきた扉の隙間の白い光が、もう見上げる位置にあった。


『――感度、六十一』


角を二つ曲がった。

そのたびに、腐敗の匂いが濃くなった。

三つ目の角を曲がったところで、通路が終わった。


区画に出た。

カイルは携行灯を上へ振ったが、光は届かなかった。


「――アーネスト。照明を最大に」


三つの携行灯が、同時に上がった。

天井が見えた。十五メートルはある。

そしてその天井までの空間を、埋め尽くしているものが見えた。


檻だった。


鉄格子の箱が床から天井まで、何段にも積み上げられている。

一段に、二十。それが、六段。

この区画の奥まで、光の届かない先まで、ずっと。


「……何百」


アーネストの声が、区画の広さに吸われて、痩せた。


「何百あるんだ、これ」


赤い光が、点いた。

区画全体が、一瞬、赤く染まった。

檻のほとんどは空だった。


扉が開いている。

内側から押し開けられた形で、鉄格子が外へ膨らんでいるものもある。

だが、全部ではなかった。


「――中尉」


カイルは既に見ていた。

三段目の、一番端。

そこに、いた。死んでいた。

一目で分かった。

檻の隅で、膝を抱えるような形のまま干からびている。

皮膚が骨に貼りつき骨の形が全部読める。

服の名残が、その上に薄く掛かっていた。


カイルは檻に近づいた。

近づいて、光を当てて、そして動きを止めた。


「……傷がない」


外傷がなかった。

引き裂かれていない。

噛まれていない。

他の個体に襲われたなら、必ず残る跡が一つもない。


「胴体も、腕も、脚も。……無傷だ」


「――口です」


アーネストが、震える光をその顔へ向けた。


顔の下半分が、なくなっていた。

正確には、口の周りが壊れていた。


唇はない。

歯茎が剥き出しで、その歯茎に歯が半分しか残っていない。


残った歯も全部先が割れている。

顎の骨が外れて、垂れていた。


アーネストは、檻の鉄格子を光で辿った。

その一点で、光が止まった。


鉄格子の一本に、跡があった。


半円形の。


「……噛んでたんです」


「鉄格子を」


「鉄格子を、拘束具を、自分の腕を。……最後には、自分の口の中を」


アーネストは、そこで一度、言葉を切った。


眼鏡を外そうとして手袋の外し方を思い出したのか、やめた。


「感染者は、血を必要としていたんです」


「――何?」


彼は、他の檻を見た。


「僕らは、感染者が凶暴だから人を襲うと思ってました。……でも、違う。それだけじゃない。飢えてるんです」


赤い光が、消えた。

四秒。

暗闇の中で、アーネストの声だけが続いた。


「ここに閉じ込められた個体は、餌を与えられなかった。……何十年も。だから、こうなった」


光が点いた。


「――待て」


カイルは、別の檻の前に立っていた。


「こいつは、違う」


その個体は、干からびていなかった。

同じように死んでいる。

同じように、口が壊れている。

だが、体が、萎びていない。

皮膚が、骨に貼りついていない。

その代わりに、白かった。

紙のように白い。

カイルは、これに似たものを見たことがあった。


戦場だ。

出血で死んだ人間の色だ。


「アーネスト」


「――待ってください」


アーネストが、鉄格子の隙間から、細い器具を差し入れた。

先端を、その個体の腕に触れさせる。

端末を見る。見て、動かなくなった。


「――アーネスト」


「血が」


「あるか」


「ないんです」


彼は端末から目を上げなかった。


「飢えただけでは、こうはなりません。飢えて死んだなら、血は減ってもゼロにはならない。……これは、抜かれてます」


「抜かれた」


「採られたか」


アーネストが、ようやく顔を上げた。


「血液だけが、完全に排出されています」


赤い光が、消えた。

その暗闇の中で、カイルは、リラを探した。

彼女は、動いていなかった。

さっきから、一度も。


光が点いた。

リラは、干からびた個体の檻の前に立っていた。

顔を、上げていた。

六段の檻を、下から上へ、ゆっくりと、辿っていた。

一つ一つ数えるように 、その全部を、見ていた。


「――リラ」


彼女は、答えなかった。


「リラ」


「……ん」


「行くぞ」


「……ん」


彼女は、動かなかった。

カイルは、その横顔を見た。

表情は、なかった。

いつもと同じだ。

彼女はいつも、そうだ。


だが彼女の手は、親指を強く握り込んでいた。


『――こちら艦。感度、五十四』


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