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第20話 開かないはずの扉

氷河は、青かった。

近づくにつれ、それは色を変えた。

遠くでは白い塊にしか見えなかったものが、二百メートルを切ると、内側から光を含みはじめる。


厚みの奥に、青がある。古い青だった。

何百年も光を通さずに圧された、深い水の色。

壁の高さは、六十メートルはあった。


見上げると、首の後ろで防寒具の襟が軋んだ。


「……綺麗ですね」


アーネストが言った。

彼はまだ、右手を左手で押さえている。


「そう見えるように、できてるんだろうな」


カイルは壁の下を歩いた。雪が、氷壁の根本に吹き溜まって、緩い斜面を作っている。

ブーツが初めて沈んだ。

膝まで。


その感触が、この星に降りてから初めて「柔らかいもの」だった。


「――中尉」


アーネストが立ち止まっていた。

彼は顔を上げていない。

端末も見ていない。

氷壁を、じっと見ていた。


「あれ、なんですか」


指した先に、氷の青を断ち切るような黒い面があった。


規則的な長方形。

大柄な人が余裕で通れるくらいの。


風が来た。雪煙が斜面を駆け上がり、氷壁に当たって砕ける。

その一瞬、黒い面を覆っていた雪が払われた。

氷の中に、扉の形があった。


「――これ」


リラが黒い壁面の雪を払う。

一度。二度。

その下から、壁面に埋め込まれた小さな箱が現れた。

リラが箱に触れた。

かすかな駆動音。

前面の保護カバーが、ゆっくりと開いた。

その中に、認証パネルが現れた。


「……認証装置です」


アーネストが追いついて、覗き込んだ。


「……旧規格ですね。少なくとも五十年は前のものです」


アーネストが、認証装置に顔を寄せた。

眼鏡の内側が曇り、彼は目を細めた。


「微弱ですけど、内部に電位があります。……ここ、生きてます」


表面は錆というより、擦り減っていた。

何十年も、風に運ばれた氷の粒に叩かれ続けた金属の、鈍い、艶のない灰色。

アーネストは迷わず端末のケーブルを引き出した。


「旧式ですけど、旧式ってことは、逆に厄介です。今の暗号系じゃない。物理的な鍵に近い」


「開けられるか」


「試します」


彼は手袋を、左手だけ外した。

外した瞬間に、指が白くなった。

それでも、彼はケーブルを差し込み、画面を叩きはじめる。


十秒。


二十秒。


指の色が、白から、青みがかった灰へ変わっていく。


「――アーネスト」


「あと少しです」


「手」


「あと少しなんです」


その時、音がした。

低い、腹に来る音だった。

金属が、金属の中で動く音。

かちり、と内側で何かが外れた。


「――離れろ!」


カイルはアーネストの襟を掴んで引いた。ケーブルが抜け、端末が雪に落ちる。


扉が、開いた。内側へ。

軋みながら、ゆっくりと、二十センチ。

そこで止まった。


隙間から、空気が出てきた。

風とは違う。押し出されてくる。

湿っていた。この星に降りてから初めて嗅ぐ、水を含んだ空気。

そして、その中に、匂いがあった。

金属と、油と、その下に、甘い、腐った何か。

カイルの喉が、勝手に鳴った。


「……開けてない」


アーネストが、雪に膝をついたまま言った。

彼は自分の落とした端末を見ていた。

画面に、赤い文字が出ている。

認証失敗。


「僕は、まだ、開けてません」


誰も動かなかった。


リラだけが、一歩、前へ出た。

その鼻先が、わずかに動く。

匂いを、嗅いでいた。


二十センチの隙間の向こうは、黒かった。

その黒の奥で、何かが周期的に、明るくなり、暗くなっている。


「――艦へ繋げ」


カイルは通信に指を当てた。


「こちらカイル。応答しろ」


『――ザッ――こちら――ザザ――』


「もう一度」


『――ザ――中尉、聞――ザザザ――』


「――アーネスト」


「電波が」


アーネストが、震える手で端末を拾い上げた。


「減衰してます。……ここだけです。五十メートル手前までは、感度百パーセントでした」


「氷か」


「この厚さだけで、ここまで急に落ちることはありません。……これは、遮ってるんじゃない。潰されてます」


風が鳴った。外の音が、急に遠くなったように感じた。


『――ザ――カイル中尉、応答――ザ――ドローン映像に――』


分析班の声が、切れ切れに戻ってきた。


『――ザザ――反応が――増えて――』


「もう一度言え」


『――そちらの周囲、半径四百メートル、熱源反応、十二。……いえ、増えてます。十九。二十四――』


カイルは振り返った。

雪原だった。

白い。何もない。

畝と、窪みと、風の筋。

さっきと、同じだ。


『――中尉、映ってます。はっきり映ってます。皆さんの周りを、囲むように、』


「囲む」


『――三十一。……三十四。まだ増えて、』


「見えない」


『――は?』


「何も見えない。一体もだ」


カイルは、銃を構えたまま、雪原を左から右へ舐めた。

倍率を上げる。


下げる。


上げる。


何もいない。

さっきは逆だった。


肉眼には見えて、機械には映らなかった。

今は、機械に映って、肉眼には見えない。

どちらかが、嘘をついている。

あるいは何かが見え方を変えている。


「――中尉」


アーネストが、小さく息を吸った。


「分かったかもしれません」


「何がだ」


アーネストは、端末を見つめたまま言った。


「ドローンと、僕らが見ているものが違います」


「……違う?」


「ドローンには映る。僕らには映らない」


彼は、ゆっくり息を吐いた。


「同じ景色を見ていません」


アーネストの視線が奥の光へ移る。


「あの、周期的な光。……あれ、非常灯です」


「だから何だ」


「非常灯が点いてるってことは、」


彼は唾を飲んだ。


その音が、聞こえた。


「電源が、生きてます」


リラは扉の奥だけを見ていた。

その瞳が、わずかに揺れた。

息を吸う。


「……いる」


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