第19話 見えない
居住区に入ったのは、それから一時間後だった。
家が、半分埋まっていた。雪は屋根の高さまで来ていて、そこから上だけが白の中に突き出している。
壁は残っていた。窓は割れているのではなく、外れていた。
枠ごと、内側へ倒れている。
「――風圧じゃない」
カイルは言った。
「外からの力じゃ、こうはならない」
一軒に入った。軒下をくぐると、風の音が消えた。
それが、かえって悪かった。
静けさに耳が慣れると、自分の呼吸音と、心臓の音と、装備の駆動音だけが、頭蓋の内側で膨らんでくる。
中には、生活があった。
食卓に、皿が四枚並んでいた。
匙が皿の縁に掛かったままのものが、一つ。
椅子が二脚、引かれた形で止まっている。
座った者が立ち上がり、そのまま戻らなかった形だった。
皿の上のものは、凍って、白い霜を被り、原形をとどめていない。
だがそれが「まだ食べる途中だった」ことは分かった。
壁際に、衣類が落ちていた。
上着だ。凍って、板のように硬い。
カイルは爪先で押した。
動かない。
床と一体になっていた。
「……子供が、いたんですね」
アーネストの声だった。彼は床の隅を見ていた。
木製の何かが転がっている。
動物を象ったものらしかった。
彩色が剥げ、耳の片方が欠けている。
長い間、握られ続けたものの摩り減り方だった。
「血痕はない」
カイルは部屋を一周した。
「一滴もない。……遺体も、ない」
「感染者に襲われたなら」
「壁に飛ぶ。床に染みる。凍って残る。何十年経っても残る。……ここには、何もない」
「じゃあ、住民は」
「逃げたなら、上着を置いていかない」
カイルは、板になった上着を見下ろした。
「この気温だ。上着を置いて外に出るなら、それは、逃げたんじゃない」
アーネストが、口を開いて、閉じた。
白い息だけが漏れた。
「連れて行かれたんだ」
リラは、入口に立ったまま動かなかった。彼女は部屋を見ていなかった。
食卓も、上着も、玩具も見ていない。
ただ、家の奥へ続く暗がりを見ていた。
「――こっちに」
そのアーネストの声は、震えていた。
寒さのせいだと、彼自身は思いたかっただろう。
奥の廊下だった。
彼が携行灯を床に向けている。
床の埃と霜の層に、跡があった。
二本の筋。
並行して、まっすぐ。
幅は人の肩ほど。
それが、廊下の奥から玄関へ、途切れずに続いている。
「引きずった跡です。……乾いてから、凍ってます。何十年も前の」
「争った跡は」
「ありません。……真っ直ぐです。一度も、逸れてない」
カイルは携行灯を持ち上げ、光を玄関の外へ振った。
跡は、雪の下へ消えていた。
だが向きは分かる。
隣の家でも、同じものが見つかった。その隣でも。
十軒近く回って、アーネストが端末に落とし込んだ線は、全部、同じ方向を指していた。
北。
氷河へ。
「……全部です」
彼の声は、もう震えを隠そうとしていなかった。
「一本残らず、同じ方向を向いてる。この街の全員が、同じ場所へ、引きずられていったってことになります。抵抗した跡もなく、血の一滴もなく、順番に」
風の音が、家の外で鳴っていた。
「――行こう」
リラはもう玄関を出ていた。
*
雪原に出て、二百メートルほど進んだ時、リラが止まった。
カイルは彼女の視線を追った。
いた。
雪原の向こう。
三百メートルはある。
白の中に、一つだけ、縦の線が立っていた。
「――感染者」
カイルは銃を構えた。
照準倍率を上げる。
痩せていた。痩せているという言葉では足りなかった。
防寒具の名残らしい布切れが、骨に直接かかっている。
皮膚は乾いて割れ、裂け目の縁が黒く反り返っていた。
血が流れた跡はない。
流れる血がないのだ。
口元だけが、赤黒く汚れていた。
「……血がついてます」
アーネストが、望遠を覗きながら言った。
「新しくない。凍って、黒くなってる。何日も前……もっと前かもしれない」
「動かないな」
動かなかった。
感染者は、こちらを見ていた。
首が、わずかに傾いでいる。
それだけだ。
三百メートルの距離で、それは確かに、三人を見ていた。
カイルは照準を合わせた。
引き金に指を掛ける。相手は動かない。
銃口を向けられたことに、何の反応も示さない。
これまで見てきた感染者は、そうではなかった。
人間を見れば来る。距離も、傷も、数も関係なく、ただ真っ直ぐに来る。
それが感染者だった。それが前提だった。
「なあ」
カイルは低く言った。
「感染者は、人間を見たら来るんじゃなかったか」
「……そのはずです」
「じゃあ、あれは何を待ってる」
その時、アーネストが、動いた。
一歩、後ろへ下がろうとしたのだと思う。
雪の下に何かがあった。
埋もれた縁石か、瓦礫か。彼の踵がそれに引っ掛かった。
「――あっ」
尻餅をついた。
反射で、手をついた。
手袋の甲が、雪の下の何かの角に当たって裂けた。
布と、その下の皮膚を、一緒に。
アーネストが小さく息を呑む。
手袋の裂け目の縁に、赤が滲んで、膨らんだ。
一粒だけ、雪へ落ちた。音は、しなかった。
雪原が、動いた。
左の廃屋の陰から、顔が上がった。
右の雪の窪みから、上半身が起き上がった。
氷壁の裏から、頭が二つ、三つ。
前方の畝が割れて、そこから腕が突き出した。
同時だった。
一つの合図で全員が動いたように、完全に同時だった。
数は、十数体。二十はいない。
だが、そのどれもが、さっきまでどこにも見えていなかった。
熱源反応にも、映像にも、肉眼にも。
そして、その全部が、アーネストの手を見ていた。
「――風下です」
アーネストが、尻をついたまま、掠れた声を出した。
「風は、あっちからこっちへ吹いてる。……匂いは、あの氷壁の裏には、届いてません。届くはずが、ないんです」
カイルは銃を振った。
左。
右。
前。
全部だ。
全部が同じ方向を向いている。
見えていなかった個体まで、風の届かない位置にいた個体まで、寸分違わず同じ瞬間に。
「――誰が知らせた」
来ない。
そこまでして、感染者たちは、来なかった。
震えていた。全員が震えていた。
寒さではない。裂けた皮膚の下で、痩せた筋肉が痙攣している。
喉が鳴っていた。
低く、絶え間なく、十数体分の音が重なって、風の音の下に、別の層を作っている。
歯が鳴っていた。
噛み合わせて、擦って、また噛み合わせる。
乾いた音だった。
何体かは、自分の唇を噛んでいた。
裂けた口の端から、黒い液が糸を引いて垂れている。
それでも、噛むのをやめない。
前へ、出ようとしていた。
一体が、片足を上げた。
上げたまま、止まった。
膝が震えている。
下ろせないのではない。
踏み出せないのだ。
上げた足が、下ろされて、また元の位置に戻った。
別の一体は、両手を自分の胸に当てていた。
爪が、自分の胸の皮膚に食い込んでいる。
抑えていた。
自分で、自分を。
カイルは、その光景から目が離せなかった。
戦場で感染者を見た回数は数えていない。
撃った数も数えていない。
だが、彼が知っている感染者は、いつも、理性を失って襲いかかってくるものだった。
「理性を失う」――報告書に何度も書いた言葉だ。
ヴォルグの前で読み上げた言葉だ。
理性を失ったものは、我慢をしない。
「……待てって、言われてる」
アーネストの声が、後ろでした。
「あれは。あれは、待てって、言われてるんだ。誰かに」
「アーネスト」
カイルは動かずに言った。
「手を、押さえろ。今すぐ」
「――は、はい」
「押さえて、立て。ゆっくりだ。走るな」
『――こちら分析班!』
耳の奥で声が割れた。
『熱源反応、依然としてゼロです!』
『映像にも何も映っていません!そちらの光学素子は生きてますか、中尉、そちらには何が見えてるんですか!』
「二十体近い」
『――は?』
「二十体近い感染者が、俺たちを見てる」
カイルは、乾いた喉で、そう言った。
『そんな、そんなはずは。全機の映像を確認してますが、そちらの半径三百メートルには、何も、』
「見えてないのか」
『――何も、映っていません』
アーネストが立ち上がった。
手を胸に押し当てている。
血の匂いが減ったのか、震えの音が、わずかに低くなった。
だが、顔は動かなかった。
二十近い顔が、全部、彼を向いたままだった。
リラが、前に出た。
「――待て」
カイルは腕を上げた。
「動くな。刺激するな」
「違う」
彼女は言った。
「命令を待ってる」
「分かるのか」
「……分かるんじゃない」
リラは、片足を上げたまま震える感染者を見ていた。
「あれは、耐えてる顔」
風が、また来た。
雪煙が走り、視界が白に潰れた。
数秒。
晴れた時、感染者たちはもう動き始めていた。
襲ってくるのではない。
一体、また一体と身を低くし、雪の中へ沈んでいく。
最後には、すべてが白い海原の下へ消えていた。
『――七番機、映像復帰。……中尉、今のノイズの間に、貴方たちの周囲を、』
分析班の声が止まった。
『……申し訳ありません。何も、記録されていません』
カイルは、白い地面を見た。
二十近い体が立っていたはずの場所は風に均されて、他のどこと同じ、ただの白だった。
「――中尉」
アーネストが、押さえた手をそのままに、北を見ていた。
風が薄れて、地平の白の向こうに、青が見えていた。
氷河だった。




