第18話 見られてる
降下艇が大気に噛んだ。
機体が低く唸りはじめ、震動が座席の背から背骨へ直に伝わってくる。
カイルは拘束具の縁を握った。
手袋越しでも、金具が氷のように冷えているのが分かる。
装甲板の向こうで風が鳴っていた。
金属を細く擦るような音が、高度を下げるにつれて厚みを増していく。
窓は白かった。
雲なのか雪なのか、区別がつかない。
「――中尉」
アーネストだった。
声が震動に負けかけている。
膝の上で端末を両手で押さえ、画面から目を離さないまま、彼は続けた。
「解析、終わりました。四日前の、外壁に付着していた試料」
カイルは首を巡らせた。
通路を挟んだ向かいで、リラも顔を上げている。
「感染者由来です。間違いありません。塩基配列も、細胞構造も、これまで採取したどの個体とも一致します」
「だったら、話は早い」
「――そこが」
アーネストが言葉を切った。
端末の縁を指で押さえ直す。
爪の色が白くなっていた。
「腑に落ちないんです。感染者の組織は、氷点下二十度を切れば活動を止めます。細胞膜が保てない。それが前提でした。ですが、あの試料は、採取してから四日、氷点下四十度の保管庫に入れたままです。今も動いています」
「動いてる」
「代謝が続いています。それだけじゃない。血液由来と思われる伝達物質が検出されました。既知のどれとも一致しません。それと――微弱ですが、電位の変動があります。周期があります。規則的です」
「何を言ってる」
「僕にも分かりません」
アーネストが顔を上げた。
非常照明の赤が、彼の眼鏡の縁を細く縁取っている。
「ただ、あれは死んだ試料じゃない。切り離された肉片が、まだ何かを受け取り続けている。そういう風に、見えます」
誰も、すぐには返さなかった。
震動の音だけが機内を満たしている。
カイルは、握った金具の冷たさが手袋を抜けて掌に届いてくるのを感じていた。
舌の奥に、乾いた金属の味が薄く残っている。
降下前に飲んだ湯だ。
それだけのはずだった。
リラを見た。
彼女は窓の外を見ていた。
表情は変わらない。
だが膝の上の手が、防寒具の裾を、指一本分だけ握り込んでいる。
通信が入った。
レインの声だった。
『こちら艦。降下班、聞こえるか』
「中尉、カイル。感度良好」
『解析結果は聞いた。予定を変更する。拠点構築を待たずに、試料の発生源へ向かえ。採取地点は氷河南縁。降下地点から徒歩で四時間圏内だ』
「四時間。装備の点検は」
『機内で済ませろ。地上に置く時間を減らしたい』
レインの声には抑揚がなかった。
だがカイルは、その平坦さが何を意味するか知っていた。
急がせている。
急がせる理由を、この人は言わない。
「――了解」
『それから、カイル中尉』
「はい」
『あれが受信しているというなら、送信している何かがある。地上にいる間、それは常にお前たちより先に、お前たちを知っていると思え』
通信が切れた。
窓の白が、割れた。
雲を抜けたのだ。
眼下に、地平の果てまで白が続いていた。
灰色の空と、白い地面。
境目だけが、細く、鈍く光っている。
その白の中に、黒い点が散らばっていた。
建物の骨だった。
『降下最終段階。着地まで九十秒』
*
昇降口が開いた瞬間、空気が入ってきた。
冷気は頬を刺し、鼻の奥を焼き、喉を通って肺の底まで届いた。
息を吸うたび、冷気が喉の内側を薄く裂いた。
吐いた息はたちまち白く凍り、睫毛の先が固まって、瞬きが重くなった。
「――ッ」
アーネストが息を呑んで、すぐに襟へ顔を埋めた。
手袋を打ち合わせても、音が痩せている。
乾ききった大気が、音を吸って返さなかった。
カイルは雪へ降りた。
沈まなかった。
踏んだ表面が、砂糖を潰したような音を立てて薄く割れ、その下は硬い。
ブーツの底を通して、平らすぎる感触が返ってくる。
自然の地面ではなかった。
「道路です」
アーネストが端末を向けながら言った。
「この下に、舗装があります。……その下に、建造物も。地形図と照らすと、僕らが今立っているのは、交差点の真ん中です」
風が来た。
雪煙が地を這って走り、視界が白一色に潰れる。
数秒。
晴れた時には、三十メートル先の輪郭が全部変わっていた。
さっきまであった雪の畝がない。
別の場所に、同じような畝ができている。
上空で、軽い音が連続した。
ドローンだ。
降下艇の背から次々に射出され、白い空へ散っていく。
十八機。
それぞれが高度を取り、間隔を開き、やがて円になった。
地表の三人を中心に、直径二キロの、見えない環。
『展開完了。監視網、正常』
艦内分析班の声が耳の奥で鳴った。
『生体反応、なし。熱源、なし。動体、なし。……クリーンです』
「クリーン、ね」
リラが言った。初めて口を開いた。
フードの奥で、彼女は円の下の地面を見ていた。振り返って、また前を見る。
誰の目にも留まらない程度の動作だった。
カイルだけが、それを見ていた。
「何か見えるか」
「……何も」
短い。それだけだった。
彼女はいつも、そうだ。
だが、カイルには分かった。
彼女がさっきから、一度も同じ方向を二回続けて見ていない。
『――こちら分析班。七番機、映像に断続的なノイズ。……素子の冷却不良かもしれません。氷点下四十度は仕様の下限ぎりぎりです』
「使えるのか」
『使えます。数秒欠けるだけです。他十七機は正常』
「――了解」
風が鳴っていた。それと、装備の駆動音。
動力補助の低い唸りが、三人分、重なっている。
それだけだった。
音が、それだけしかなかった。
*
歩き出して二十分で、カイルは三度、後ろを振り返った。
雪しかない。
自分たちの足跡が、風に浚われて、既に半分消えている。
『――こちら分析班。中尉、確認事項が』
「言え」
『映像の欠落ですが。七番機だけではありませんでした』
アーネストが足を止めた。
『十二番、四番、九番。それぞれ数秒ずつ、フレームが飛んでいます。時刻はばらばら。欠落した領域も、毎回違います』
「故障か」
『四機同時の同一故障は、確率的に考えにくいです。それと』
分析班の声が、わずかに硬くなった。
『欠落地点を地図上に落とすと、……並びます。皆さんの進行方向に沿って、前方へ』
風の音が、急に遠く感じられた。
「もう一度言え」
『欠落が、皆さんの行く先を、順番になぞっています。少し先を』
アーネストが端末を持ち上げた。
かじかむ指で、何度か画面を叩き直す。
「熱源反応、なし。……なしです。半径八百メートル、何も」
「もう一回」
「――なしです」
カイルは銃口を下げたまま、周囲を見た。
白い。
何もない。
畝と、窪みと、風の筋。
それだけだ。
だが、その白の下に、何メートルの深さで街が埋まっているのかを、彼はもう知っている。
「熱を持たないものは、映らないな」
「……理論上は」
「雪の下も、映らない」
アーネストが黙った。
眼鏡の内側が、彼の息で白く曇りかけている。
彼はそれを拭わなかった。
拭うには手袋を外さなければならず、この気温でそれをすれば、指を失う。
リラが、前を歩いていた。
歩調が変わらない。彼女は最初からずっと、同じ速さで歩いている。
だがカイルは、彼女の顎の角度が、さっきから少しずつ動いていることに気づいていた。
左。
前。
左後方。
「リラ」
「……ん」
「何を見てる」
彼女は、少しだけ振り返った。
フードの縁から、白い息が細く漏れる。
「見てるんじゃない」
「じゃあ何だ」
「見られてる」
風が来た。
雪煙が三人を呑み、五秒ほど、互いの姿さえ白に溶けた。
晴れた時、リラはもう前を向いて歩き出していた。
『――こちら分析班。今の風の間、十一番機の映像が四秒欠落しました』




