第17話 白い星へ
翌日、格納庫に防寒装備が並べられた。
厚い外套。
フード。
二重の手袋。
踏むと硬い音を立てる、鋲の打たれた靴底。
並べられた装備は、どれも黒く、重く、人の形をした殻のようだった。
「外気温、氷点下三十八度から四十二度」
アーネストが読み上げる。
「素肌を晒せば、数分で凍傷。呼吸器も、直接冷気を吸えば損傷します。……このマスクは、必ず」
兵士たちが、順に装備を着込んでいく。
厚い生地の擦れる音。
留め具の噛み合う金属音。
外套を頭から被った男が、袖の穴を探して手を泳がせている。
「重っ」
「動けねえぞ、これ」
「動くなって意味だろ」
そこへ、一人の兵士が両手に外套を抱えて戻ってきた。
「……あの、Sサイズで」
リラの前に、それを差し出す。
「一番小さいのが、これでした」
「ええ」
彼女はそれを受け取り、袖を通した。
留め具を、上から順に。着終えて、手を下ろす。
袖の先が、指を三本ぶんほど余していた。
「……ぶかぶかですね」
兵士が、思わず漏らした。
「その方が暖かい」
レインだった。
書類から目も上げずに、真面目な声でそう言った。
「空気の層ができる。密着させると、汗が凍る」
「……はい」
兵士は、口を固く結んだ。
肩が、僅かに揺れている。
リラは、余った袖を見ていた。
それから、レインを見た。
「……そう」
「そうです」
それだけだった。
*
問題は、手袋だった。二重になっている。
内側の薄いものを着けてから、外側の厚いものを被せる仕組みだ。
リラは、外側の一枚を手に取った。
指を、入れる。入らない。
一本、余っている。
四本しか入っていない場所に、五本目が行き場を探している。
もう一度抜いて、やり直した。
今度は三本しか入らなかった。
「……」
彼女は、手袋を見た。
それから、自分の手を見た。
「あ、違います」
声がした。
隣にいた兵士だった。
彼は、考えるより先に手を出していた。
「それ、こっちが親指です。……逆さまになってます」
彼が、手袋を裏返して差し出す。
リラは、それを見た。
確かに、逆だった。
「……ああ」
彼女は受け取り、今度は正しく指を入れた。
すんなりと収まった。
「ありがとう」
兵士が、固まった。
一瞬だった。
彼は、口を半分開けたまま、そこに立っていた。
「……あ、はい」
「助かった」
「……いえ」
彼は、後ずさるように離れていった。
*
「おい」
「見た?」
「見た」
壁際で、押し殺した声が飛び交っていた。
戻ってきた兵士は、何本かの手に捕まった。
「お前、行ったな」
「今、行っただろ」
「……手袋が、逆でした」
「そこじゃねえ」
「じゃあどこですか」
「お礼、言われてたぞ」
「……はい」
兵士は、自分の手を見た。
「……普通にお礼言うんだ」
「言うんだな」
「怖い人じゃなかったな」
「怖くなかったです」
「じゃあ次はお前が行けよ」
「なんでですか」
「実績があるだろ、実績が」
低い笑いが起きた。
*
「留め具、初めてですよね」
別の兵士が、リラの横に立っていた。
「ええ」
「ここ、少し固いので――」
彼は、彼女の肩口へ手を伸ばした。
外套の襟の、内側だった。
指が、生地を探る。
少し離れた場所で、それを見ていたカイルの眉が、ほんのわずかに寄った。
兵士は、その表情に横目で気づいた。
(……あ)
だが、何も言わずに作業へ戻った。
*
「おい」
「ん?」
「見ました?」
「何を」
「あれですよ」
兵士が、カイルの方へ視線を送る。
腕を組んだまま、壁にもたれている。
誰とも喋っていない。ただ、視線だけが、一点から動いていなかった。
「あー」
もう一人が、笑いを噛み殺した。
「分かりやすいな」
「本人だけ気付いてない」
「どっちが」
「……両方」
小さな笑いが、広がった。
レインは、書類から顔を上げなかった。
「装備確認を続けろ」
「はい」
だが、その声には、僅かに笑いが混じっていた。
*
留め具が、留まった。
「……できました」
兵士が、一歩下がる。
その時、彼の指先が、彼女の首筋をかすめた。
一瞬だった。
(……あれ)
兵士は、自分の指を見た。
何も、なかった。
氷のようだったわけではない。
ただ――触れた場所から、何も返ってこなかった。
人の首筋に触れれば、そこには熱がある。
当たり前に、ある。
それが、なかった。
冷たいのではない。温かくない。
「……何か」
リラが、こちらを見ていた。
「いえ」
兵士は、首を振った。
「……何でもありません」
そのまま、持ち場へ戻っていく。
歩き方が、少しおかしかった。
(緊張してたからだな)
彼は、そう結論づけた。
自分の指の感覚など、あてになるものか。
相手はあの人だ。
触れる方が、どうかしている。
*
装備を着込んだリラが、袖を確かめている。
指が、出ていない。
彼女は、余った袖を一度、持ち上げてみた。それから、下ろした。
どうにもならなかった。
「それじゃ戦えない」
声がした。
壁際から、カイルが離れていた。
兵士たちが、一斉にそちらを見る。
腕組みを解いた彼が、真っ直ぐに歩いてくる。
「中尉」
「銃を持たせてみろ」
「え」
「持てるか、その袖で」
リラが、自分の手を見た。
指の出ていない袖が、二本ぶら下がっている。
「……無理ね」
「引き金にも届かない」
カイルは、レインを見た。
「氷点下で凍傷は防げる。だが、動けなければ意味がない。地表班なら、なおさらだ」
レインが、書類から顔を上げた。
「代案は」
「機甲兵用のスーツがある」
彼は、格納庫の奥を顎で示した。
壁際に立つ機体の、その足元だ。
「密着型だ。体格に合わせて調整できる。生命維持も内蔵している。氷点下四十度なら、確実だ」
「予備の在庫は」
「ある。俺の分と、整備班の分が」
レインは、しばらくリラを見ていた。
それから、頷いた。
「調整に、どれくらいかかる」
「半日。採寸が要る」
「やってくれ」
それだけだった。
レインは、また書類に視線を戻した。
*
壁際で、押し殺した声が飛び交っていた。
「動いたぞ」
「動いたな」
「今の見たか」
「見た。腕組み解いたぞ」
「散々見てて、ようやくだ」
「遅い」
「遅すぎる」
「つーか、自分のスーツ着せる気だぞ、あれ」
「え」
「予備って、中尉の予備だろ」
沈黙が、落ちた。
「……」
「……」
「言わない方がいいな、これは」
「言わない方がいい」
全員が、頷いた。
*
「腕を上げてくれ」
採寸は、格納庫の隅で行われた。
カイルが、巻尺を持っている。
整備兵に任せることもできたが、彼は自分で受け取っていた。
リラが、両腕を横に伸ばす。
胸囲。
腕の長さ。
肩幅。
数字を読み上げ、端末に打ち込んでいく。
「……細いな」
「悪かったわね」
「そうじゃない」
彼は、手を止めた。
「規格外だ。最小の設定でも、まだ余る」
「じゃあ、どうするの」
「詰める」
「できるの」
「やる」
それだけだった。
巻尺が、首の後ろに回る。
カイルの指が、彼女のうなじの近くを通った。
触れてはいない。
それでも、彼は分かった。
熱がない。
この距離なら、普通は感じる。
人の体は、近づけばそこにあると分かる。
それが、なかった。
彼の手が、一瞬止まった。
「……どうかした」
「いや」
彼は、巻尺を引いた。
数字を読む。
端末に打ち込む。
それから、もう一度、彼女を見た。
何も言わなかった。
*
離れた場所からアーネストがそれを見ていた。
端末を、胸に抱えている。
採寸のやり取りは聞こえない。
ただ、二人がそこにいて、巻尺が動いて、時折数字が読み上げられる。
それだけだ。なのに、入れなかった。
彼は、端末の角を親指でなぞった。
それから、画面を開いた。
『被験体、体格データ――』
そこまで打って、指が止まる。
被験体。
彼は、その三文字を見た。
――消去した。
カーソルが点滅する。
『Lira』
指がまた止まった。
彼はしばらくその文字を見ていた。
それから、端末を閉じた。
*
班編成が発表されたのは、翌日だった。
「地表班は、三名」
レインが名を読み上げる。
「リラ。カイル中尉。アーネスト研究員」
誰かが、僅かに顔を上げた。
「たった三人ですか」
「降りるのは三人です」
レインは、卓の上に地図を投影した。
白い星が、青白く浮かび上がる。
「大人数で降りれば、目立ちます。……相手は、既に我々を見ています」
彼は、地図の上に光点を落とした。
降下地点を中心に、それが散っていく。
「代わりに、偵察機を先行させます。十八機。専用の管制区画から操作します」
「十八?」
「三機は、随伴です。三人に、一機ずつ」
彼は、中央の三点を指した。
「常時、頭上に付きます。視界外の警戒と、映像の中継。……あなた方は、自分の背中を見なくていい」
それから、外側の光点をなぞった。
「残り十五機を、五班に分けます。三機で一班。氷原を分割して、それぞれの区域を回します」
「一機に一人ですか」
「一班に、二名。交代要員を入れて、区画には十二名が詰めます」
レインは、地図を消した。
「三人の目は、三人分しかない。ですが、偵察機が、あなた方の視界を補います」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「見落としは、こちらで拾います」
「装甲兵は」
カイルが訊いた。
「降ろしません」
「氷原で生身ですか」
「あなたの機体は、この艦で一番大きい熱源です。……降ろした瞬間、あちらに教えることになる」
「偵察機は」
「熱源としては、小さい。……人間ひとりぶんより、遥かに」
その言い方に、部屋の空気が動いた。
誰も、何も言わなかった。
「武装は軽い。時間稼ぎ程度です。……ですが、ないよりは」
レインはカイルを見た。
それからアーネストを。
最後に、リラを見た。
その視線が、一拍だけ長かった。
「常時接続です。映像も、音声も、全て上で受けます」
それだけだった。
「……以上です」
*
リラは、地図の消えた卓を見ていた。
表情は変わらない。
――一機。
自分の頭上に、一機。
七年、誰にも見られないように生きてきた。
店の奥に座り、目を伏せ、息を殺して。
それが全部だった。
これから、氷点下四十度の氷原で、常に一つの目が背中に付く。
その映像が、上の十二人に流れる。リラの指が、膝の上で一度だけ、動いた。
それだけだった。
*
出発前夜、船内は静かだった。
消灯後、誰もが寝台にいた。
だが、寝息はほとんど聞こえない。
時折、寝返りを打つ音がする。
誰かが起き上がり、水を飲み、また横になる音がする。
眠っている者は、いなかった。
リラは、観測窓の前にいた。窓の外に、それがあった。
白い星だった。
雲の切れ間から覗く地表は、どこまでも白く、鈍く、光を返している。
緑も、茶も、水の青もない。生き物の色が、どこにもなかった。
硝子に掌を当てる。冷たかった。
足音が近づいて、止まった。
「……眠れないのか」
カイルだった。
「少し」
それだけだ。
カイルは、隣に立った。
同じ窓の外を見る。
二人とも、それ以上何も言わなかった。
「……明日」
彼が、口を開きかけた。
「うん」
リラが短く応じた。
カイルは続きを言わなかった。
言うべきことは何もなかった。
明日、二人はあの白い星へ降りる。
それだけのことだった。
白い星が、窓の中で、静かに光っていた。
*
管制区画は、艦の底に近い場所にあった。
狭い部屋だった。
壁一面に画面が並んでいる。十八枚。
まだ、どれも黒い。
その前に、操縦席が並んでいた。
詰めた人間の膝が、隣の椅子に触れそうな間隔だ。
「試験、始めます」
若いオペレーターが、卓に着いた。
指が、走る。
一枚目の画面が、光った。
二枚目。
三枚目。
格納庫の映像が、次々と立ち上がる。
床。天井。壁際の機体。
それを、十八の角度から同時に見ている。
「随伴一番、正常」
「二番、正常」
「三番――」
声が、途切れた。
「三番、映像が乱れます」
「センサーだ。交換しろ」
「はい」
一人が席を立ち、走っていく。
部屋には、指がコンソールを叩く音だけが残った。
十八枚の画面が、格納庫を映している。
明日、それは氷原になる。
誰も、そのことを口にしなかった。
*
降下艇の中は、狭かった。
三人と、僅かな装備。
それだけで、もう膝が触れそうだった。
座席の拘束具が、胸と腰を締めつける。
留め具の金属音が、天井の低さに跳ね返る。
リラは、スーツを着ていた。
密着型の、黒い一枚。
カイルの機甲兵用の予備を、半日かけて詰めたものだ。
袖は、余っていない。
指先まで、正確に収まっている。
彼女は、一度だけ、掌を握って開いた。
装備確認。
カイルが、銃の遊底を引いて戻した。
乾いた音が一度。
マガジンを叩き、感触を確かめる。
アーネストが、端末を胸のポケットに収めた。
何度も、その位置を押さえ直している。
『随伴機、射出』
天井から、声が降ってきた。外で、軽い衝撃が三度。
何かが飛び出していく音だった。
『随伴一番、二番、三番――追随開始』
リラは、天井を見た。
分厚い装甲のその向こう。今そこに、一機いる。
彼女のためだけの一つの目が。上の十二人が、それを見ている。
彼女は、視線を下ろした。
誰も、喋らなかった。
呼吸の音が三つ。それだけが、狭い箱の中で重なっていた。
窓の外に、白い惑星があった。
もう、雲の切れ間ではない。視界の全てが、白と鈍色だった。
氷原が、地平の果てまで続いている。
その白の中に、朽ちた建物の残骸が、黒い点となって散らばっていた。
硝子に、額を寄せる。
ヘルメット越しにも、冷気がそこにあるように思えた。
『降下開始』
アナウンスが、天井から降ってきた。
降下艇が、母艦から切り離される。
腹の底が浮き上がる感覚。装甲の外で、風の唸りが生まれはじめる。
その時だった。
――ぴ。
小さな音が、鳴った。
アーネストの胸のポケットだった。
彼が端末を引き出す。
画面が、彼の顔を青白く照らした。
【解析終了】
四日前、手形から採取した試料だった。
四日間、機械にかけ続けた。
表示は、たった一行。
『試料:感染者由来』
アーネストが、顔を上げた。




