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第16話 緑の部屋

その夜、カイルは眠れずに船内をさまよっていた。

消灯後の通路は薄暗く、非常灯の緑がかった光だけが等間隔に灯っている。

普段は用のない区画へ足が向いた。


生命維持系。

空気を作る場所だ。


扉を引いた瞬間、匂いが押し寄せてきた。


土。

水。

緑。


この船の、乾いて金気を帯びた空気の中で、そこだけが違っていた。

棚に並んだ水槽の中で、名も知らぬ苔のようなものが、青白い光を浴びて揺れている。

どこかでポンプが脈打ち、細い水音が絶えず落ちていた。

冷えきった鼻の奥が、湿った空気にゆっくりとほどけていく。


喉が、緩んだ。


「……お客さんとは、珍しいな」


棚の陰から声がした。

作業服の整備兵が、しゃがみ込んだまま振り返る。

手には細い鋏があった。


「空気の元だよ、これ。……まあ、機械でも足りるんだが」


彼は、水槽の縁から伸びた枯れかけの葉を、丁寧に摘み取った。

指先に土が黒く残っている。


「こいつらの世話をしてるほうが、儂にはあってる」


カイルは、曖昧に頷いた。


その時だった。


――花の匂い。


混じっていた。

ここにあるはずのないものが、土と水の隙間から、ふいに立ちのぼった。


甘く、柔らかく、どこか痛い。視界が、暗くなった。


暗闇。

誰かの腕が、自分の背に回っている。

掴まれている。

あるいは、支えられている。


――そこで途切れた。


カイルは、水槽の縁を掴んでいた。

掌が濡れている。

心臓が、耳の奥で鳴っていた。

自分の呼吸が、荒い。


「……兄さん?顔色が」


整備兵の声が、遠くから聞こえる。

その時、背後で扉が開いた。

振り返る。


リラだった。


「……ここ、開いてたから」


彼女がそう言って、一歩、中へ入った。

匂いが、重なった。


湿った土と、水と、緑。

その上に、たった今嗅いだはずの、あの甘い匂いが――


カイルは息を止めた。

もう一度、深く吸う。


土。

水。

苔。


それだけだった。


目の前に立っているのは――


なのに、胸の奥が締めつけられている。

名前のつかない懐かしさが、行き場もなく暴れていた。


ずっと昔、どこかで。


それがいつで、どこだったのか。


手を伸ばそうとすると、記憶は水面の像のように歪んで、崩れていく。

思い出そうとするほど、遠ざかる。


「……どうかした」


リラが、僅かに首を傾げた。


「……いや」


カイルは、掌の水を作業服で拭った。

生地が、じわりと冷たくなる。





整備兵が、いつの間にか奥へ引っ込んでいた。

鋏を使う音が、棚の向こうから時折する。

それだけだった。


リラは、水槽の前に立っていた。

青白い光が、下から彼女の顔を照らしている。

硝子の中で、苔のようなものが、ゆっくりと揺れていた。


「……これ、生きてるの」


「らしい」


「ふうん」


彼女は、硝子に顔を寄せた。

息が、白く曇る――ことはなかった。


ここは暖かい。

湿った空気が、頬に触れている。


リラは、しばらくそれを見ていた。


七年、店の裏に、小さな鉢がいくつかあった。

誰にもらったものでもない。

ただ、置いてあった。


水をやれば、生きた。やらなければ、枯れた。

それだけの関係だった。


それでも、朝、扉を開けて、そこにあると、少しだけ息がしやすかった。


――ここも、同じかもしれない。


この船には、緑がない。乾いて、金気を帯びて、循環した空気しかない。

それでも、この一部屋だけ、水の音がしている。


土の匂いがする。

誰かが、鋏を入れている。

機械で足りるのに。


リラは、硝子から顔を離した。

掌を見る。昨夜、この掌で、部品を握り込んだ。

留まらないことだけを頼りに生きてきた七年が、それで終わった。


そして今日、この掌の外側に、何かがいた。


――なぜ、動いたんだろう。


考えるより先だった。壁を向いて、あの男の前に立った。


理由はない。

守る義理も、恩もない。

ほとんど他人だ。

それでも、体が動いた。


七年、そんなことは一度もなかった。

誰かの前に立つなんて。


リラは、掌を握った。


「……なあ」


カイルが、口を開いた。


「何」


「今日、管制室にいたんだろ」


「……ええ」


「何か、見たか」


リラの手が、止まった。


「……見てはいない」


そこで、終わるはずだった。


「でも、何かが居た」


言ってから、彼女は自分の声を聞いたような顔をした。

カイルは、彼女を見ていた。


「……分かるのか」


「分からない」


リラは、水槽に視線を戻した。

青白い光が、硝子の中で揺れている。


「分からない。でも、居た」


カイルは、それ以上訊かなかった。

訊けなかった。


数時間前、この部屋で、彼はここにない花の匂いを嗅いだ。

今も、それが何だったのか説明できない。


なかったことにも、できない。


水槽の中で、青白い光を浴びた葉が、ゆっくりと揺れているだけだった。


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