第1話 雨上がりの街
午後のスコールが石畳を叩き終えると、惑星ヴェスパーの都市ハロウブルクは決まって息を吹き返す。
焼けるような午前が過ぎ、短い豪雨が熱を鎮め、そうして人々がようやく通りへ戻ってくる。
リラは店先に出した椅子に腰かけ、湯気の立つ茶碗を両手で包んでいた。
シダ葉を煮出してミルクを垂らした、淡く濁った琥珀色の一杯。
向かいの食堂の主人などは一日に何杯飲むのか知れたものではない。
いい香り。
喉を通り過ぎていくだけの、温いだけの液体。
気づけば今日も、口に運んでいた。いつものように痛む喉が、この液体でマシになるような気がした。
雨上がりの街は、いつもの音を取り戻していた。
警備用の機甲兵が、大通りを横切った。
重い足音が石畳に響く。
誰も振り返らない。
この街では、それが日常だった。
向かいの軒下では、投影端末を腕にかざした若い男が食堂の老爺に道を尋ねていた。
「この店なら風見坂の方だ。」
「……風見坂?」
男は端末を操作するが、検索にはヒットしない。
「……そういや、今は第三地区って呼んでんだったか」
若い男はもう一度端末を操作し、「第三地区……。あ。ここか」と礼を言って歩き出す。
近くに座る孫娘が老爺に笑う。
「おじいちゃん。また古い言い方。さっきの人困ってたじゃん」
「ついな。口がそう覚えとる」
老爺は照れたように笑った。
リラはその光景を横目に、お茶を口へ運んだ。
「リラのおねえちゃん、それ何杯目?」
濡れた石畳を跳ねるように駆けてきたのはルーだった。
近所の子で、いつからか店に入り浸るようになった。スコールが上がるといつもこうして現れる。
「数えてない」
リラは茶碗を膝に下ろした。
「濡れてる。お母さんに怒られるよ」
「すぐ乾くから!だーいじょーぶ!」
石畳には、この辺の子供たちが描いた白い線が残っている。
ルーは濡れた石を避けるでもなく、その線で囲った石だけを選んで、片足、片足、両足と跳ねながら店先まで来た。
店先の植え込みの隙間を跳び越えて、リラが座る椅子の脇にしゃがみこんだ。
リラは残っていた茶を飲み干すと、片手でカップをもって立ち上がった。
しゃがみ込むルーの背中を軽く押す。
「タオルはカウンター」
リラは店の戸を片手で押した。
店の中は、外の湿った熱がふっと遠のく。
古い部品についた潤滑油の匂い。乾いた木製の戸棚。
ガラス戸の小瓶から漂う薬品の香り。
ルーは勝手知ったる顔で、カウンターの内側に回り、端に畳まれたタオルで乱暴に髪を拭き始める。
「おねえちゃんの店、いつ来ても薄暗いよね」
「日で傷むものもあるから」
リラはカウンターの奥の薄闇に身を置くと、脇に置かれたリストに目を通し始めた。
リストの一番上に、見慣れた依頼が一件あった。
【機甲兵HK-40系、駆動系の互換部品。急ぎ】
差出人の欄には、見慣れた識別コードだけが記されている。
「ねえちゃん、これ何て書いてあるの?」
タオルを首にかけたルーが、カウンター越しに背伸びをする。
「あんたには関係ないやつ」
リラは端末を伏せた。
ちょうどそのとき、戸口の光が翳った。
背の高い男が、頭を軽く下げて敷居をまたいでくる。
軍の作業着、埃を払いきれていない肩。
カイルだった。
開店してから七年間、その姿は、もう店の日常だった。
「型番、送った」
挨拶はない。
カイルは端末をカウンターに滑らせた。リラは画面に一瞥をくれる。
「また軍のお兄ちゃんだ。」
ルーはそう言うと、定位置の椅子に座って持ち込んだパーツを触り始めた。
「これ、去年で生産終わってる」
「知ってる。だから来た」
短いやり取りだった。リラはカウンターを離れ、奥の棚へ回る。
ルーが「私も」とついて行こうとして、「そこにいなさい」と背中で止められた。
「またHK-40?」
「ああ」
棚の三段目、油紙にくるまれた部品の束から、リラは迷わず一つを抜き取る。
それを戻しかけて、隣のもう一つと持ち比べ、結局最初のほうをカウンターに置いた。
「互換品。こっちのほうが状態がいい。もう一つは軸に歪みが出てる」
カイルは部品を手に取り、しばらく光にかざした。
「……俺には分からない。任せる。」
「まだHK-40使ってるんだ」
「ああ」
「とっくに生産終わってる機体を、部品継ぎ足して延命してるんでしょ。新しいの買ってもらいなさいよ。軍なんだから」
カイルは部品を懐に収めながら、短く答えた。
「予算が限られてる。それに……」
リラが代金を数える手が、わずかに止まった。カイルが言葉を継ぐのは、珍しかった。
「気に入ってる」
リラは数え終えたチップを引き寄せ、鼻から小さく息を吐いた。
「物持ちがいいのね」
「そっちもな」
言われて、リラは初めて手を止めた。この店の棚に並ぶ、引き取り手のない部品や、いつか使うかもしれない半端物。
物持ちがいい、というのは、たしかにそうかもしれなかった。
やり取りは、いつもこれで終わる。
だが、その日は、戸口で足が止まった。
外の通りが、いつもと違っていた。
食堂のほうから、低い声が固まって漏れてくる。雨上がりなら世間話で緩んでいるはずの通りが、今日は重い空気が張り詰めていた。
「――第七区、また出たらしい」
「またか」
「……防衛ラインを抜けたって話だ」
老爺の声だった。さっき孫娘に古い地名を笑われていた、あの声。
だが今は笑いがない。
「……まさか。そんな……。」
一拍、誰も言葉を継がなかった。雨だれの音だけが、軒から石畳へ落ちていく。
カイルはその会話に背を向けたまま、動かなかった。
統率されているとしか思えない動き——上は偶然だと言う。
だが、この数か月、偶然が多すぎた。
リラもまた、カウンターの奥で手を止めていた。
与太話だと聞き流せばいい。
そう思うのに、老爺の、笑いの消えた声が小さく引っかかった。
「……行くの」
リラは気づけば声をかけていた。
「仕事だ」
カイルは部品を懐に収め、戸口の光の中へ出ていった。
入れ替わりに、壁掛けのスピーカーが、耳障りな警告音とともに起動する。
『――第三区、第四区の住民は、不要不急の外出を控えてください。防衛軍による警戒態勢が――』
ルーが、パーツを握ったままスピーカーを見上げた。
「おねえちゃん。今の、こわいやつ?」
ルーが問いかけた時には、リラはもうエプロンを外していた。
店先の【OPEN】の札も外してしまう。
通りを見通すと、人混みに紛れるカイルの姿が見えた。
その向こうの空に、いつもの快晴とは違う、鉛色の煙が一本、空へ伸びていた。
「……送ってく。急ぐよ」
ルーはきょとんとして、それから少しだけ、口をつぐんだ。
その夜、ハロウブルク中に、けたたましい警戒音が鳴り響いた。




