第13話 輪の外
軍艦の朝は、音で始まる。
人工照明が一斉に切り替わる、低い唸り。
配管の中を水が走る音。
どこかで扉が閉まり、その反響が通路の奥まで届いて戻ってくる。
舷窓のない区画では、それだけが朝の合図だった。
通路には、既に人が流れていた。靴音が幾重にも重なり、天井へ跳ね返って、また降ってくる。
すれ違う兵士たちは、誰もが行き先を持っていた。誰かが誰かの肩を叩き、短く笑って、それぞれの方向へ分かれていく。
その流れの中で、リラだけが立ち止まっていた。
どこへ行けばいいのか、分からなかった。
「リラ」
声がした。レインだった。
人の流れを縫うでもなく、ただそこに立っている。
彼が立っているだけで、その周りだけ流れが割れていた。
「食堂は、この先を二つ折れた区画です。……朝食は、全員が取ります」
「……ええ」
「その後、格納庫へ。運動試験です」
それだけ言って、彼は歩き出した。
リラは、その背中を見ていた。
昨夜、割り当てられた船室で、掌の中の部品を握り込んだ。
留まらないことだけを頼りに生きてきた七年が、そこで終わった。
それでも、朝が来れば、行き先を告げられる。告げられた通りに動くしかない。
それが、この場所だった。
――通路の角。
アーネストは、そこから動かずにいた。端末を胸に抱えたまま、彼女の背中を見ている。
自分がなぜ足を止めたのか、うまく説明できなかった。
散っていく人の流れの中で、一人だけ動かない背中があった。
それだけのはずだった。
声をかける理由はいくらでも作れた。
作れたが、しなかった。
アーネストは、端末の角を親指でなぞった。
それから、静かに来た道を戻った。
*
格納庫の床が、空けられていた。
機体は壁際に寄せられ、中央に広い環が引かれている。その外周を、兵士たちが走っていた。
足音が、幾重にも重なる。
厚い靴底が鉄板を叩き、その音が天井へ跳ね返って、また降ってくる。
その底で、油圧レンチの低い駆動音が鳴り続けていた。
整備班が機体を囲んでいる。
油と溶剤の匂いが漂う。
空気は、次第に温まっていった。
汗と、生地の匂いが、その中へ重なる。
誰かの荒い呼吸が、すぐ後ろから追い抜いていく。
その中を、リラが走っていた。
髪を後ろで束ねただけの、薄い上着一枚。
細い体が、兵士たちの列を縫っていく。
追い抜く。
また追い抜く。
同じ背中を、二度、三度と抜いていった。
足音が、違った。
兵士たちの靴音は、踏み込むたびに重く鈍く鳴る。
彼女のそれは、軽い。
鉄板を叩かない。
撫でるように過ぎていく。
「……すげ」
壁際で、誰かが呟いた。
「何周目だ?」
「八じゃないか?」
「いや、十だろ」
「嘘だろ……」
環の中で、脱落が始まっていた。
一人が膝に手をつく。もう一人が壁に寄り、そのまま滑り落ちる。
口を開けて空気を貪る音が、あちこちで上がった。
床に汗の点が落ち、それが幾つも連なって、黒い染みを作っていく。
残りが、減っていく。
五人。
三人。
一人。
そして、リラだけになった。
足音が、一つ。広い格納庫に、それだけが響いている。
兵士たちは、もう誰も走っていなかった。
膝を抱え、壁にもたれ、床に座り込んだまま、その一つの足音を目で追っていた。
誰も、喋らなかった。
「――ここまで」
レインの声だった。
足音が、止まる。
アーネストが顔を上げた。
端末を握ったまま、一歩前に出る。
「まだ測定が」
「十分だ」
レインは、視線を動かさずに言った。
「あれは、自分の限界が分かっていないタイプだ」
リラが、こちらを見た。
息は、僅かに上がっている。
頬に、赤みはなかった。
汗も、ない。
ただ、唇の色が引いていた。
白い。
皮膚の下から、何かが抜けていったような色だった。
彼女自身が、その指摘を理解していない顔をしていた。
不可解そうに、レインを見る。
「……何が」
「もういい。休め」
それだけだった。
レインは背を向け、格納庫の出口へ歩いていく。
アーネストは、端末を下ろした。
下ろしたが、画面からは目を離さなかった。
数値が、そこにあった。
心拍。
呼吸数。
体表温度。
どれも、走る前と、ほとんど変わっていなかった。
*
「リラ」
壁際から、声が飛んだ。
カイルだった。
座り込んだ兵士たちの間を、跨ぐようにして抜けてくる。
彼自身も、環を走った側だった。
マスクを首まで下げ、額の汗を拭う暇もない。
その足音に、何人かが顔を上げた。
「大丈夫か」
カイルは、彼女の前で足を止めた。
リラは、上着の襟を直そうとしていた手を、止めた。
「……何が」
「顔だ」
「顔?」
「白い」
彼は、そこで初めて言葉に詰まった。
手を伸ばしかけて、途中で止める。
行き場をなくした指が、宙で一度、曲がった。
「……いや。座れ。とりあえず、座れ」
「立っていられるけど」
「いいから」
押し切られる形で、リラは壁際に腰を下ろした。
カイルが、水筒を差し出す。
彼女はそれを受け取ったが、口はつけなかった。
両手で、ただ包んでいる。
「……無理してるだろ」
「してない」
「してる」
「本当に、何ともないの」
そう言った彼女の声は、確かに平静だった。
息も、もう整っている。
それが、かえって悪かった。
カイルは、何も言い返せなかった。
彼女の言う通りなのだ。
息は上がっていない。
汗もない。
ただ、唇だけが白い。
何ともないはずの体で、色だけが抜けていく。
そんな理屈を、彼は知らなかった。
「……飲め。水くらい」
「うん」
リラは、水筒の蓋を開けた。
一口だけ、口に含む。
それから、蓋を閉めて、返した。
カイルは、その水筒を受け取ったまま、しばらく手の中で持て余していた。
*
彼女の姿が扉の向こうへ消えると、格納庫の空気が、一度に緩んだ。
「……あの人、本当に民間人か?」
床に転がった男が、天井に向かって言った。
「いや、軍でもあんなの見たことねえ」
「レイン隊長が止めるってことは、何かあるんだろ」
「何かって何だよ」
「知るか」
誰かが、水筒を回した。
何本かの手が、それを繋いでいく。
「つーか、お前ら」
一人が身を起こした。
「話しかけろよ」
「無理だろ」
「なんで」
「あのご尊顔だぞ」
「何だよ、ご尊顔って」
「知らん」
沈黙が落ちた。
何人かが、同時に頷いた。
「いや、それだけじゃない」
壁にもたれていた男が、首を振った。
「……敬礼したくなる」
「分かる」
「分かるな」
「何なんだろうな、あの人」
「知らん」
低い笑いが起きた。
誰かが咳き込み、それでまた笑いが広がる。
「じゃあ誰が行くんだ」
「お前が行けよ」
「嫌だね」
「新兵が行けよ、新兵」
「無茶言うな」
「……つーか、中尉は普通に行ってたぞ」
「あー」
「行ってたな」
「話してたし」
「昔からの知り合いか?」
「だろうよ」
「だよなあ」
誰かが、寝転がったまま伸びをした。
「……羨ましいな」
「何が」
「いや……あんな美人と普通に話せるの」
「……俺なら三秒で逃げる」
低い笑いが起きる。
床に散った汗が、乾きはじめていた。
*
食堂は、混んでいた。
試験を終えた兵士たちが、盆を抱えて列を作っている。
誰もが腹を空かせていた。
金属の盆が擦れ合う音。
匙が皿を叩く音。
天井が低いせいで、その全部が跳ね返って、また降ってくる。
空気には、蒸した穀物の匂いが立ちこめていた。
「おかわり」
「もう無理だろお前」
「走ったんだよ、俺は」
「三周でへばった奴が言うな」
低い笑いが、あちこちで起きる。
皿の底を匙で掻く音。
誰かが隣の分を奪って、追い払われている。
リラは、隅の卓にいた。盆の上のものを、順番に片付けている。
誰と話すでもなく、誰を見るでもなく。
背筋が伸びている。両肘が、脇に付いている。
卓を、一人分より狭く使っていた。
その周りだけ、席が空いていた。
二つ隣の卓で、さっき環を走った男が、一度こちらを見た。
口を開きかけて、それから盆に視線を落とす。
隣の男が肘で小突く。
首を振って返す。
盆が、一つ置かれた。
リラの、正面だった。
「隣、いいか」
カイルだった。
返事を待たずに腰を下ろす。
食堂の音が、一段だけ低くなった気がした。
何人かの視線が動いて、それからまた戻っていく。
「……好きにすれば」
カイルは、匙を取った。皿の中身を口へ運ぶ。
塩気が強い。舌が痺れるほどの塩と、それを押し流すための、ぬるい湯。
走った後の体には、それが染みた。
腹の底が温まっていく。
「……悪くない」
「そう」
リラは、自分の匙を動かしていた。
運ぶ。
噛む。
飲み込む。
その間隔が、一度も変わらない。
カイルは、それを見ていた。
うまいものを食う速さではなかった。
かといって、まずそうでもない。
眉も動かない。
塩の塊に当たっても、焦げた縁を噛んでも、同じ速さで、同じように飲み込んでいく。
――前も、そうだった。
店の卓で、彼女はいつも同じだった。
自分が茶を啜って熱がると、彼女は不思議そうな顔をした。
あの時は、猫舌ではないのだと思っただけだった。
「なあ」
「何」
「それ、うまいか」
リラの手が、止まった。
ほんの一瞬だった。
「……普通」
それだけ言って、また匙を動かす。
運ぶ。
噛む。
飲み込む。
同じ間隔だった。
カイルは、それ以上訊かなかった。
自分の皿に視線を戻す。
塩気が、まだ舌の上に残っていた。
「……さっきは」
リラが、口を開いた。
「あの、水」
「ああ」
「……どうも」
「別に」
それだけだった。
二人とも、また黙って匙を動かした。
周りでは、兵士たちがまだ騒いでいる。
誰かがおかわりを勝ち取って、歓声が上がった。
その音の輪の、外側に、二つの背中が並んでいた。




