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第13話 輪の外

軍艦の朝は、音で始まる。


人工照明が一斉に切り替わる、低い唸り。

配管の中を水が走る音。

どこかで扉が閉まり、その反響が通路の奥まで届いて戻ってくる。

舷窓のない区画では、それだけが朝の合図だった。


通路には、既に人が流れていた。靴音が幾重にも重なり、天井へ跳ね返って、また降ってくる。


すれ違う兵士たちは、誰もが行き先を持っていた。誰かが誰かの肩を叩き、短く笑って、それぞれの方向へ分かれていく。


その流れの中で、リラだけが立ち止まっていた。

どこへ行けばいいのか、分からなかった。


「リラ」


声がした。レインだった。


人の流れを縫うでもなく、ただそこに立っている。

彼が立っているだけで、その周りだけ流れが割れていた。


「食堂は、この先を二つ折れた区画です。……朝食は、全員が取ります」


「……ええ」


「その後、格納庫へ。運動試験です」


それだけ言って、彼は歩き出した。

リラは、その背中を見ていた。


昨夜、割り当てられた船室で、掌の中の部品を握り込んだ。

留まらないことだけを頼りに生きてきた七年が、そこで終わった。


それでも、朝が来れば、行き先を告げられる。告げられた通りに動くしかない。


それが、この場所だった。



――通路の角。


アーネストは、そこから動かずにいた。端末を胸に抱えたまま、彼女の背中を見ている。

自分がなぜ足を止めたのか、うまく説明できなかった。

散っていく人の流れの中で、一人だけ動かない背中があった。


それだけのはずだった。

声をかける理由はいくらでも作れた。


作れたが、しなかった。


アーネストは、端末の角を親指でなぞった。

それから、静かに来た道を戻った。





格納庫の床が、空けられていた。


機体は壁際に寄せられ、中央に広い環が引かれている。その外周を、兵士たちが走っていた。

足音が、幾重にも重なる。

厚い靴底が鉄板を叩き、その音が天井へ跳ね返って、また降ってくる。


その底で、油圧レンチの低い駆動音が鳴り続けていた。

整備班が機体を囲んでいる。

油と溶剤の匂いが漂う。


空気は、次第に温まっていった。

汗と、生地の匂いが、その中へ重なる。

誰かの荒い呼吸が、すぐ後ろから追い抜いていく。


その中を、リラが走っていた。


髪を後ろで束ねただけの、薄い上着一枚。

細い体が、兵士たちの列を縫っていく。


追い抜く。

また追い抜く。

同じ背中を、二度、三度と抜いていった。


足音が、違った。


兵士たちの靴音は、踏み込むたびに重く鈍く鳴る。

彼女のそれは、軽い。

鉄板を叩かない。


撫でるように過ぎていく。


「……すげ」


壁際で、誰かが呟いた。


「何周目だ?」


「八じゃないか?」


「いや、十だろ」


「嘘だろ……」



環の中で、脱落が始まっていた。


一人が膝に手をつく。もう一人が壁に寄り、そのまま滑り落ちる。

口を開けて空気を貪る音が、あちこちで上がった。

床に汗の点が落ち、それが幾つも連なって、黒い染みを作っていく。

残りが、減っていく。


五人。


三人。


一人。


そして、リラだけになった。


足音が、一つ。広い格納庫に、それだけが響いている。


兵士たちは、もう誰も走っていなかった。

膝を抱え、壁にもたれ、床に座り込んだまま、その一つの足音を目で追っていた。

誰も、喋らなかった。


「――ここまで」


レインの声だった。

足音が、止まる。

アーネストが顔を上げた。


端末を握ったまま、一歩前に出る。


「まだ測定が」


「十分だ」


レインは、視線を動かさずに言った。


「あれは、自分の限界が分かっていないタイプだ」


リラが、こちらを見た。

息は、僅かに上がっている。

頬に、赤みはなかった。

汗も、ない。


ただ、唇の色が引いていた。


白い。

皮膚の下から、何かが抜けていったような色だった。

彼女自身が、その指摘を理解していない顔をしていた。

不可解そうに、レインを見る。


「……何が」


「もういい。休め」


それだけだった。

レインは背を向け、格納庫の出口へ歩いていく。


アーネストは、端末を下ろした。

下ろしたが、画面からは目を離さなかった。

数値が、そこにあった。


心拍。

呼吸数。

体表温度。


どれも、走る前と、ほとんど変わっていなかった。





「リラ」


壁際から、声が飛んだ。

カイルだった。

座り込んだ兵士たちの間を、跨ぐようにして抜けてくる。


彼自身も、環を走った側だった。

マスクを首まで下げ、額の汗を拭う暇もない。

その足音に、何人かが顔を上げた。


「大丈夫か」


カイルは、彼女の前で足を止めた。

リラは、上着の襟を直そうとしていた手を、止めた。


「……何が」


「顔だ」


「顔?」


「白い」


彼は、そこで初めて言葉に詰まった。


手を伸ばしかけて、途中で止める。

行き場をなくした指が、宙で一度、曲がった。


「……いや。座れ。とりあえず、座れ」


「立っていられるけど」


「いいから」


押し切られる形で、リラは壁際に腰を下ろした。

カイルが、水筒を差し出す。

彼女はそれを受け取ったが、口はつけなかった。

両手で、ただ包んでいる。


「……無理してるだろ」


「してない」


「してる」


「本当に、何ともないの」


そう言った彼女の声は、確かに平静だった。

息も、もう整っている。

それが、かえって悪かった。


カイルは、何も言い返せなかった。

彼女の言う通りなのだ。

息は上がっていない。

汗もない。

ただ、唇だけが白い。


何ともないはずの体で、色だけが抜けていく。

そんな理屈を、彼は知らなかった。


「……飲め。水くらい」


「うん」


リラは、水筒の蓋を開けた。

一口だけ、口に含む。


それから、蓋を閉めて、返した。

カイルは、その水筒を受け取ったまま、しばらく手の中で持て余していた。





彼女の姿が扉の向こうへ消えると、格納庫の空気が、一度に緩んだ。


「……あの人、本当に民間人か?」


床に転がった男が、天井に向かって言った。


「いや、軍でもあんなの見たことねえ」


「レイン隊長が止めるってことは、何かあるんだろ」


「何かって何だよ」


「知るか」


誰かが、水筒を回した。

何本かの手が、それを繋いでいく。


「つーか、お前ら」


一人が身を起こした。


「話しかけろよ」


「無理だろ」


「なんで」


「あのご尊顔だぞ」


「何だよ、ご尊顔って」


「知らん」


沈黙が落ちた。

何人かが、同時に頷いた。


「いや、それだけじゃない」


壁にもたれていた男が、首を振った。


「……敬礼したくなる」


「分かる」


「分かるな」


「何なんだろうな、あの人」


「知らん」


低い笑いが起きた。

誰かが咳き込み、それでまた笑いが広がる。


「じゃあ誰が行くんだ」


「お前が行けよ」


「嫌だね」


「新兵が行けよ、新兵」


「無茶言うな」


「……つーか、中尉は普通に行ってたぞ」


「あー」


「行ってたな」


「話してたし」


「昔からの知り合いか?」


「だろうよ」


「だよなあ」


誰かが、寝転がったまま伸びをした。


「……羨ましいな」


「何が」


「いや……あんな美人と普通に話せるの」


「……俺なら三秒で逃げる」


低い笑いが起きる。

床に散った汗が、乾きはじめていた。





食堂は、混んでいた。

試験を終えた兵士たちが、盆を抱えて列を作っている。

誰もが腹を空かせていた。


金属の盆が擦れ合う音。

匙が皿を叩く音。

天井が低いせいで、その全部が跳ね返って、また降ってくる。


空気には、蒸した穀物の匂いが立ちこめていた。


「おかわり」


「もう無理だろお前」


「走ったんだよ、俺は」


「三周でへばった奴が言うな」


低い笑いが、あちこちで起きる。

皿の底を匙で掻く音。

誰かが隣の分を奪って、追い払われている。


リラは、隅の卓にいた。盆の上のものを、順番に片付けている。

誰と話すでもなく、誰を見るでもなく。

背筋が伸びている。両肘が、脇に付いている。

卓を、一人分より狭く使っていた。


その周りだけ、席が空いていた。


二つ隣の卓で、さっき環を走った男が、一度こちらを見た。

口を開きかけて、それから盆に視線を落とす。

隣の男が肘で小突く。

首を振って返す。


盆が、一つ置かれた。

リラの、正面だった。


「隣、いいか」


カイルだった。

返事を待たずに腰を下ろす。

食堂の音が、一段だけ低くなった気がした。

何人かの視線が動いて、それからまた戻っていく。


「……好きにすれば」


カイルは、匙を取った。皿の中身を口へ運ぶ。

塩気が強い。舌が痺れるほどの塩と、それを押し流すための、ぬるい湯。

走った後の体には、それが染みた。

腹の底が温まっていく。


「……悪くない」


「そう」


リラは、自分の匙を動かしていた。


運ぶ。

噛む。

飲み込む。


その間隔が、一度も変わらない。


カイルは、それを見ていた。

うまいものを食う速さではなかった。

かといって、まずそうでもない。

眉も動かない。

塩の塊に当たっても、焦げた縁を噛んでも、同じ速さで、同じように飲み込んでいく。


――前も、そうだった。


店の卓で、彼女はいつも同じだった。

自分が茶を啜って熱がると、彼女は不思議そうな顔をした。

あの時は、猫舌ではないのだと思っただけだった。


「なあ」


「何」


「それ、うまいか」


リラの手が、止まった。

ほんの一瞬だった。


「……普通」


それだけ言って、また匙を動かす。


運ぶ。

噛む。

飲み込む。


同じ間隔だった。


カイルは、それ以上訊かなかった。

自分の皿に視線を戻す。

塩気が、まだ舌の上に残っていた。



「……さっきは」


リラが、口を開いた。


「あの、水」


「ああ」


「……どうも」


「別に」


それだけだった。

二人とも、また黙って匙を動かした。


周りでは、兵士たちがまだ騒いでいる。

誰かがおかわりを勝ち取って、歓声が上がった。


その音の輪の、外側に、二つの背中が並んでいた。

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