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第12話 旅立ち

翌日、扉が、控えめな音を立てて開いた。


「おねえちゃん……?」


ルーだった。札を見上げ、不安を隠せない顔で、店の奥を覗き込んでいる。

がらんとした棚に気づいて、その足が、入り口で止まった。


「……お店、どうしたの」


「……ちょっと、遠くに行くことになった」


リラは手を止めずに答えた。声にだけ、いつもより僅かな柔らかさが混じる。


「遠くって……どこ」


「……仕事」


それ以上は、説明できなかった。

ルーは、しばらく不安そうにリラを見つめていた。


空になった棚と、まだ荷造りの済まないリラの手元とを、交互に。


「……もう、帰ってこないの」


その率直な問いに、リラの手が、一瞬止まった。


誰かに、そんなふうに、まっすぐ帰りを望まれたことは、これまでなかった。

帰ってくると、簡単には言えない自分がいる。


だが、目の前で唇を結んでいる子供に、本当のことなど、言えるはずもなかった。


「……できる限り、帰ってくるつもり」


静かに、そう答えた。今の自分に言える、精一杯の言葉だった。


ルーは、その言い回しの隙間に何かを感じ取ったのか、じっとリラを見上げていた。

それでも、それ以上は踏み込まなかった。

子供なりに、踏み込んではいけない気配を、嗅ぎ取ったのかもしれない。


「……うん。待ってる」


その一言に、リラは何も言えなくなった。ただ、小さく頷く。


「……お姉ちゃんがいない間、誰が部品くれるの」


急に子供らしい不満に戻ったその声に、リラは、思わず小さく笑った。

喉の奥が、ふっと緩む。こんなふうに笑うのは、いつぶりだろうと思った。


「……戻ってきたら、また、あげる。だから、いい子にしてなさい」


棚の隅に残っていた、小さな金属片を一つ、ルーの手のひらに握らせる。丸みを帯びた、指ほどの部品だった。


「お守り代わり。落とさないように」


ルーは、それを両手で包み込んだ。

小さな手の中で、金属が、ちりんと鳴った。


出ていく後ろ姿を、リラはしばらく見送っていた。


角を曲がる直前、ルーが一度だけ振り返って、握った手を高く上げてみせる。

その手を、リラも、僅かに上げて返した。

姿が消えても、しばらく、上げた手を下ろせなかった。


誰にも深く関わらずに生きてきたはずだった。

それなのに、こんな小さな別れ一つが、これほど重い。





最後に、店の中をぐるりと見渡した。


空になった棚。

使い込んだ工具。

数えきれない取引の、声と匂いの残り。

全部に、静かに別れを告げるように、目を巡らせる。


それから、灯りを落とした。


扉に鍵をかける。

乾いた金属の音が、夕暮れの通りに、ひとつだけ響いた。

掌に残った鍵の冷たさが、やけにはっきりと感じられた。


――できる限り、帰ってくる。


確証のない約束だけを、胸の奥に畳んで、リラは坂を下りていった。

背嚢の底で、包んだ部品が、歩みに合わせて微かに鳴っていた。





軍港の外れ、係留された中型艦のタラップの下に、カイルは先に立っていた。


背嚢を一つ提げ、手持ち無沙汰に、船体を見上げている。

リラが坂を下りてくるのに気づくと、彼は、それだけのことを確かめるように、僅かに姿勢を正した。


「……来たか」


「待ってたの」


「まあ。……一人で乗り込むより、いいだろう」


素っ気ない言い方だった。

だが、待つ理由など、他にないことは、二人とも分かっていた。


海風に、油と潮の匂いが混じる。頭上で、艦の駆動機関が、低く唸りを上げ始めていた。





タラップを上がると、油と、冷えた金属と、大勢の人間の体温が入り混じった匂いが、鼻を突いた。


艦内は出航前の慌ただしさで満ちている。

台車の車輪が甲板を鳴らし、誰かが積荷の番号を読み上げ、遠くで金属を打つ音が反響していた。

すれ違う兵士たちの視線が、一様にリラで一瞬止まり、それから、慌てたように逸れていく。


訓練場の噂は、もう艦の隅々まで行き渡っているらしかった。


「……もしかして、怖がられてる?」


リラが、前を向いたまま、ぽつりと言った。

深刻ぶらない、どこか他人事のような口ぶりだった。


「……今さらか」


「今さらね」


すれ違った若い兵士が、目を合わせかけて、弾かれたように顔を伏せる。

その反応を横目に、リラは小さく息を吐いた。


恐れられることには、慣れていた。

数十年、ずっとそうだった。慣れているはずのそれが、なぜか今日は、僅かに座りが悪い。


「……気にするのか」


カイルが、意外そうに言った。


「別に。……ただ、あなたが隣で歩きにくいだろうと思って」


「俺は、気にしない」


短い返事だった。

飾りも、気負いもない。ただ、事実を言っただけ、という調子で。


リラは、それ以上何も言わなかった。

ただ、ほんの少しだけ、歩幅が緩んで、カイルの隣に並んだ。





ブリーフィング室に通された。

長机に、数人が着いている。低い天井に、換気口の送風音が、絶え間なく籠っていた。

上座で、レインが立ち上がる。


「揃いましたね。……これから寝食を共にする面々です。顔だけ、覚えておいてください」


紹介は短かった。


整備。

通信。

医療。


それぞれが、名を告げて、軽く頭を下げる。

誰もがリラに向ける視線に、好奇と、隠しきれない警戒とを、半分ずつ混ぜていた。

値踏みするような目の重さに、リラは慣れた無関心で応じる。


最後の一人で、その無関心が、僅かに引っかかった。


痩せた青年だった。白衣の袖が、細い手首で余っている。

名を呼ばれて立ち上がった拍子に、手にした端末を取り落としかけ、慌てて胸元に抱え直す。


「……アーネストです。解析を、担当します。よろしく、お願いします」


視線が、合いかけて、逸れた。

青年の指先が、机の縁を、意味もなく一度だけ掻く。

その落ち着かなさを、リラは見るともなく見ていた。


無害な、気の弱い研究者。

誰の目にも、そう映る。


視線を伏せた一瞬だけ、彼の瞳に鋭い光が宿っていた。





夜、艦は静かに軌道を離れた。


割り当てられた狭い船室で、リラは寝台の縁に腰かけていた。


壁越しに、駆動機関の低い唸りが、絶え間なく伝わってくる。骨に触れるほど近いその震動が、腰かけた金属の縁から、じかに這い上がってきた。


舷窓の外では、見慣れたヴェスパーの緑が、みるみる小さくなり、やがて雲に呑まれて消える。


背嚢から、布包みを取り出す。

中の部品を、掌に転がした。焦げた端子。

冷たい金属。何の値打ちもない、ただのくず。


七年、留まらないことだけを頼りに生きてきた。

荷は、いつも背負って出られる分だけ。

それが、たった今、崩れた。


帰る場所を持つということが、これほど心もとないものだとは、思わなかった。

リラは、部品を握り込み、また布に戻した。

掌に、金属の冷たさが、しばらく残った。


舷窓の外に、星が満ちていく。

どこへ向かうのかも、まだ知らされていなかった。

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