第九話 決断と別れ、物語は変わる
「悪役令嬢、休もう?」
ジェリーにそう言われた時。
エリザベスは、心の奥で思ってしまった。
――休みたい。
この国には、結婚式の日に持っていく白いハンカチへ花の刺繍をする風習がある。
中央に小さな蕾を刺し、それが少しずつ花開き、大輪の薔薇になる図案。
刺繍が美しく仕上がるほど幸せな結婚ができるという、おまじないだった。
「刺繍に集中したいの」
そう令嬢たちに伝え、お茶会をしばらく休むことにした。
※
一人で刺繍をする時間は、心が落ち着いた。
三十センチ四方の白い綿のハンカチ。針を進めるたび、蕾が少しずつ花になっていく。
静かな午後。窓から吹く風がハンカチを揺らす。小鳥のさえずりを聴きながら針を動かす。
エリザベスは、こういう時間が好きだった。
ある日、ジェリーが遊びに来た。
「はい、お土産」
そう言って差し出したのは、たっぷりとある白い刺繍糸だった。
「刺繍屋さんで見つけたんだけどさ、これ手触りヤバいよ」
指で撫でる。
絹のようになめらかだった。
「……ありがとう」
胸が温かくなる。
こんな贈り物をもらったのは初めてだった。
※
お茶会を休んでから一ヶ月が経った。
サリアが屋敷を訪ねてきた。
いつもなら菓子を持ってくる彼女が、今日は手ぶらだった。
不機嫌そうに長椅子へ腰を下ろす。
「一ヶ月もあれば刺繍も進みましたでしょう? そろそろお茶会を再開いたしません?」
「ごめんなさい。私、手を動かすのが遅くて、まだかかりそうなの」
エリザベスの返事に、サリアの顔はますます不機嫌になった。
「エリザベスもご存じでしょう。アイラ女王の政策で貴族は存続の危機ですのよ。私たちが令嬢たちを教育して、以前のように貴族は誇り高き存在にならなければなりませんわ」
教育。またその言葉だ。
「そうかしら……存続の危機なら、教育してお茶会で一人を責めるのではなく、助け合うべきでは?」
「助け合う?」
サリアは鼻で笑った。
「はっきり申し上げますけれど、自尊心のない恥知らずな令嬢は叱らないと分かりませんわよ」
「叱る? 私たちは今まで、お茶会で叱っていたの?」
嘲笑って、傷つけてきただけだ。
「ええ、そうですとも。本物の貴族である私たちが教えて差し上げるべきなのです。なのにあなたはヴェロニカへ謝った。体型も管理できない女性に対して」
「謝るべきだと思ったからよ。誰もが体型を管理できるとは限らないわ。私たちのやってきたことは、あまりにも相手を傷つけていた。私は反省しているの」
サリアは膝の上で拳を握り締めた。みるみる顔が赤くなっていく。
「綺麗事ばかり……! 私たちが努力してきたことまで否定するの!?」
サリアが突然、火がついたように叫んだ。
「…………だって……私は……誰かを見下していないと、私は……!
つまらないのよ! 誰かを見下していないと!」
声が部屋に響く。
エリザベスは静かに息をついた。
――なるほど。
教育なんて、全部言い訳だったのだ。
「私は怒っていますのよ。あなた、最近ジェリーと会っているそうね。よりによって、あんな下品な女と」
「ええ。先日は質の良い刺繍糸をくださったわ」
「あなたは裏切り者よ! よりによって、あんな女と。私とあなたは親友のはずだったのに。付き合う人間は選ぶべきという考えは、どこへいったの?」
エリザベスは腕を組み、じっとサリアを見つめた。
こんなにも露骨に人を見下す女性と、本当に親友だったのだろうか。
ふと、ジェリーの言葉が胸によみがえる。
――だってさ。そんなの、一人で物語なんて動かせないっしょ。
「私の人生は私のものよ。付き合う人をあなたに決められたくないわ。でも、一つだけ言わせて」
エリザベスはふっと笑った。
「誰かを見下していないと楽しくない人生なんて、惨めね」
サリアの目が大きく見開かれた。口元を歪め、顔を覆う。
「私は……美しくもない、頭も良くない、家柄だってそれほどではない……だから……」
そこまで言うと、サリアは肩を震わせながら、逃げるように部屋を出ていった。
エリザベスは深く息を吐いた。
少しずつ、自分が変わったことで、見えてきたものがある。
エリザベスは、転生前の自分に戻りたい。悪役でもない、令嬢でもない、一人の人間に。
サリアとの親友関係は終わっただろう。本来の物語には、なかった出来事だ。
物語は、変わり始めていた。
その変化を、エリザベスは少しだけ楽しみだと思った。
怖くない。
あの夏のような笑顔が、胸に浮かんだからだ。




