第五話 悪役令嬢の敗北
ジェリーの差し出した手を、エリザベスは取れなかった。
自由に笑う彼女が眩しかった。
けれど、自分にはそんな勇気はない。
どうやって公爵令嬢をやめろというの。
父も屋敷も使用人たちも。
すべて捨てて生きろというのだろうか。
それに、私が悪役令嬢をやめてしまえば、ヒロインたちの物語が変わってしまうかもしれない。
誰かの幸せを奪ってしまうかもしれない。
「そんなこと……できません」
ジェリーは肩をすくめた。
「ま、いきなり言われてもって感じかー」
怒るでもなく、呆れるでもなく笑う。
「無理にとは言わないよ。さ、お茶会戻ろっか」
まるで何事もなかったように歩き出す。
その背中を、エリザベスは少しだけ羨ましく思った。
※
お茶会が終わり、令嬢たちが帰っていく
サリアだけが部屋へ残った。
「許せませんわ」
紅茶のカップを乱暴にソーサーへ置く。
「私たちのお茶会で、なんて無礼な振る舞いでしょう」
意地悪そうな瞳が細くなる。
「教育して差し上げなくてはいけませんわね」
エリザベスは曖昧に頷いた。
「またジェリー様には、お茶会へ来ていただきましょう」
「ええ……まあ」
令和を生きていたギャルが、サリア程度のお嬢様に負けるとは思えなかった。
※
次のお茶会。
ジェリーは前回にも増して派手な装いで現れた。
鮮やかな黄色のドレスに、大ぶりの耳飾り。手には大きな籠を抱えている。
「今日はカヌレ焼いてきたよー」
令嬢たちへ次々と配っていく。
外は香ばしく、中はしっとり。
卵とバターの風味が口いっぱいに広がり、ほろ苦い焼き色が甘さを引き立てていた。
「美味しい……」
「初めていただくお菓子ですわ」
令嬢たちが感嘆の声を漏らす。
最初こそ戸惑っていた令嬢たちも、今ではジェリーの遠慮のない性格に少しずつ慣れ始めていた。
怖い人ではない。
むしろ話してみると面白い。
そんな空気が生まれつつある。
「そのお化粧は、どのようになさっているの?」
一人の伯爵令嬢が興味深そうに尋ねた。
「とても睫毛が長いのね」
「これ?」
ジェリーは鞄をごそごそ探る。
「メイク道具持ってきてるから、やってあげるよ」
小さな筒を取り出し、刷毛を睫毛へ滑らせた。
「目ぇ閉じてねー」
「まあ!」
令嬢が鏡を見て歓声を上げる。
「本当に長く見えますわ!」
「でしょう?」
「私も!」
「わたくしもお願いしたいですわ!」
令嬢たちが次々と集まってくる。
エリザベスは目を丸くした。
この世界でマスカラを見る日が来るとは思わなかった。
サリアだけは輪に入らず、冷たい目でその様子を見ている。
やがてエリザベスへ顔を寄せ、小声で囁いた。
「何をなさっているの。教育をして差し上げるのでしょう」
エリザベスは小さく咳払いをした。
「ジェリーさん」
「ん?」
「その……睫毛へ塗る液体で、お肌は荒れませんの? わたくしたちのお肌はとても敏感ですから、少々気になりますわ」
精一杯の嫌味。
悪役令嬢だと正体を知られている相手に向かって言うには、あまりにも気恥ずかしかった。
ジェリーはにっと笑う。
「大丈夫」
「これ、植物由来だから安全だよ」
そう言って鞄から小瓶をもう一つ取り出した。
「お肌のお手入れなら、まず化粧水ね」
「ウチ、これ自分で作ってんの」
「あら」
エリザベスは思わず聞き返す。
「お化粧品をご自身でお作りになりますの?」
「うん」
ジェリーはあっけらかんと答えた。
「欲しいもん売ってないから、作るしかないっしょ」
「ジェリーさんのお肌、とてもきれいですもの」
侯爵令嬢が身を乗り出す。
「ぜひ作り方を知りたいですわ」
「りょーかい」
ジェリーは親指を立てた。
「次来る時、レシピ持ってくるね」
今日もお茶会の主役はジェリーだった。
令嬢たちは彼女を囲み、楽しそうに笑っている。
エリザベスは紅茶を一口飲んだ。
今日は悪役令嬢の出番など、どこにもなかった。
※
ジェリーが帰ったあと。
「皆様まで、あの方の真似をなさるなんて……」
サリアは忌々しそうに唇を噛んでから、静かに微笑んで扇子を閉じた。
「……良いことを思いつきましたわ」
その笑みを見たエリザベスだけが、胸騒ぎを覚えた。




