第三話 婚約者
お茶会が終わった翌日。
執事が応接間へやってきた。
「お嬢様、お客様がお見えです」
「どなたかしら」
「グレイ子爵家のご嫡男、アルフレッド様でございます」
エリザベスは本を閉じた。
婚約者候補。
父が何度か引き合わせている青年だった。
※
アルフレッドはバルコニーで待っていた。
背はすらりと高く、柔らかな緑色の瞳をした青年である。日に透ける淡い栗色の髪が風に揺れ、穏やかな笑みを浮かべて立ち上がった。
「ごきげんよう、エリザベス様」
「ごきげんよう、アルフレッド様」
向かい合って腰を下ろす。
エリザベスは紅茶を淹れる。
ポットから立ち上る湯気を見つめながら、アルフレッドは微笑んだ。
「あなたの紅茶をいただける日は楽しみなんです」
「光栄です」
カップを差し出す。
彼は香りを楽しむように目を閉じ、一口飲んだ。
「やはり美味しい」
「ありがとうございます」
アルフレッドが鞄から一冊の本を取り出した。
「以前おすすめいただいた小説を読み終えました」
「いかがでしたか」
「最後の主人公の選択が好きでした」
二人は読書の話をした。
最近出版された歴史書、昔の英雄譚、
外国から伝わった恋愛小説。
話題は尽きない。
気づけば紅茶も冷めかけていた。
「そういえば」
アルフレッドが少し困ったように笑う。
「我が家もなかなか大変でして」
「子爵家もですか」
「ええ。革命以来、貴族も昔ほど楽ではありません」
その笑みは自嘲ではなく、どこか吹っ切れたものだった。
「私は貴族であることに執着はありません。ただ父は、できれば家を残したいと思っております」
エリザベスは黙って聞いた。
これまで何人もの青年と引き合わされた。
一人娘である自分と結婚し、公爵家へ入れば安泰だからだ。
権力、爵位、財産。
皆、それを求めていた。
けれどアルフレッドは違う。
今日も結婚の話は一度もしない。
ただ、本の続きを話しに来たような顔をして笑っている。
不思議な人。
いい人なのだと思う。
穏やかで、誠実で、一緒にいて疲れない。
それなのに。
胸は少しも高鳴らなかった。
※
アルフレッドを見送ったあと、エリザベスは一人でバルコニーに残った。
風が庭の薔薇を揺らしている。
父はきっと、また婚約を勧めるだろう。
そして、この青年と結婚する。
それが、この世界の筋書きだった。
悪役令嬢エリザベスは、数々の意地悪を重ねた末にアルフレッドと出会う。
彼の誠実さに触れ、少しずつ心を入れ替える。
やがて恋に落ち、穏やかな結婚生活を送り、公爵家を支える良き妻となる。
それが、この物語の結末。
だから何度もアルフレッドと会った。
今日こそは、この人を好きになれるかもしれない。
そう思って会うたびに、心は静かなままだった。
アルフレッドは優しい。
誠実で、教養があり、本が好きで、紅茶を心から楽しんでくれる。
一緒にいて疲れない。
安心できる。
それなのに、男性として惹かれない。
恋とは違った。
「……どうしてかしら」
思わず呟く。
この人と結婚すれば、私は改心する。
幸せになる。
そういう運命のはずなのに。
胸は一度も高鳴らない。
それとも。
前世から、私はそういう人間だったのだろうか。
大恋愛などしたことはない。
付き合っても、なんとなく。
別れても、なんとなく。
誰かを好きでたまらなくなったことは、一度もなかった。
思い出すのは恋人ではない。
毎日働いていた紅茶専門のカフェだった。
磨き上げられたティーポット。
棚いっぱいに並ぶ茶葉の缶。
お気に入りのティーカップ。
朝一番に店へ満ちるアールグレイの香り。
あの場所が好きだった。
お客様が「美味しかった」と笑って帰っていく時間が好きだった。
今、その知識は貴族の嗜みとして役立っている。
けれど、あの頃のように心から紅茶を淹れられる日は少ない。
私は悪役令嬢。
いつか改心し、幸せになる未来が用意されている。
そのはずなのに。
その”幸せ”が、どうしても遠く感じられた。エリザベスは静かに冷めた紅茶を口に運ぶ。少しだけ、苦かった。




