四十
ニヴィエ・デュラックがその人を始めて見たのは、十三歳の頃だった。
その人──ユリウス・カルンシュタインは、その時すでに皇帝で、ローディウム帝国の頂点だった。
頂点の冠をいただく、この国至高の存在。
それはデュラック家にとってはいつか取って代わらなければならない存在で、ニヴィエ自身もそう教えられていたし、彼女自身そう考えていた。
ユリウスの姿を見るまでは。
黄金を溶かして紡いだかのような豪奢な髪、磨き上げられて輝くサファイアの瞳、白い肌は初雪のように穢れを知らず、しかし鍛え上げられた体躯はどんな騎士よりも頑強。
何よりその美貌。物語の貴公子が抜け出たかのような繊細さと、男性らしい精悍さを合わせ持った顔立ちは、ニヴィエの心を瞬く間に奪い去った。
まるで太陽のような眩さ。ニヴィエが声も無く見惚れていると、ふとユリウスと目が合った。
強い意志を秘めたサファイアの瞳。それを見たとたん、それまでニヴィエを構成していた価値観全てが崩れた。
──あの方じゃない。この人が⋯⋯いえ、この方こそが!
──私にとって、最も価値のあるお方!
それからニヴィエは、デュラック家だけでなく元皇太后やその実家、親戚に至るまで、利用できるものは全て利用して、ユリウスに近付こうとした。月日をかけて彼の元に侍る理由を作り、その妃に収まろうと画策したのである。
だが、周囲の妨害のせいでうまくいかない。なかなか傍に行くことができないし、行けたとしてもふたりきりになれない。
もどかしい思いを何度もしたが、それも必要なことだったと自分に言い聞かせる。
だってあのサファイアは、自分を見たのだ。焦がれるニヴィエを捉えたのだ。
──ならあの方も、同じ思いを抱いているはずだわ。
そう、思っていたのに。
突如として、皇宮にひとりの女が居座った。
ミカエルシュナ・ルフェ。美しいだけが取り柄の忌々しいエルフ。
彼女が次期皇妃として振る舞うようになってから、ますますうまくいかなくなった。
しょせんユリウスも男だったというのか、ミカエルシュナの美しさに篭絡されて、ニヴィエを激しく拒絶するようになってしまった。
──でも、大丈夫。
──今日で全て、丸く収まるわ。
皇宮の謁見の間にて、ニヴィエは唇の端を吊り上げる。
もうすぐ、ユリウスが来るはずだ。その時に、ミカエルシュナの全てを暴いてやる。
そうすれば目の覚めたユリウスは、ニヴィエの愛を受け入れ、求婚してくれるだろう。
「ニヴィエ⋯⋯解っているな」
「勿論よ、お父様」
どこか不安そうな父デュラック伯爵に、ニヴィエは自信満々に答えた。
意味するところも、自信の根拠も、空回りしていることに気が付かないまま。
───
謁見の間に行く直前、ミカエルシュナは騎士団から女性用の軍服を借りて着替え、ユリウスに追従した。
「一体いつの間に謁見の間に侵入したのでしょうか」
「解らん。解らんが⋯⋯」
ユリウスは廊下を走りながら、眉をひそめた。
「貴女を連れ去った日、ニヴィエ・デュラック嬢の入宮記録は無かった。おそらく、彼らは皇宮の隠し通路を把握している。ひとつは謁見の間に通じているから、そこから入り込んだのだろう」
「そんな」
「全く⋯⋯デュラック伯爵を潰す理由が増えたな」
ユリウスは額を押さえた。
そうこうしているうちに謁見の間の扉前まで来た。だがそこには、先客がいたのである。
ニヴィエ・デュラック──ではない。全く別の、亜麻色の髪の女性だった。
緑がかった水色のドレスローブに、身の丈より大きな立派な杖を携えた、アクアマリンの瞳の女性。線の細い儚げな美しさは、思わず支える手を差し伸べたくなるような雰囲気がある。だがぴんと伸びた背筋が、その雰囲気を薄めていた。
白い制服に白銀の鎧を着込んだ騎士ふたりを控えさせたその女性を見て、ユリウスの足が止まった。
「マリーヌ王女⋯⋯」
「ごきげんよう、皇帝陛下。お邪魔しております」
マリーヌ王女と呼ばれた女性は軽く頭を下げると、ちらりと扉を見た。
「状況は視えております。加勢しますわ」
「しかし」
「⋯⋯今はまだお話できませんが、無関係はありませんの」
マリーヌはそう言って、ちらりとミカエルシュナに視線を向けた。
「この後の交渉を少しでも有利に進めたい、わたくし側の独断だと思ってくださいませ」
「⋯⋯解った」
ユリウスは渋々頷いた後、ミカエルシュナにマリーヌを紹介した。
「ミカエルシュナ嬢、彼女はマリーヌ・ティレシス。ティレシス聖王国の第三王女であり、王神の神官でもある」
「ティレシス聖王国の⋯⋯」
ミカエルシュナは目を見開いた。
ティレシス聖王国は、アヴァロン王国時代にも存在した国だ。当時はできたばかりの小さな国で、ただの王国だった。
それが千年の間に王神ゼルヌスの主神殿が建ち、大陸でも有数の古さと伝統を持った大国に成長していた。かつてはローディウム帝国の前身の国と小競り合いをしていたが、今は同盟国のひとつとして交流しているという。
その国からの賓客がユリウスの誕生祭に合わせて来ていることは知っていたし、それが王女であることも聞いていたが、ここに来るとは思わなかった。
そもそも、視えた、とはどういうことなのか。
訊きたいことは多かったが、今はデュラック父娘の対処が先だ。ミカエルシュナは開かれていく扉を睨み付けた。
「ユリウス様!」
扉が開かれたとたん、華やかな声が一行を迎え入れた。
ほかの者など見えぬと言わんばかりにまっすぐユリウスに向かった声に、全員の顔が苦くなる。
一方声の主──ニヴィエは、ユリウスに満面の笑みを見せ、しかしその隣にミカエルシュナの姿を捉え、盛大に顔をしかめた。
「⋯⋯おまえ! なぜいるの⁉」
「陛下に助けていただきました」
ゆったりとそう答えるミカエルシュナ。更に逆隣にマリーヌがいることに気付いたニヴィエは、ヒステリックに叫んだ。
「酷いわ、ユリウス様! 私がいながらその女だけでなく、また別の女を連れて⋯⋯そんなに私の嫉妬を煽りたいの⁉」
「⋯⋯彼女は陛下の妃候補なのですか?」
「いえ、陛下ご自身が否定されています」
マリーヌの疑問に、ミカエルシュナはこそっと答えた。そうよね、と頷くマリーヌは、ニヴィエを見つめた。
「ならなぜ、彼女と横にいる男性は、玉座の傍に立っているのでしょう」
ニヴィエと男性──デュラック伯爵は、玉座にこそ座っていないものの、その傍らの檀上に立っている。そこは皇帝に近しい者しか立つことを許されない場所だ。例えユリウスが玉座にいなくとも、許可が無い限りそこにいることはできない。
当然の疑問に答えたのは、デュラック伯爵だった。
「陛下、我々デュラック家は、貴方を皇帝と認めてはおりません」
「⋯⋯ほう?」
ユリウスの片眉が上がった。
「なら貴様らが主としているのは何だというのだ。もしや貴様自身と言うのではないだろうな」
「いいえ。私は王の器ではありません。ましてや皇帝など⋯⋯ですが、我が主は王、そして皇帝にふさわしいお方です」
その言葉は、デュラック伯爵の背後に何者かがいるという証左だった。問題は、その何者がどこの誰なのかである。
「本当は、ミカエルシュナ様にはこの場にいらっしゃらないよう配慮したのですが⋯⋯致しかたありません」
デュラック伯爵はちらりとミカエルシュナを見た後、ぱちんと指を鳴らした。
とたん。
闇が、世界を支配した。




