或る魔王の日記
気がついた時には、もうぼくは『魔王様』だった。
ぼくら魔族はヒトと同じように、母親から産まれる。けれどヒトと違って、たいていの魔族には母性愛など備わっていないから、ほとんどの場合は産み捨てだ。それを薄情だと感じる心は魔族には無い。産まれた時から成体である種もいるし、そもそも幼体であっても魔族ならそれなりに生存本能くらいは備わっている。生き延びられない弱い個体だったのならそれまでだ。書物によれば、動物の一部にも普通にみられる習性との事だし。
……ペンが滑った。
つまりぼくが産まれた時、周囲にひれ伏して忠誠を誓う一群の中にぼくを産んだ母がいたはずなのだが、お互いに母だとか子だとかいう意識は持ち得なかった、というだけの話だ。
この世に誕生した瞬間からぼくは『魔王』で、ぼく以外の魔族にとっての崇拝の対象でしかなかった。
ああ、中にはね、内心で無駄に敵愾心を抱いているような奴もいたけど、それもぼくが『魔王』だから。
最初から魔王で、一欠片の努力もしなくても魔族一の魔力を持っていて、きっと最期の瞬間までぼくは魔王であり続ける。考えても仕方ない、仕方ないんだけどやっぱり考えてしまう。
――『魔王』でないぼくには何の価値もないんだろうな、と。
堂々巡りするばかりだったぼくのその考えは、ルチルと出会ったあの日にあっけなく打ち砕かれた。
ルチルは、生身のぼくを見てくれた初めての相手だった。
だからぼくもルチルの肩書など気にしない。
『勇者』だとか、『ヒト』だとか―――そんなのは些細な区分けでしかないのだ。
ルチルはルチル。ぼくの大事な、大切な、大好きなルチル。仮にこの先ルチルが、勇者であることやヒトであることを辞めたとしても、ぼくの気持ちは変わらない。
ルチルに出会えて、本当に僕は幸運だったと思う。
ところで、少々疑問がある。
ぼくは今日の授業で教育係であるオブに、日記を書け、と言われたからこうして書いているんだけど、日記というのはこういう内容で良いのだろうか?
今日一日に起こった事や感じた事、考えた事を記す―――うん、説明どおりではあるはずだけど。ぼくの考える事は大抵ルチルの事だと決まっているから、代わり映えのしない内容を毎日記録する意義がよく分からない。
本当はオブにこれを見せて正否を尋ねたい所なのだが、誰にも見せるな、と前もって言われてしまった。オブ曰く、日記というのは書いた本人以外が見る事を想定して書いてはいけないんだそうだ。
だから当然オブにも見せられない。
単純に考えれば、馬鹿正直に毎日日記を書かないで「やった」と嘘をついてもバレやしないって事だ。こんな宿題なんかさっさと放り出してルチルの所へ遊びに行こうかな。ラチアやヘリオがちょっかい掛けていたらいけないし。
……でもなんとなくオブにはバレる気がする。オブはヒトにしては鋭い。他人より視力が悪い分、聴覚が発達しているから、ぼくの声のわずかな揺らぎまでも聴き取ってしまうみたいだ。
バレたら面倒くさい。
それに、日記を書くという行為もそう悪くはない。文字の練習にもなるし、自分の内面を見つめ直す手段にもなる。すぐに飽きてしまうかもしれないけど、しばらくの間は習慣として続けてみる事にする。
そうそう。それから、この日記は一ページ書き終えるごとに破り取って燃やしてしまおうと思う。
それなら後で読み返して赤面する事もないし、何よりぼく以外の誰にも見られないだろう。うん、我ながらいい考えだ。
だから正直に書いておく。万が一にも他人に見られないようすぐに破棄する予定だから、ここにだけ、今本当の気持ちを記しておく。
ぼくはルチルを食べたい。
ルチルの甘い香り、柔らかな肢体、すべらかな肌、さらさらの髪――その総てが好きだ。
あの細い喉を食い破って溢れ出る血潮を啜り尽くしたら、どんな味だろう。熱いだろうか。甘いだろうか。肉は。骨は。ルチルの身体はどんな歯応えで、どんな喉ごしで、ぼくを魅了するだろうか。
想像しただけで物凄くそそられる。
ルチルのほんの小さな一片までも全部自分のものにしたくてたまらない。
ああ、でもぼくはちゃんと分かってもいる。
一口でも食べてしまったらそこでお終いだ。ぼくの好きなルチルは消えてなくなる。
優しい笑顔も、暖かな抱擁も、穏やかな眼差しも、心癒される口付けも、二度とぼくには向けてくれなくなってしまう。
恐ろしい。それは魂の飢えだ。
胃袋の飢えは他の物で満たすことが出来る。鳥とか、ウサギとか……肉、野菜、穀物、果物。ルチルの作るタルトでもいい。甘いベリーの香りよりルチル本人の方がよっぽど美味しそうな匂いを放っていたとしても、違うもので満腹にしておけばこの衝動を誤魔化す事は可能だ。
でも、ルチルがいなければ。ぼくをぼくとして見てくれるあの瞳を見ることが、愛おしげにぼくの名を呼ぶあの声を聞くことが、叶わないというのなら。
魂が、飢える。未来永劫に餓える。ぼくは深い深い飢餓の谷底に叩き落されるだろう。
ぼくはルチルが大好きだ。
初めて会ったあの日から、自分の真の名を教えてしまうくらいに特別で、唯一の存在。
与えられたその権利にルチルはいまだ気が付いてはいないみたいだけど、いつか真の名を、想いを込めて呼んでもらえるだろうか。それがぼくの腕の中で甘くすすり泣きながらだったら最高なんだけど。
だから、誓う。絶対に――――――ぼくはルチルを食べない。
アレク、1歳前後の、失われた日記より。