制服から始まる政治参加.
鈴木麗奈は、勉強が嫌いだった。
嫌いというより、必要性がよく分からなかった。
数学の方程式を解いていると、
――これ、大人になっていつ使うの?
と思うし、古文を読んでいると、
――昔の人、普通に現代語で書いてくれればよかったのに。
と思う。
そんなことを言うと先生には怒られるので、最近は黙っている。
来年から高校生だった。
当然、その前には高校受験が待っている。
志望校はすでに決めていた。
理由も明確だった。
制服がかわいい。
以上である。
母親から、
「高校って制服だけで決めるものじゃないからね」
と言われたが、
「3年間着るんだから、むしろ超重要じゃん」
と返した。
麗奈としては十分な理由だった。
付き合っている彼氏も、
「俺も同じ高校行こうかな」
と言っていた。
それには、
「えー、まだうちも悩んでるし」
と答えていた。
本当は、ほぼ決めている。
ただ、同じ高校へ行く約束まではしたくなかった。
彼氏のことが嫌いなわけではない。
優しいし、話していて楽しい。
ただ、高校へ行けば、今よりかっこいい男子がいるかもしれない。
――普通にいるでしょ。
麗奈は、なんとなくそう思っていた。
ベッドに寝転びながら、スマートフォンを開いた。
SNSの通知がいくつか来ている。
友達から送られてきた動画。
クラスのグループ。
部活の先輩からのメッセージ。
その中に、知らないアカウントからの友達申請が1件あった。
「誰、これ」
プロフィールを見る。
同年代らしい写真が載っている。
だが、本物かどうかなど分からない。
「はい、無視」
麗奈は閉じた。
学校でも、知らない人からの友達申請には応じないよう、何度も注意されている。
実際、別のクラスの女子がSNSで知り合った相手と会い、危ない目に遭ったという話もあった。
詳しいことは先生も教えてくれなかったが、それ以来、学校の注意は厳しくなった。
私立中学の中には、生徒のSNS利用そのものを校則で禁止しているところもあるらしい。
麗奈には、それが理解できなかった。
「いや、禁止は無理でしょ」
誰もいない部屋でつぶやいた。
親に言えないことなど、いくらでもある。
むしろ、中学生くらいになれば、親に言いたくないことのほうが増える。
友達と喧嘩した。
彼氏とうまくいかない。
クラスで浮いている気がする。
自分だけ誘われなかった。
理由は分からないが、どうしようもなく落ち込む。
そんなことを全部母親に相談するわけにはいかない。
母の沙羅とは仲が悪いわけではない。
むしろ、友達からは、
「麗奈んちのお母さん、話分かってくれそうでいいよね」
と言われる。
それでも母親は母親だった。
友達にしか話せないことはある。
1人で抱え込むより、SNSで友達に、
『マジ無理』
と送って、
『わかる』
と返してもらうだけで救われることだってある。
だからSNSを全部禁止するという発想は、麗奈には乱暴に思えた。
*
その話を学校で聞いたのは数日後だった。
「ねえ、聞いた?」
休み時間、友人が麗奈の机まで来た。
「なに?」
「うちら、SNS禁止になるらしいよ」
「は?」
麗奈は顔を上げた。
「市の条例で」
「なにそれ。意味わかんない」
「親がスマホからアプリ消さなきゃいけなくなるんだって」
「え、インスタも?」
「全部じゃない?」
「動画のやつも?」
「多分」
「グループチャットは?」
「知らん」
「いやいやいや、マジで無理なんだけど」
麗奈の声が大きくなり、前の席の男子が振り返った。
友人は声を落とした。
「しかもさ、街で警察にスマホ見られてSNS入ってたら、親に連絡いくとか聞いた」
「え、なにそれ。うちら犯罪者?」
「たばこと同じ感じになるんじゃない?」
「いや、さすがにヤバくない?」
どこまで本当なのかは誰も知らなかった。
先生に聞いても、
「まだ決まった話ではありません。噂だけで騒がないように」
と言われただけだった。
だが「まだ決まっていない」という部分より、「そういう話が出ている」という部分のほうが麗奈には重要だった。
***
帰宅するころには、クラスのSNSでもその話でもちきりになっていた。
麗奈は玄関を開けるなり言った。
「ママー!」
リビングから声がする。
「なによ、帰ってきて第一声それ?」
鈴木沙羅はソファに座って、仕事用のタブレットを見ていた。
「ちょっと聞いて。これマジでヤバい案件なんだけど」
「なに。テスト?」
「それならヤバくても放っといて」
「それは放っとけないでしょ」
「そうじゃなくて。SNS禁止になるんだって」
沙羅が顔を上げた。
「誰が?」
「うちら」
「うちらって?」
「中学生」
「日本全国?」
「市で」
「条例?」
「そう。それで親がアプリ消さなきゃダメになるらしい」
「へえ」
沙羅の表情が少し変わった。
麗奈は一気に話した。
「しかも警察にスマホ見られて、SNS入ってたら親に連絡くるとか。マジで意味わかんなくない? うちら別に悪いことしてないじゃん」
「ちょっと待って。警察が街でスマホ見るって、それ誰情報?」
「友達」
「その子は?」
「友達から聞いたって」
「はい、もう怪しい」
「でも条例の話はホントらしいよ」
「分かった。そこはママが調べる」
麗奈はほっとした。
「お願い。これ普通にママ案件だから」
「なに、そのママ案件って」
「ママ、テレビとかでこういうの喋るじゃん」
「便利に使うなあ」
「だってママこういうの得意じゃん」
「まあね」
沙羅は少し笑った。
麗奈は昔の母を写真でしか知らない。
派手な髪。
濃いメイク。
大きなアクセサリー。
10代のころはかなり目立つタイプだったらしい。
その後、芸能活動を始め、結婚して子供を産んでからは、育児や教育について話すことが増えた。
いまではテレビ番組で「ママ世代代表」のような立場で呼ばれることも多い。
本人は、
「勝手に代表にしないでほしいんだけどね」
と言っていたが、意見を求められるのは嫌いではなさそうだった。
*
「さて、と」
娘が自室へ戻ったあと、沙羅はVOICEを開いた。
「SNS禁止条例……」
検索する。
すぐに出てきた。
すでに複数のスレッドが立っている。
「早いなあ、みんな」
一番賛同数の多いものを開く。
市役所からすでに説明が掲載されていた。
沙羅は読み進めた。
「ほら、やっぱり話盛られてるじゃん」
SNS禁止条例は正式決定したものではなかった。
市議会の一部会派が、子供のSNS利用を制限する条例案を検討している段階にすぎない。
しかも警察官が街頭で子供のスマートフォンを無作為に確認する、といった内容は現時点の案には含まれていなかった。
おそらく、
保護者に子供の利用状況を把握する努力義務を課す
という案が、子供たちの間を伝わるうちに、
警察に見つかったら親へ連絡される
へ変わったのだろう。
「伝言ゲームって怖いわ」
沙羅はつぶやいた。
もっとも、条例案そのものにも議論は多かった。
子供がSNSを通じて犯罪に巻き込まれる。
誹謗中傷。
いじめ。
長時間利用。
睡眠不足。
学力への影響。
そうした問題が増えているとして、一定の制限を求める意見があった。
一方で、
禁止しても別のサービスへ移るだけではないか。
子供同士の相談手段まで奪うことになる。
家庭ごとの事情を行政が一律に決めるべきではない。
という反対意見も並んでいた。
海外では、一定年齢未満のSNS利用を法律で制限したり、事業者側に年齢確認や保護機能を義務づけたりする国もある。
沙羅もニュースで何度か扱ったことがあった。
ただし、子供たちは大人が思う以上に抜け道を見つける。
年齢を偽る。
別サービスへ移る。
友人や家族のアカウントを使う。
規制だけで解決するのは難しい、という専門家の話も覚えていた。
「禁止、禁止って言ってもねえ……」
沙羅はコメントを読み続けた。
そして、ふと指を止めた。
「ん?」
VOICEのコメント欄では、住民同士が意見を交換している。
ある人が、
『禁止より、安全なSNSを行政で用意できないのでしょうか』
と書いていた。
「……これさ」
沙羅は画面を見ながら考えた。
「VOICE、ちょっと変えればSNSみたいに使えるんじゃない?」
独り言だった。
現在のVOICEは、原則として18歳以上の有権者が政治参加に使う仕組みだった。
しかし本人確認の技術そのものは、子供にも使える。
子供にもマイナンバーカードはある。
本人確認された子供専用アカウントを作る。
1人につき一つ。
裏アカウントは作れない。
年齢も確認されている。
知らない大人が子供のふりをして入り込むのも難しい。
「これ、結構いいんじゃない?」
沙羅はだんだん乗ってきた。
知らない人物から突然友達申請が来ても、運営側では本人が確認されている。
明らかなつきまといや性的な接触があれば、記録も残る。
必要なら警察につなぐこともできる。
もちろん、友人同士のいじめは残る。
本人確認されていても、人は人を傷つける。
だが、公共システムならば、一定の安全対策を最初から組み込める。
AIが常時すべての会話を人間へ知らせるのではなく、自傷を示唆する言葉や執拗な脅迫、性的な誘いなど、重大な危険が疑われる場合だけ安全確認へ回す。
誰が見るのか。
どこまで介入するのか。
それは慎重に決める必要がある。
だが、少なくとも、
「危険だからSNSを全部禁止する」
以外の選択肢にはなる。
「こっちのほうが現実的じゃん」
沙羅はVOICEのコメント欄を開いた。
テレビ出演で鍛えられた癖なのか、頭に浮かんだことを、人に伝わる形へまとめるのは早かった。
文章を打った。
『子供のSNSを禁止するだけではなく、VOICEを使って本人確認された子供向けの安全なコミュニケーション機能を作れないでしょうか。1人1アカウントなら、なりすましや悪質な大人の侵入も減らせると思います。危険なやり取りだけAIが検知して専門部署につなぐ仕組みも検討できるのではないでしょうか。』
*
「こんな感じかな」
投稿した。
数分後、反応がついた。
さらにコメントが増えた。
『これ賛成です。グループチャットくらいなら簡単に作れそう。』
『子供だけじゃなくて保護者用も欲しいです。学校の連絡網で私用SNSを使うのが嫌です。先生に個人アカウントを知られたくありません。』
『部活やPTAもVOICEにまとめられたら便利そう。』
別の人からは慎重な意見も出た。
『政府が子供の会話を見る仕組みになるのは怖いです。監視範囲は相当厳しく制限すべき。』
沙羅はそれにも「その点は重要だと思います」と返信した。
そして、こんなコメントもあった。
『そもそも今ここでやっている住民同士の会話って、市役所への要望とは直接関係ないですよね。住民同士で話す場所を別に作ったほうが、役所の担当者も楽なのでは。』
「あ、それ」
沙羅は声を出した。
確かにそうだった。
VOICEの本来の目的は、住民から行政へ意見を届けることだ。
ところが利用者が増えるにつれ、行政への要望とは関係のない議論がコメント欄で始まっている。
利用者同士で、
「その案いいですね」
「ここを変えたらどうですか」
「うちの地区でも困っています」
と話し合う。
いつの間にか、VOICEのコメント欄そのものが小さなSNSのようになっていた。
しばらくすると、1人の利用者が書き込んだ。
『この話、独立した要望にしませんか。私がスレッドを作ります。』
数分後、新しいスレッドが立った。
題名は、
『VOICEに住民同士のコミュニケーション機能を追加し、国へ制度改修を要望してほしい』
だった。
「早っ」
沙羅は笑った。
当然、賛同した。
*
数日後、そのスレッドは市の回答基準を超えた。
市役所からコメントが入る。
市が独自にVOICEの基本機能を変更することはできない。
しかし、住民からこうした要望が寄せられていることについては、VOICE運営主体および国へ正式に伝える。
そういう回答だった。
沙羅は娘に見せた。
「ほら。ママ、動かしたよ」
「え、マジ?」
麗奈は画面を覗き込んだ。
「まだ何も決まってないけどね」
「でも国に言ってくれるんでしょ?」
「そうみたい」
「ママ、普通に強くない?」
「今ごろ気づいた?」
「いや、そういうとこだけは前から思ってた」
「そういうとこだけ?」
沙羅が睨む。
麗奈は笑いながら逃げた。
「でもさ、VOICEで友達と話せるなら、それ結構アリかも」
「でしょ?」
「でも親に全部見られるのは無理だからね」
「見ないわよ」
「ママは見るじゃん」
「見ないって」
「絶対見るタイプじゃん」
「失礼ね」
「だってママだもん」
2人の言い合いは、しばらく続いた。
*
海翔は、この話を父のノートから卒業論文作成環境へ整理しながら、何度か手を止めた。
ここは重要だった。
おそらく、VOICEの歴史の中でも大きな転換点の一つである。
それまでVOICEは、基本的に、
市民から行政へ
声を届けるためのシステムだった。
市民が要望する。
行政が答える。
必要に応じて市民が再び意見を述べる。
つまり、縦の関係である。
ところがコメント機能を使っているうちに、
市民と市民
が話し始めた。
横の関係が生まれた。
これによって、VOICEの性質は大きく変わった。
海翔は論文に書き込んだ。
VOICEは行政への意思表明基盤として設計されたが、利用者間の対話が活発化したことにより、公共コミュニケーション基盤としての性格を持つようになった。
実際、その後、政府は利用者からの要望に押されるような形で、VOICEへ市民同士の交流機能を追加することになる。
導入時にはかなり議論があった。
最大の論点の一つは、民業圧迫だった。
国が税金を使ってSNSを運営すれば、民間SNS企業の事業を奪うことにならないか。
政府内にも慎重論があった。
最終的にVOICE側は、機能を意図的に限定した。
《短い文章。》
《グループ。》
《公開・非公開の議論スペース。》
《最低限のファイル共有。》
その程度にとどめる。
《華やかなスタンプ。》
《高度な動画編集。》
《動画配信。》
《広告。》
《人気投稿者への収益分配。》
《娯楽目的の音声・映像通話。》
そういった機能は原則として民間サービスに任せた。
VOICEは、
安全に本人同士が話せる場所
に徹したのである。
それでも、匿名性を重視する利用者にはVOICEは向かなかった。
VOICE上では表示名を仮名にすることはできても、運営側には必ず本人が分かる。
完全匿名ではない。
そのため、匿名文化を好む人や趣味の交流を楽しみたい人は、従来通り民間SNSを利用した。
結果として、一定の住み分けは成立した。
しかし、本当の問題はそのあとに起きた。
海翔はそこに注目した。
民間企業のSNSであれば、利用規約は基本的に企業が決める。
どんな投稿を削除するのか。
どこまで表現を認めるのか。
アカウントを停止する条件は何か。
気に入らなければ、利用者は別のサービスへ移ることができる。
しかしVOICEは公共システムだった。
国民が税金で維持し、政治参加にも使っている。
では、その空間のルールを誰が決めるのか。
例えば、
政治家を「無能」と書くことは批判なのか、中傷なのか。
同じ内容を1日に100回投稿すれば、政治活動なのか、迷惑行為なのか。
差別的な表現はどこまで禁止するのか。
何度も違反した利用者を一時停止してよいのか。
政治参加に使うシステムでアカウント停止を行うことは、参政権の制約にならないのか。
それぞれに異なる意見がある。
ある利用者にとって望ましいルールが、別の利用者には不当な制約になる。
つまり、VOICEの中に、
利害対立
が生まれた。
そして、その利害を調整しなければならなくなった。
海翔はキーボードを打つ手を止めた。
「……これ、もう政治そのものじゃないか」
つぶやいた。
当初、VOICEの利用規則は政府と運営組織が決めていた。
それが当然だった。
サービスを作った側がルールを決める。
しかしVOICEは、利用者が行政へ要望を伝えるためのシステムでもある。
だから利用者は、VOICEそのもののルールについてもVOICEで要望を出し始めた。
『投稿削除基準を公開してください。』
『アカウント停止はAIだけで判断しないでください。』
『異議申し立て制度を作ってください。』
『利用規約を変えるときは利用者の意見を聞くべきです。』
そうした要望が相次いだ。
政府が回答する。
しかし納得しない人々がいる。
さらに議論が続く。
そこで、
では利用者自身に投票してもらえばいいのではないか。
という話が出る。
しかし単純多数決だけでは、少数者の権利が危うくなる。
ならば、変更案について市民に議論してもらう場を作る。
専門家の説明を聞く。
賛成派と反対派の双方から意見を聞く。
そのうえで投票する。
そうしてVOICEには、後に、
投票機能
と、
市民会議支援機能
が実装されていく。
*
海翔は一度、椅子から背中を離した。
父たちはもともと、国民が政治へ参加するための仕組みとしてVOICEを構想した。
ところが実際の発展は、少し違った。
政治制度を作ろうとして投票機能が生まれたのではない。
人々がVOICEの中で話すようになり、
その話し合いのルールを誰が決めるのか
という問題が起きた。
その問題を解決するために、民主的な意思決定機能が必要になったのである。
海翔は論文に一文を書き加えた。
VOICEは政治参加のために民主化されたのではない。巨大な公共空間となった結果、その空間を運営するために民主化を必要としたのである。
しばらく眺めた。
「ここだな……」
海翔には、ここが大きな分岐点に思えた。
電子署名をするためだけの道具なら、VOICEはここまで巨大にならなかったかもしれない。
行政へ要望を伝えるだけの道具でも、まだ政府が管理する一つの行政システムでいられた。
だが、人々がVOICEの中で話し始めた。
そして、自分たちが使う場所のルールを、自分たちで決めたいと言い始めた。
その瞬間からVOICEは、単なるシステムではなくなった。
小さな社会になった。
そして社会ができれば、そこには必ず政治が生まれる。
後から振り返れば、VOICEに投票機能や市民会議が組み込まれていく未来は、この時点ですでに決まっていたのかもしれない。




