地方で便利すぎた仕組み
海翔は、論文の続きを書き始めた。
VOICEは、最初から国全体を対象にした制度ではなかった。
本格運用が始まった2030年当初、その対象は地方自治体に限られていた。
市区町村や都道府県に対して住民が要望を出す。
条例や行政サービスについて意見を集める。
既存の政策に一定数の反対が集まれば、自治体側に再検討や説明を求める。
それが当初のVOICEだった。
ところが、運用開始から1年ほどすると、国に対する要望も受け付けるようになる。
海翔は、この1年という空白が以前から少し気になっていた。
技術的にできなかったとは考えにくい。
自治体への要望と国への要望で、システムの基本構造がまったく違うわけではない。
ならば最初から国も対象にしておけばよかったはずだ。
父のノートにも、そのことについての記述があった。
グリフは、国が意図的に対象を地方自治体に限定したのではないかと考えていたらしい。
地方自治体であれば、失敗しても影響は限定される。
自治体ごとに違う運用を試しながら、問題があれば修正もできる。
それは表向きの説明としても十分合理的だった。
しかし父は、もう一つ理由があると考えていた。
VOICEが国政へ入り込むことへの警戒である。
もし国民がVOICEを使って、法律や予算、外交、安全保障、社会保障制度にまで直接意見を出すようになれば、政府や国会が持っている権限に影響する。
どこまで発展するのか、当時は誰にも分からなかった。
だから、まず地方で試す。
便利な行政サービスの一つとして定着するのを見ながら、国への導入は先送りする。
父のノートには、少し意地の悪い書き方でこう残されていた。
「地方で便利なら褒められる。国で便利すぎれば困る人がいる」
海翔はその一文に苦笑した。
「親父、このころから政治家に厳しいな……」
ただ、父が集めていた記録を読むと、国へのVOICE導入は、政府が積極的に推進したというより、地方で使っているうちに避けられなくなったようにも見えた。
そのことを示す、小さな話が残っていた。
*
北松市役所に勤める川越は、仕事を終え、自宅へ向かって車を走らせていた。
「疲れた……」
赤信号で止まったところで、思わず声が出た。
34歳。
北松市役所に入って12年になる。
現在の担当はVOICEだった。
正式な所属名は市民協働推進課VOICE対応係。
といっても、専任職員が大勢いるわけではない。
実質的な担当は川越と、もう1人の職員の2人だった。
北松市は人口23万人ほどの中核市である。
VOICEを導入してから、まだ半年しか経っていない。
導入前には、
「電子署名なんて、そんなに使われないでしょう」
という意見が庁内でも多かった。
川越自身も、似たようなものだと思っていた。
ところが始まってみると、ほぼ毎日、新しいスレッドが立った。
道路。
公園。
ごみ収集。
保育園。
学校給食。
図書館。
バス路線。
街灯。
騒音。
イベント。
市役所の窓口時間。
本当にいろいろなものが出てくる。
中には、
「駅前の飲食店に入ろうとする車が邪魔なので何とかしてほしい」
という要望もあった。
読んだ川越は思った。
――それ、半分くらい店に言ってくれないかな。
市役所でどうにかできることと、できないことがある。
民間施設の駐車場へ入る車列によって道路が混雑しているとしても、市が店の営業方法を自由に変えられるわけではない。
警察の管轄が関係する場合もある。
道路管理者が別の場合もある。
それでもVOICEには書くことができる。
もっとも、そうした要望の大半は賛同者がほとんど集まらず、そのまま埋もれていった。
北松市では、300人以上の賛同を集めた要望について、市側が原則として回答することになっている。
だから300未満なら放置していい、というわけでもなかった。
賛同数が270、280と増えている案件については、
――これはそろそろ来るな。
と、担当部署に確認を始める。
300票を超えてから調査を始めたのでは、回答期限に間に合わないことがあるからだ。
VOICE導入直後、北松市の回答基準は100票だった。
しかし、それではあまりにも対象案件が多くなった。
最初の1か月で担当部署から悲鳴が上がった。
「こんなの全部答えてたら通常業務できないですよ」
川越自身もそう思った。
そこで150。
200。
最終的に300まで引き上げられた。
自治体によって方式はかなり違うらしい。
人口1万人の町と100万人の都市で、同じ300票を基準にするわけにはいかない。
有権者数の一定割合で設定している自治体もあれば、
「1週間に寄せられた要望のうち、賛同数上位5件には必ず回答する」
という方式を採用しているところもある。
その自治体なりの工夫が始まっていた。
問題は、回答するだけでは終わらないことだった。
VOICEには、行政からの回答後に、住民がさらにコメントを書き込める機能がある。
導入直後の北松市は、一つ一つのコメントへ職員が回答していた。
すぐに無理だと分かった。
市が一度回答すると、
「では、なぜ隣の地区ではやっているのですか」
「予算がないと言いますが、具体的にいくら必要なのですか」
「来年度ならできますか」
「担当課は本当に現場を確認したのですか」
と、次々に質問が来る。
しかも10人が少しずつ違う言葉で、ほとんど同じことを聞いている場合もある。
そこで今はAIを使っていた。
住民から寄せられた数百件のコメントを分類し、
予算についての質問 128件
安全性についての質問 76件
実施時期についての質問 51件
といった形にまとめる。
そのうえで代表的な質問を生成し、担当部署が一括して回答する。
いまでこそVOICEの管理画面から直接できる。
だが、ほんの数か月前までは違った。
一度コメントをファイルで書き出す。
別の行政用AIに読み込ませる。
要約させる。
それをVOICEへ戻して回答を書く。
「めんどくさかったよなあ……」
川越は思い出した。
ところが最近のアップデートで、その機能がVOICEそのものに組み込まれた。
更新通知が来て、翌週には使えるようになっていた。
最近のコンピュータシステムは、本当に変化が速い。
川越が市役所へ入ったころとは感覚が違う。
テレビでは、AIによる設計支援や自動テストが普及したことで、業務システムの開発期間が10年前の半分以下になったという話をしていた。
特にテスト工程の自動化が大きいらしい。
仕様を追加すると、AIが既存機能への影響を調べ、膨大なテストを自動生成して実行する。
人間は結果を確認し、危険な部分だけ詳しく見る。
だから機能追加の速度が以前とは比較にならない。
VOICEは国が関与しているシステムなので、普通なら民間サービスより慎重で、変更も遅そうなものだ。
ところが実際には妙に速かった。
――最初から作ってあったんじゃないか?
と疑いたくなるほどである。
ある日の職場で、隣の席の同僚がぼやいたことがあった。
「コメントの一次回答くらい、AIが勝手にやってくれないですかね」
「それやったら、AIが失言して炎上したとき誰が責任取るんだよ」
「川越さんで」
「なんで俺なんだよ」
2人で笑った。
VOICEの管理画面には、運営側へ機能改善を要望するための項目もある。
同僚は本当に、
『行政回答案のAI自動作成機能』
と書いて送ったらしい。
そのうち本当に実装されるかもしれない。
*
川越は北松市には住んでいなかった。
実家は隣の舞山市にある。
30をいくつか過ぎても親と暮らしていることについて、たまに職場でからかわれた。
「川越さん、そろそろ1人暮らししたらどうです?」
そう言われることもある。
自分でも、ときどきそう思う。
だが、実家は楽だった。
食事は母親が作ってくれる。
洗濯もしてくれる。
家賃もほとんどかからない。
1人暮らしをして、仕事から帰って料理をし、洗濯をして掃除をすることを考えると、どうにも面倒だった。
その分、趣味にも時間を使える。
――まあ、そのうちでいいか。
その「そのうち」が、何年も続いていた。
あと10分ほどで家に着く。
そう思ったところで、いつもの交差点が見えてきた。
「ああ……今日もか」
車列が伸びていた。
川越はため息をつく。
舞山市でも有名な渋滞地点だった。
幹線道路同士が交わる大きな交差点で、朝夕はいつも混む。
しかも今日はひどかった。
1回目の青信号で、ほとんど進まない。
2回目。
3回目。
「またかよ……」
結局、交差点を通過するまで15分近くかかった。
子供のころから同じだった。
父親の車に乗っているときも、ここでよく渋滞した。
当時から、
――立体交差にすればいいのに。
と思っていた。
だが、大人になって役所で働くようになると、それが簡単な話ではないことも分かった。
用地買収。
工事費。
騒音。
周辺住民への説明。
何十億円、場合によってはそれ以上かかる。
だから今日まで、そのままなのだろう。
ようやく家に着いた。
車を車庫へ入れ、エンジンを切る。
普段ならそのまま家に入るところだった。
しかし今日は、運転席に座ったままスマートフォンを取り出した。
「さすがに今日はひどい」
VOICEを開く。
川越は仕事柄、VOICEを見ること自体は多かった。
だが自分の住む舞山市で、積極的に賛同したり、新しいスレッドを立てたりすることはほとんどない。
何となく気が引けたのである。
自分も毎日、住民から届く要望に追われている。
だから、
――俺が1票入れたら、舞山市の担当者の仕事を増やすんだよな。
と考えてしまう。
職業病だった。
今日は、それでも検索した。
交差点名を入れる。
すぐに出てきた。
『○○交差点の慢性的な渋滞を改善してほしい』
「やっぱりあるよな」
開いてみる。
提案者も、いきなり立体交差を作れとは書いていなかった。
内容はかなり現実的だった。
立体交差化には巨額の費用が必要なことは理解している。
まずは交差点の一角に用地を確保して左折車を本線から分離し、交通島を設けた左折専用路にすることはできないか。
それだけでも本線の滞留を減らせるのではないか。
必要であれば、右折レーンの延伸や信号制御の変更も含めて検討してほしい。
川越は少し感心した。
「ちゃんと考えてるじゃん」
仕事で住民要望を読んでいると、
「税金で何とかしろ」
だけのものも少なくない。
だが、この投稿者は予算の制約まで考えている。
賛同数を見る。
1,184
「結構いってるな」
舞山市では1,000票を超えると、市から詳細回答が出る。
*
すでに回答済みの表示があった。
川越は下へスクロールした。
市のコメントを読む。
要約すれば、
『当該交差点を通る道路は国が管理する国道であり、市には道路構造を変更する権限がないため、市として対応することはできません。』
というものだった。
川越は眉をしかめた。
「……この書き方はまずいだろ」
内容そのものは間違っていない。
国管理の道路なら、市が勝手に車線を増やすことはできない。
だが住民が知りたいのは、
誰の管轄なのか
だけではない。
では、どうすれば改善できるのか
である。
市ができないなら国へ要望する。
道路事務所と協議する。
交通量調査を求める。
市として必要性を認めるのかどうか示す。
少なくとも、そういう説明が必要だった。
嫌な予感がして、住民コメントを開いた。
予想通りだった。
「国の道路なのは分かった。それで市は何もしないのですか?」
「住民は国道か市道かなんて意識して生活していません」
「毎日渋滞していることは市も知っていますよね」
「では、国へ直接VOICEで要望する方法を教えてください」
最後のコメントを読んで、川越の指が止まった。
「……そうなるよな」
現時点では、その方法がない。
VOICEは自治体向けだからだ。
川越はさらにコメントを読む。
「舞山市、これダブルチェックしてないのか?」
北松市では、VOICEへ正式な回答を掲載する前に、最低でも川越と同僚の2人で文章を確認する。
内容によっては担当課の課長にも見せる。
文章が誤解を招かないかはAIにもチェックさせる。
それでも時々揉める。
自治体によって、回答体制はかなり違っていた。
VOICE上の行政回答には、一つ厄介な決まりがある。
一度正式回答として公開した文章は、原則として削除できない。
もちろん明確な誤字などには訂正表示を付けられる。
しかし、都合が悪くなったから全文を消すことはできない。
行政の回答を読んだ住民が、それを前提にコメントを書いているからだ。
元の回答が消えてしまえば、その後の議論が何について行われたのか分からなくなる。
一方、住民個人のコメントは本人が削除できる。
行政と住民では責任が違う、という考え方だった。
しばらくすると、舞山市から2回目の回答が掲載されていることに気づいた。
川越は開いた。
最初の説明が不十分であったことへの謝罪。
市としても当該交差点の渋滞を問題として認識していること。
過去の交通量調査の結果。
そして、VOICEで寄せられた賛同数と住民意見を取りまとめ、国の道路管理機関へ改善要望を提出すること。
必要であれば周辺自治体とも協議すること。
そこまで書かれていた。
「まあ……この辺が落としどころだよな」
川越はうなずいた。
担当者も最初の回答を出したあと、相当怒られたのだろう。
同業者として少し同情した。
川越は初めて、そのスレッドの、
賛同する
をタップした。
続いてコメント欄を開く。
少し考えてから入力した。
『市だけで解決できないことは理解しています。国への要望まで対応していただけるとのことで、担当の方には大変だと思いますが、よろしくお願いします。』
送信する。
「これくらい書いてもいいだろ」
川越はスマートフォンを閉じかけた。
*
しかし、何かが引っかかった。
もう一度、画面を見る。
1,185人。
これは舞山市の住民による賛同数だった。
VOICEでは原則として、自分が住んでいる自治体の案件にしか正式な賛同票を入れられない。
川越は思った。
――でも、この道路を使っているの、舞山市民だけじゃないよな。
北松市。
周辺の町。
通勤で毎日通る人。
運送会社のトラック。
営業車。
観光客。
市外から病院へ通っている人。
実際には、この交差点に困っている人はもっと多いはずだ。
だが、その人たちの声は数字に入らない。
行政区域という線と、人々の生活圏は一致していない。
それまでは当たり前すぎて、川越も特に疑問に思わなかった。
住民サービスは、その自治体の住民に対して行うものだからだ。
しかし道路は市境で切れない。
電車も切れない。
川も切れない。
環境問題も、医療圏も、通勤圏も、市町村の境界線どおりには動いていない。
「これ、不満出るだろうな……」
そして先ほどのコメントを思い出した。
『では、国へ直接VOICEで要望する方法を教えてください。』
現状では、ない。
だがシステム上できないわけではないはずだ。
本人認証はすでにできている。
自治体ごとに利用者を振り分けているなら、国向けの受付先を一つ追加すればいい。
少なくとも川越のような素人から見ると、そう難しいことには思えなかった。
本当の問題はシステムではない。
受け取った要望を誰が読むのか。
どの省庁へ振り分けるのか。
何票集まったら回答するのか。
国会案件と行政案件をどう分けるのか。
何十万、何百万という要望が届いたとき、誰が責任を持つのか。
人的な運営体制のほうだった。
「まあ、でも……」
川越は独り言を言った。
「そのうち国もやるんだろうな」
自治体だけで止めておくほうが、むしろ不自然に思えた。
舞山市が国へ要望を出す。
その要望にはVOICEの賛同数が添付される。
そして国側は、
舞山市民1,000人以上から要望があった
という資料を受け取る。
ならば最初から、国がVOICEで受け取ればいい。
そう考える人間は、川越だけではないだろう。
川越はそのまま、舞山市のほかのスレッドを眺め始めた。
自分と同じVOICE担当者が、どんな文章で住民に回答しているのか。
良い書き方があれば、北松市でも参考にしようと思った。
道路の渋滞から始まった不満は、いつの間にか仕事の勉強に変わっていた。
***
海翔は、そこで父のノートから顔を上げた。
この川越という市職員が実在したのかは分からない。
父の記録には名字しか書かれていなかった。
複数の出来事を一つにまとめた話なのかもしれない。
しかし、制度の変化としては分かりやすかった。
VOICEが自治体だけで使われている限り、市境を越える問題には必ずぶつかる。
道路。
鉄道。
河川。
災害。
感染症。
環境。
電力。
物流。
そして当然、国の法律や制度。
一つの自治体では解決できない問題のほうが、社会には多い。
自治体VOICEが便利になればなるほど、
「なぜ国には同じことができないのか」
という疑問が出てくる。
海翔は論文作成画面に文章を打ち込んだ。
VOICEの国政への拡張は、制度設計者が当初から描いていた計画というより、地方での利用拡大によって生じた必然的要求であったと考えられる。
少し読み返す。
堅い。
論文だから仕方がないと思ったが、その下にメモとして別の文章を残した。
人々は、市役所に声が届くことを知った。すると次に、「なぜ国には届かないのか」と考え始めた。
「多分、こっちなんだろうな」
海翔はつぶやいた。
父のノートを見る限り、国は最初、VOICEを地方自治体の中だけに閉じ込めようとしていた。
だが地方で成功すればするほど、その壁を維持する理由は弱くなる。
VOICEが国へ広がったのは、地方で失敗したからではない。
逆だった。
地方で便利すぎたからだった。




