↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/32

最初の1票

 奈津子は、子供を保育園に預けるため、自転車を漕いでいた。

 いつもの朝だった。

 いや、いつもより少しだけ慌ただしい朝だった。

 家を出てから、保育園に持っていく着替え袋を玄関に置き忘れたことに気づき、一度家まで引き返している。

 子供を送り届けたあとには、そのまま駅へ向かい、会社へ行かなければならない。

 時計を見るたびに、気持ちだけが焦った。

「もう、なにこれ。邪魔じゃない」

 思わず声に出た。

「ママ、どうしたの?」

 後ろの子供用シートに座っていた息子が、心配そうに聞いた。

「なんでもない。ちょっと草がね」

 奈津子は速度を落とした。

 走っていたのは、自転車専用レーンだった。

 道路の端を色分けした細いレーンで、普段ならそのまま真っすぐ走ることができる。

 ところが、道路脇の植え込みから伸びた雑草が大きく張り出し、自転車レーンの3分の1ほどを塞いでいた。

「また伸びてる……」

 数日前にも気になっていた。

 だが今日は特にひどい。

 一度止まり、歩道側へ逃げようとしたが、植え込みが続いていて入り込む隙間がない。

 そのまま進めば、草が腕や服に当たる。

 朝露も残っているようだった。

 これから会社に行くというのに、ブラウスを濡らしたくはない。

 かといって草を避けるには、自動車が走る側へ少し膨らまなければならない。

 子供を乗せている。

 奈津子は後ろを振り返った。

 車が何台も通り過ぎていく。

「ちょっと待っててね」

「うん」

 奈津子はしばらくその場で待った。

 車の流れが途切れる。

 ようやく道路側に少し膨らみ、草の前を迂回した。

 かかった時間は、1分ほどだっただろう。

 実際には大した時間ではない。

 事故に遭ったわけでもない。

 服が汚れたわけでもない。

 ただ、急いでいる朝の一分は妙に長く感じた。

「毎年これなんだよなあ……」

 奈津子はそうつぶやいて、再び自転車を漕ぎ始めた。

 保育園に着くと、息子を先生に預けた。

「いってらっしゃい、ママ」

「はいはい。行ってきます」

 手を振る息子に笑い返し、そのまま駅へ向かった。

 電車には何とかいつもの時間に乗ることができた。

 満員というほどではないが、座席はすべて埋まっている。

 奈津子はドアの横に立ち、スマートフォンを取り出した。

 ニュースを少し見て、会社の予定を確認する。

 そこで、ホーム画面の隅にあるアイコンが目に入った。

 VOICE。


 *


「あ、これ……」

 少し前、市の広報で見たことを思い出した。

 住民が市に意見や要望を伝えられるようになった、新しい仕組みだったはずだ。

 いままでなら、今朝の出来事など、そのまま終わっていただろう。

 夜になれば夫に、

「今日さ、自転車レーンの草がすごくてさ」

 と愚痴を言う。

「へえ、大変だったね」

 それで終わりである。

 わざわざ市役所に電話するほどではない。

 担当部署を調べてメールを書くのも面倒だった。

 そもそも、どこに言えばいいのかもよく分からない。

 だが、VOICEならもっと簡単に要望を出せるらしい。

 奈津子はアプリを開いた。

 自分で新しい要望を出すこともできたが、その前に同じことを考えている人がいないか検索してみる。

 検索欄に、

 植え込み 雑草 自転車レーン 邪魔

 と入力した。

 すぐにいくつか候補が表示された。

「あった」

 そのうちの1件を開く。

 題名は、

 『道路沿い植え込みの整備頻度を見直してほしい』

 というものだった。

 内容を読んでみる。

 植え込みから伸びた草木が歩道や自転車レーンにはみ出し、歩行者や自転車の通行を妨げている。

 特に梅雨から夏にかけて成長が早いため、現在の年間整備回数では不十分ではないか。

 通行に支障が出る場所については、整備頻度を増やす基準を条例や規則で定めてほしい。

 奈津子が朝感じたことと、ほとんど同じだった。

「やっぱりいるんだ」

 賛同数を見る。

 845

 思っていたより多かった。

 VOICEは自治体ごとに、かなり運用方法が違っていた。

 法律や条例に対する反対署名だけを扱う自治体もあれば、住民から自由に提案を出せる自治体もある。

 奈津子の住む市では比較的自由度が高く、住民自身がスレッドを立てることができた。

 ただし、何を書いても市役所が対応するわけではない。

 同じ内容のスレッドは自動的に統合され、単なる悪口や個人への攻撃は対象外となる。

 そして一定数以上の住民から賛同が集まると、行政側に対応義務が生じる仕組みになっていた。

 市内在住者の賛同が1,000票を超えると、原則として市役所の担当部署が回答する。

 住民側に事実誤認があれば、それを説明する。

 すでに対策を予定しているなら、その予定を示す。

 予算上できないのであれば、なぜできないのかを書く。

 回答によって住民が納得すれば、そこで事実上終了する場合もある。

 だが、回答後も賛同が増え続ければ話は別だった。

 1万票を超えれば、市議会で正式に取り上げられる対象になる。

 奈津子はもう一度、内容を読んだ。

 そして、

 賛同する

 をタップした。

 軽い生体認証が入る。

 顔を一瞬画面に向けると、承認された。

 数字が変わった。

 846

「……私の1票だ」

 思わず小さく笑った。

 大げさなことではない。

 ただ数字が一つ増えただけである。

 それでも、自分が何かをしたことが目に見えるのは、不思議な感覚だった。

 VOICEを利用するには、本人確認が必要だった。

 運用開始当初はマイナンバーカードなどを使って本人確認を行っていたが、その後は一度端末へ正式に登録すれば、生体認証などによって利用できるようになっていた。

 対応端末であれば、毎回カードを取り出す必要はない。

 そして2030年代に入るころには、よほど古い機種を使っているのでなければ、ほとんどのスマートフォンが対応していた。

 もちろん、スマートフォンを持っていない人もいる。

 そのため市役所や公民館にはVOICE用の端末が置かれ、希望者には端末の貸し出しも行われていた。

 機械の操作が苦手な高齢者などには、職員や支援員が操作方法を教える。

 ただし、誰に賛同するかまでは手伝わない。

 そこは本人が決める。

 奈津子はそこまで深く制度を理解していたわけではない。

 ただ、

 ――意外と簡単なんだな。

 そう思った。


 *


 その日の夜。

 奈津子は家に帰るなり、夫に朝の出来事を一通り話した。

「それでさ、草がもう自転車レーンの半分くらいまで出てるの」

「半分は言いすぎじゃない?」

「3分の1くらい」

「減ったじゃん」

「細かいことはいいの」

 夫は笑った。

「子供乗せてると怖いんだから。車道側に出なきゃいけないんだよ」

「ああ、それは危ないね」

「でね、VOICEで同じこと言ってる人がいたの」

 奈津子はスマートフォンを取り出した。

 朝、賛同したスレッドを開く。

「えっ」

 数字は、

 892

 になっていた。

「増えてる」

 朝は846だった。

 1日で40人以上増えている。

 たったそれだけのことなのに、奈津子は少しうれしくなった。

「ほら。やっぱりみんな邪魔だと思ってるんだよ」

「まあ、そうなんだろうね」

「あと100ちょっとで市役所が回答するんだって」

 奈津子は画面を見ながら考えた。

 以前なら、朝感じた不満など夜にはもう半分忘れていただろう。

 だが、自分が1票を入れたことで、その後どうなるのか気になっていた。

 数字が増えていくと、妙に続きが見たくなる。

「あなたも入れてよ」

「え?」

「VOICE」

「俺、そのアプリ入れてないよ」

「すぐ入れられるから」

「いや、別に俺は草に困ってないし」

「同じ道通るでしょ」

「自転車乗らないし」

「でも危ないのは分かるでしょ」

 夫はしばらく妻の顔を見た。

 奈津子は完全にその気になっていた。

「……分かったよ」

 結局、夫はVOICEをインストールした。

 初期登録には少し時間がかかったが、本人確認を済ませ、奈津子が示したスレッドを開く。

「これ?」

「そう」

「はいはい」

 賛同する。

 893

「よし」

「何が『よし』なんだよ」

 奈津子は満足して、パソコンの置いてある部屋へ戻った。


 *


 少し仕事を片づけたあと、何となく気になってVOICEをもう一度開いた。

「あれ?」

 892

 1票減っている。

 奈津子の目が細くなった。

 ――まさか。

 VOICEは、一度賛同したあとでも自由に撤回することができる。

 人の考えは変わるからだ。

 署名という名前ではあったが、一度押したら取り消せない仕組みではなかった。

 奈津子はリビングへ戻った。

「ねえ」

「なに?」

「さっきのVOICEだけど」

「うん」

「もしかしたら私、違うスレッド教えたかもしれない。ちょっと見てもいい?」

 夫は妻を見た。

「……俺を疑ってない?」

「疑ってないよ」

「絶対疑ってるでしょ」

「確認するだけ」

「それ、結構マナー違反じゃない?」

 VOICEの投票内容は本人の意思で決めるもので、たとえ家族でも確認を迫るべきではない。

 その程度のことは奈津子も知っている。

「じゃあ、自分で見て。さっきのやつ賛同になってる?」

「なってるよ」

 夫は画面を見せた。

 確かに、

 賛同済み

 となっている。

「あれ?」

「ほら」

「じゃあ誰か別の人が取り消したんだ」

「そういうことだろ」

 夫は呆れたように言った。

 もっとも、それだけでは完全な証明にはならないことを奈津子は知っていた。

 VOICEには、少し変わった仕組みがある。

 家族や勤務先、所属団体などから、

「この案件に賛同しろ」

 と強制されることを防ぐための機能だった。

 どうしても周囲の圧力を断れない人は、市役所や公民館などの公的な端末で「秘匿取消」を行うことができる。

 その場合、実際の集計からは票が取り消されるが、本人のスマートフォンにはしばらく「賛同済み」と表示させることもできた。

 画面を見せろ、と迫られても本人を守れるようにするためである。

 奈津子は一瞬だけ夫を疑った。

 夫もそれを察したらしい。

「公民館行ってまで取り消してないからな」

「そこまで言ってないでしょ」

「顔に書いてあるよ」

「……まあ、信じる」

「夫婦の信頼がVOICEに負けてるぞ」

 2人は笑った。


 *


 それから数週間。

 奈津子は時々、VOICEの数字を確認するようになった。

 1,000票を超えたとき、市役所の道路管理課から最初の回答が掲載された。

 そして、その回答が出たあとも賛同数は増えた。

 2,000。

 3,000。

 いつの間にか数千票になっていた。

 市役所から、より詳しい回答が出た。

 奈津子は夕食後、ソファに座ってそれを読んだ。

 植え込みの剪定回数を増やすこと自体は可能。

 ただし市内すべてを一律に増やせば、人件費や委託費が大幅に増える。

 特に夏場は対象箇所が多く、1回増やすだけでも相当な追加費用が必要になる。

 そのため、自転車レーン、通学路、交差点付近など安全上の優先度が高い場所から整備頻度を増やす案を検討する。

 そして一定額以上の追加予算については、市議会の承認が必要になる。

「へえ……」

 奈津子は画面をスクロールした。

 そこには概算費用まで載っていた。

「こんなにかかるんだ」

 草を刈る。

 奈津子にとっては、それだけの話だった。

 だが市全体となれば、作業員を確保し、車両を出し、廃棄物を処理し、何百か所もの日程を組まなければならない。

 思っていた以上に金がかかる。

 それを初めて知った。

 だからといって、

「じゃあ仕方がない」

 とも思わなかった。

 むしろ逆だった。

 ――だったら、危ないところから優先すればいいじゃない。

 市の回答にもそう書いてある。

 それなら、そのための予算を認めてくれる議員を選べばいい。

 次の市議会議員選挙では、候補者がこの件についてどう考えているか見てみよう。

 奈津子は、そんなことを考えた。

 以前の自分なら、市議会議員選挙の候補者が植え込みの管理について何を考えているかなど、気にしたこともなかった。

 後になって知ったことだが、この要望に賛同していた人の中には、SNSで積極的に署名を呼びかけている者もいた。

 自転車利用者のグループ。

 小学生の保護者。

 高齢者。

 車椅子を利用する人。

 同じ「伸びすぎた草」でも、それぞれ違った理由で困っていた。

 奈津子は、そのどの活動にも参加していなかった。

 デモにも行っていない。

 政治団体に入ったわけでもない。

 議員に会ったこともない。

 朝、自転車に乗っていて、

「邪魔だな」

 と思った。

 電車の中でVOICEを開いた。

 そして一度、画面を押した。

 それだけだった。

 だが奈津子にとっては、それが、

 自分たちでも市を少し動かせるのだ

 と知った最初の経験になった。


 ***


 海翔は父のノートを読み終え、少し考えた。

 どこまで正確な話なのかは分からない。

 父自身が奈津子という女性から直接聞いたのかもしれないし、誰かから聞いた話を書き留めただけなのかもしれない。

 だが、おそらく似たような出来事は実際にあったのだろう。

 父の記録を見る限り、VOICEが本格運用を始めた当初、父自身はそれほど多くの人が利用するとは考えていなかったようだ。

 それまで「署名活動」というもの自体が、普通の人にとっては身近ではなかったからだ。

 駅前で署名を集めている人を見かけることはあっても、自分が発起人になったり、知らない人の署名活動に参加したりする人は限られていた。

 政治に強い関心を持つ人。

 何らかの問題の当事者になった人。

 活動家。

 そういう人たちが行うものだという印象があったのだろう。

 だから電子化しても、利用する人間そのものはそれほど増えない。

 父も最初は、そう考えていたらしい。

 だが、実際には違った。

 署名活動が広がったというより、

 「不満を政治に伝えるまでの距離」が極端に短くなった。

 それが大きかったのではないか。

 奈津子は政治に参加しようと思ってVOICEを開いたわけではない。

 自転車レーンの草が邪魔だっただけだ。

 もしそのために市役所の担当部署を調べ、電話をかけ、事情を説明し、氏名と住所を伝えなければならなかったなら、おそらく何もしなかっただろう。

 しかしVOICEでは、電車の中で検索して、一度画面を押せば終わる。

 しかも、自分と同じ不満を持つ人が何人いるのかが見える。

 市役所がどう回答したのかも見える。

 さらに、その回答に納得した人が減ったのか、逆に不満を持つ人が増えたのかまで数字として表れる。

 海翔は論文作成画面に一文を入力した。

 VOICEの初期普及を促したのは、国民の政治意識の高まりではなく、政治参加に必要だった手間の劇的な低下だった可能性がある。

 入力してから、少し考えた。

 そして、その下にもう一文付け加えた。

 言い換えれば、政治に関心のある人が増えたのではない。日常生活の不満が、そのまま政治につながるようになったのである。

 海翔はその文章を読み返した。

「……こっちの方が面白いな」

 VOICEが最初に動かしたのは、国会でも、巨大な政策でもなかった。

 道路脇に伸びた雑草。

 そんなものだったのかもしれない。

 しかし海翔には、それこそが後の巨大な変化の始まりだったように思えた。

 人々は一度、

 言えば届く。集まれば返事が来る。

 という経験をしてしまった。

 そして、その感覚を覚えた人間は、以前のように何も言わずに我慢するだけの市民には、なかなか戻れなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。