父のノートと未来の日本
2043年、9月。
田辺海翔は、東京のマンションに戻っていた。
もともとは祖母の名義だった部屋だ。数年前、祖母が他界した際に父の直人が相続し、それからは家族が東京に滞在するときの拠点として使われている。
父の直人と母のローサは、いまはインドネシアの離島、ルンザット島で暮らしていた。
海翔も1週間前までは、妹の里奈と一緒にルンザットにいた。
9月に入り、大学の後期授業が始まるため、海翔だけが先に日本へ戻ってきたのだ。
里奈はそのまま、しばらく島に残るという。
16歳になった里奈は、島の人たちから、
「若いころのローサにそっくりだ」
と、よく言われていた。
顔立ちもそうなのだろうが、海翔には性格のことを言われているような気がしてならなかった。
朝早くから島の子供たちと海へ出たと思えば、午後にはバイクの後ろに乗せてもらって島の反対側まで行き、夕方になると誰かの家で食事をしている。翌日には漁船に乗せてくれと言い出す。
とにかくじっとしていない。
母も若いころはあんな感じだったらしい。
海翔は東京の静かな部屋に1人で戻ってきて、少しだけ物足りなさを感じていた。
窓の外には、見慣れた東京の街並みが広がっている。
ルンザットでは夜になると海と虫の音しか聞こえなかったが、こちらでは窓を閉めていても、遠くを走る車の音が微かに届く。
机の上に荷物を置くと、海翔は椅子に腰を下ろした。
「さて……やるか」
小さくつぶやいて、パソコンを立ち上げる。
大学のサイトへアクセスし、学生認証を済ませると、「卒業論文作成環境」を開いた。
いまの大学では、卒業論文を普通の文書作成ソフトだけで書くことは認められていない。
2020年代までの卒業論文は、完成した文章を大学へ提出すればよかったらしい。しかし生成AIが人間とほとんど区別のつかない文章を書くようになってから、それでは本人が書いたのか、AIが書いたのか、完成品だけを見ても判別できなくなった。
そこで大学側は、論文を書く「過程」そのものを記録するようになった。
どの資料を読んだか。
どの文章をいつ入力したか。
どこを書き直したか。
AIにどのような質問をしたか。
引用した資料のどの部分を参照したか。
そうした作業履歴が、論文と一緒に保存される。
もちろん、それを判定するのもAIだった。
AIを使って書いた論文かどうかをAIが審査する。
海翔は、この仕組みを初めて聞いたとき、ずいぶん皮肉な話だと思った。
もっとも、AIを使うこと自体は禁止されていない。
文章の校正、資料の検索、統計処理、膨大な文献の整理。そうした用途には、むしろ積極的に利用することが推奨されていた。
ただし、論文の中核となる文章については、7割以上を本人が作成しなければならない。
画面に表示された自分の論文タイトルを、海翔は改めて眺めた。
『VOICEが及ぼした日本社会の変遷』
「……大きく出たな」
自分で決めた題名なのに、声に出すと少し気恥ずかしかった。
VOICE。
正式名称は、
Verified Online Identity for Civic Expression
日本語にすれば、「本人確認されたオンライン上の市民意思表明」といった意味になる。
いまでは日本人なら知らない者のほうが少ない。
しかし、その始まりは驚くほど地味だった。
昔は紙と手書きで行われていた署名活動を電子化する。
それによって、署名を集める側だけではなく、集められた署名を確認する自治体の事務負担も減らす。
当初のVOICEは、その程度の目的で開発されたシステムだった。
少なくとも、公式の記録にはそう書かれている。
海翔は机の横に積んである紙の束へ目を向けた。
正確には、紙の束ではない。
父から預かってきた大量のノートだった。
「これ、卒論に使えるんじゃないか」
ルンザットを発つ前、父はそう言って倉庫の奥から箱を引っ張り出してきた。
古びた大学ノート、革表紙の手帳、役所でもらったらしいメモ帳。大きさも種類もばらばらだった。
よくこれだけ残していたものだと思う。
*
父には、名前が2つあった。
日本での名前は、田辺直人。
インドネシアでは、グリフと呼ばれている。
日本人とインドネシア人の間に生まれた父は日本国籍を持ち、母のローサはインドネシア人だった。
したがって海翔は、血筋だけでいえば4分の3がインドネシアになる。
もっとも、海翔自身は日本で生まれ、日本国籍を持ち、日本の学校で育った。
自分が日本人なのか、インドネシア人なのか。
子供のころには少し考えたこともあったが、大学生になった今では、あまり気にしなくなっていた。
どちらでもある。
それで十分だった。
父のノートは、さらに複雑だった。
最初の数冊をめくると、「三浦」という名前が何度も出てくる。
三浦――元芸人。
のちに国会議員を目指した人物だった。
父は、三浦が選挙に出るための相談を受けていた。
何を政策の柱にするのか。
何を訴えれば、有権者に届くのか。
2人が行き着いた答えが、国民が政治に参加する仕組みだった。
*
代表者を選挙で選び、あとは数年間任せきりにするのではない。
政策について国民が意見を示し、必要なら議論に参加し、場合によっては政治家に判断をやり直させる。
広い意味では、直接民主制と呼んでよいのだろう。
そして、その第一歩として考えられたのが電子署名だった。
後にVOICEと呼ばれることになるシステムである。
海翔は、父と三浦のやり取りをかなり面白いと思った。
むしろ、そのまま卒論に載せたいくらいだった。
だが、さすがにできなかった。
個人名があまりにも多い。
政治家、官僚、地方議員、知人、支援者。
まだ存命の人物がほとんどだ。
父のノートはすべて手書きだったが、いまならスキャンすれば数秒で文章化できる。
しかし大学の論文作成環境へ丸ごと読み込ませることはやめた。
必要な部分だけ、自分で確認しながら使うことにした。
海翔は椅子に深く座り、腕を組んだ。
「どこから始めるかな……」
VOICEの歴史そのものを調べることは簡単だった。
政府記録、国会議事録、自治体の資料、新聞記事、映像記録。
AIに指示すれば、数十年分の資料を数秒で時系列に並べてくれる。
だからこそ、それだけではつまらない。
誰でも書ける論文になってしまう。
海翔はしばらく考えてから、2030年を出発点にすることに決めた。
VOICEが本格的に利用され始めた年である。
父のノートをめくりながら、そのころの記述を探した。
やがて、ある一文で手が止まった。
少し強い筆圧で書かれている。
海翔は声に出して読んだ。
「『VOICEが始まる。これは政治家にとっては怪物になるかもしれないが、国民の閉塞感を打破する光になるはずだ』……」
数秒、黙った。
それから、思わず笑った。
「親父、こんなこと書いてたのか」
普段の父からは、あまり想像できない文章だった。
ルンザットでは畑を見たり、島の人間とくだらない冗談を言ったり、何か頼まれれば面倒そうな顔をしながら結局引き受けたりしている。
少なくとも、息子の前で「国民の閉塞感を打破する光」などと言う人物ではない。
――案外、ロマンチストだったんだな。
海翔は少しおかしくなった。
同時に、これまで知らなかった父を見つけたような気もした。
父親というものは、子供にとっては最初から父親である。
けれど当然、父にも20代があり、30代があり、自分と同じように迷った時期がある。
何かに腹を立て、何かに夢中になり、未来を変えられると本気で考えていた時代もあった。
このノートを読み進めれば、そういう父の姿を見ることができるのかもしれない。
そう思うと、少しわくわくした。
卒業論文など面倒なだけだと思っていたのに、案外楽しい作業になるかもしれない。
そしてもう一度、父の文章を見る。
政治家にとっては怪物になるかもしれない。
「怪物、か……」
海翔の表情から笑みが消えた。
それだけは、当たっていた。
いや、当たりすぎていた。
*
2043年現在のVOICEは、もはや電子署名システムなどという言葉では説明できない。
社会のさまざまな場所にVOICEは入り込み、いまや日本という国を動かす巨大な基盤の一つになっている。
一方で、政治家だけが持っていた権力は、以前とは比べものにならないほど小さくなった。
VOICEによって、国民は政治家を選ぶだけの存在ではなくなったからだ。
海翔は改めてノートを見た。
開発が始まった時点で「怪物」という言葉を使っている。
――親父って、もしかして結構すごい人だったのか?
これまで父をそんなふうに考えたことはなかった。
ただ、考えてみれば、当時このシステムが将来どこまで広がるのかを、父ほど真剣に考えていた人間が少なかったのかもしれない。
ならば、この予測も偶然ではなかったのだろう。
それでも。
海翔は現在のVOICEを思い浮かべた。
おそらく父自身でさえ、ここまで巨大なものになるとは予想していなかったはずだ。
海翔は画面の隅に表示されている年表を見た。
2030年。
VOICE、本格運用開始。
「ここからか……」
現在は2043年。
わずか13年あまりである。
たったそれだけの時間で、日本社会は大きく姿を変えた。
だが、過去を調べてみると、13年という時間は意外に長い。
日本でインターネットが一般に広く知られるようになったのが1990年代半ば。
スマートフォンが急速に普及したのが2010年代前半。
生成AIが社会へ本格的に浸透し始めたのが2020年代半ば。
その時代を生きた人々にとって、10年ほどで社会の常識が変わることは、それほど珍しいことではなかったのかもしれない。
もっと遡れば、ペリーが浦賀に来航した1853年から、明治政府が成立した1868年までは、わずか15年だった。
幕府が日本を治めることを当然だと思っていた人々が生きている間に、その幕府そのものが消えている。
――日本って、案外こういう国なのかもしれない。
長い間ほとんど変わらないように見える。
しかし、一度何かが動き始めると、10年、15年で社会そのものが別の形になってしまう。
海翔は新しいページを開いた。
論文の冒頭に、
第1章 2030年 VOICEの本格運用
と入力する。
その文字をしばらく眺めた。
公式記録を並べるだけならAIに任せればよい。
自分は、もっと身近な話を書こう。
当時の人間がVOICEをどう見ていたのか。
何を期待し、何を怖がり、そしてどんな小さな出来事から社会が変わっていったのか。
父のノートには、それが残っている。
小さな出来事を一つ取り上げ、そこから社会の変化を考察していく。
そんな形なら、自分にしか書けない論文になるかもしれない。
「形式は最後に整えればいいか」
海翔はつぶやいた。
文章の体裁や引用形式くらいはAIに任せればいい。
大切なのは中身だ。
そう考えて、父のノートをもう一度めくった。
2030年。
VOICEが、まだ「便利な電子署名の仕組み」だと思われていたころ。
誰も、このシステムが十数年後の日本で、これほど巨大な存在になるとは知らなかった。
政治家も。
官僚も。
それを使い始めた国民も。
そしておそらく――。
最初に「怪物」と書き残した父でさえも。
海翔は、その時代の最初のページを開いた。




