ホジャン島の農園
半年後。
グリフはホジャン島にいた。
ルンザットからそれほど遠くない島である。
海を渡れば行き来できる距離にあり、かつては近隣の島々の中でも比較的豊かな島だった。
港があり。
商店があり。
農地も広かった。
ところが、島の運命を変えた事件があった。
かつてこの島には、武装ゲリラの訓練拠点が置かれていた。
島民すべてが協力していたわけではない。
脅されて食料を渡した者。
家族がゲリラに参加していた者。
金をもらって手伝った者。
本当に思想に共鳴した者。
事情はさまざまだった。
しかし事件が明るみに出ると、外から見れば、
「ゲリラに協力した島」
でひと括りにされた。
政府による大規模な捜査が入り、住民のかなりの割合が一時的に拘束された。
その後、起訴されずに戻った者も多かったが、島に付いた印象は簡単には消えなかった。
観光客は減った。
投資も減った。
若者は島を出た。
ルンザットをはじめ近隣の島々が少しずつ発展していく中、ホジャン島だけは取り残された。
*
その島に今、グリフは農園を作っていた。
正確には、一から山を切り開いたわけではない。
もともとあった農園を農園主から買い取り、周囲の土地も少しずつ借り受けて再整備している。
敷地の一角には、新しい建物が何棟か立ち始めていた。
宿泊棟。
共同食堂。
加工場。
小さな売店。
将来的には観光客向けの体験施設も作る予定だった。
そこで働くのはインドネシア人だけではない。
日本人。
中国人。
フィリピン人。
ベトナム人。
すでに何人かが働き始めている。
まだ人数は少ない。
だがグリフの頭の中では、もっと増える予定だった。
*
「ローサ」
「何?」
「ここでもコーヒーとカカオ、いけそうか?」
妻のローサは畑の土を手で崩していた。
少し離れたところには試験的に植えた苗が並んでいる。
ローサはルンザットで長年、農業の改良に携わってきた。
島の農業がイモ類中心だったころ。
まだ少女と呼んでもおかしくない年齢から、コーヒーやカカオなど、現金収入につながる作物を育てようとしていた。
最初は大人たちから、
「そんなもの育ててどうする」
「食えない作物を作って何になる」
と言われた。
それでも続けた。
失敗もした。
苗が枯れた。
病気が広がった。
収穫できても売り先がなかった。
だがローサには、グリフ以上に諦めの悪いところがあった。
いつしかルンザットの農業では、中心的な存在になっていた。
*
「うーん」
ローサは立ち上がり、畑の向こうを見た。
「ルンザットから詳しい人を何人か連れてきて、それから最終的に決めるけど」
「うん」
「多分、大丈夫」
「本当か」
「土は悪くない。水もある。標高も場所を選べば問題ないと思う」
「よかった」
「ルンザットの最初のころより、ずっと早くできるよ」
「そんなに?」
「当たり前でしょう」
ローサは笑った。
「あのころは、何も分からなかったんだから」
「そうだったな」
「今は苗の選び方も分かる。病気も分かる。収穫後の発酵も乾燥も分かる」
「失敗の仕方まで分かってる」
「それ大事」
ローサが指を立てた。
「同じ失敗をもう1回やらなくていいから」
グリフはうなずいた。
「ローサが言うなら、大丈夫だろ」
「そう言って全部私に任せる気でしょう」
「ばれたか」
*
ローサは農園を見渡した。
「それにしても、観光農園か」
「ああ」
「日本じゃ珍しくないんでしょう」
「そうだな」
「それをこっちへ持ってくるとは思わなかった」
「観光資源がない島ほど、逆にいいと思ったんだ」
「どういうこと?」
「遺跡もない。大きなホテルもない。有名なビーチもない」
「ホジャン島の悪口みたいになってる」
「いや、だから農園そのものを観光地にする」
「ああ」
「農業があるなら、それを見せればいい」
グリフは予定地を指した。
「観光客に自分でコーヒーの実を摘んでもらう」
「うん」
「カカオも収穫してもらう」
「その場でチョコレート作る?」
「将来的には」
「面白そう」
「自分で採った豆を焙煎して、そこで飲む」
「それは受けるかもね」
「だろ」
グリフは少し得意そうになった。
「もっと進めればさ」
「何?」
「客が自分専用の区画を持つ」
「区画?」
「育て方を選ぶ」
「面倒くさそう」
「そこがいいんだよ」
グリフは説明した。
「肥料はこうしてくれ。収穫時期はこれくらい。発酵を少し長く。焙煎はこう」
「コーヒーマニア向けね」
「そう」
「1年待って、自分専用の豆が届く?」
「そういうこと」
「高く売れそう」
「中間業者も減らせる」
「農家にも多く残る」
「観光客も、“自分のコーヒー”って言える」
ローサは笑った。
「日本人、好きそう」
「世界中に好きなやついるだろ」
*
「日本にも農園作ったんでしょう?」
「ああ。4か所」
「もう4つ?」
「俺が全部やってるわけじゃない」
「でしょうね」
「結局、三浦の世話になった」
「三浦さん?」
ローサが顔を上げた。
「あの芸人だった人?」
「元芸人」
「一緒に選挙やってた人でしょう」
「そう」
「この間、日本のニュースで見た」
「ローサ、日本のテレビ見るんだな」
「見るよ」
ローサは当然のように答えた。
「今、世界中で日本が注目されてるじゃない」
インターネットを通じ、主要国のテレビ番組は少し遅れて世界中で見られるようになっていた。
「三浦さん、まだちょっと軽い感じだったけど」
「テレビではな」
「実際は違う?」
グリフは少し考えた。
「かなり変わった」
「へえ」
「昔より勉強してる」
「昔はしてなかったの?」
「……してたと思う」
「今、一瞬考えたでしょう」
「それで三浦さんに何してもらったの?」
「人を紹介してもらった」
「農業関係?」
「それもいる」
「他は?」
「農園主。食品会社。旅行関係。投資家。あと金持ち」
「最後だけ雑ね」
「本当に金持ちだったんだから仕方ない」
グリフは笑った。
「最初にこの構想を話したときは、三浦も止めたんだよ」
「世界平和の話?」
「そう」
「私でも止める」
「お前まで」
「普通止めるよ」
「でも、その2、3日後」
「うん」
「連絡が来た」
「何て?」
「“お前の馬鹿な話に乗りそうな馬鹿を何人か見つけた”って」
ローサが笑った。
「三浦さんらしい」
「実際、何人も紹介してくれた」
「そんなに?」
「俺も資金は用意してたけど、それの何倍も集まった」
「へえ」
「でも金より大きかったのは、人だな」
「仲間?」
「ああ」
*
「その人たちにも、観光農園の収益計画だけ話したの?」
「いや」
グリフは首を振った。
「全部話した」
「全部?」
「世界平和まで」
ローサは額に手を当てた。
「よくお金出したね」
「俺もそう思った」
「怪しい宗教だと思われなかった?」
「何人かには思われたかも」
「でしょうね」
「でも今は、世界情勢が悪いだろ」
「うん」
「平和な時代なら、“世界平和です”って言っても笑われて終わる」
「今は?」
「本当に危ないと思ってる人が増えた」
グリフは遠くを見る。
「だから、普通の方法で駄目なら、ちょっと変なものにも賭けてみるか、って人が出てきたんだと思う」
「人間、追い詰められると宗教に走るみたい」
「俺を教祖にするな」
ローサは建設中の宿泊棟を見た。
「ここにも、いろんな国の人を呼ぶの?」
「ああ」
「どこから?」
「日本」
「うん」
「中国」
「うん」
「アメリカ」
「ずいぶん広がったね」
「ロシアも」
「さらに広がった」
「できればユダヤ系の人も、アラブ系の人も。イラン系も」
「世界中集めるつもり?」
「全部は無理だけどな」
「政治の話するの?」
「しない」
「しないの?」
「禁止もしないけど」
グリフは答えた。
「基本的には普通に暮らすだけ」
「普通に?」
「朝起きる」
「うん」
「飯食う」
「うん」
「働く」
「うん」
「昼飯食う」
「そこ必要?」
「大事だろ」
「はいはい」
「また働く。夕飯食う。寝る」
「世界平和どこ行ったの?」
「そこにある」
*
ローサは怪訝な顔をした。
「本当にそれだけ?」
「ああ」
「平和について討論会とかしないの?」
「しない」
「国際交流イベントは?」
「たまにはやってもいいけど、中心じゃない」
「平和宣言とか」
「いらない」
「じゃあ何するの」
「一緒にコーヒー作る」
グリフは笑った。
「いい豆ができたら一緒に喜ぶ」
「うん」
「雨が降らなければ、みんなで空を見る」
「うん」
「台風が来れば、みんなで畑を守る」
「うん」
「病気が出れば、どうするか考える」
「うん」
「売上悪けりゃ、みんなで困る」
「それは嫌だね」
「そこは困ってくれ」
2人で笑った。
ふと、グリフは昔聞いた言葉を思い出した。
三浦が暗記していると言っていた詩。
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
農業をしていると、その意味がよく分かる。
日本人だろうと。
中国人だろうと。
アメリカ人だろうと。
ロシア人だろうと。
畑の前では同じだった。
雨が降らなければ困る。
作物が病気になれば困る。
高く売れればうれしい。
朝から収穫して腹が減れば飯を食う。
国際政治より先に、目の前の天気を心配する。
「そういうのでいいんだよ」
グリフが言った。
「何が?」
「仲良くするって」
ローサは少し考えた。
「それだけで世界平和になる?」
「ああ」
「本当に?」
「少しは」
「少し?」
「少しでいい」
グリフは笑った。
「100年計画だから」
「便利だね、その言葉」
「何でも100年後に逃げられる」
「ずるい」
「でも、それだけじゃ足りない」
「VOICE?」
「ああ」
*
「前に言ってたね。VOICEを世界に広げるって」
「正確には、VOICEそのものにこだわってないんだ」
「そうなの?」
「日本と同じシステムを輸出したいわけじゃない」
「じゃあ何?」
グリフは少し考えてから言った。
「みんなのことは、みんなで決める」
「……」
「それが普通になればいい」
「民主主義?」
「もっと生活に近いところから」
グリフは畑の向こうにある村を見た。
「もちろんリーダーは必要だ」
「族長みたいな?」
「そう。誰かが決断しなきゃいけないときもある」
「うん」
「でも、大事なことまで全部リーダーが決めなくてもいい」
「みんなで話す」
「そう」
「反対する人がいても」
「聞く」
「時間かかるよ」
「かかる」
「まとまらないこともある」
「ある」
「面倒だね」
「民主主義なんて、だいたい面倒だろ」
ローサは笑った。
「でもさ」
ローサが言った。
「それ、ルンザットでは昔から近くない?」
「そうなんだよ」
グリフも笑った。
「大事なことがあれば集まって話す」
「長老も話す」
「若い人も最近は口出す」
「女も昔より言うようになった」
「お前は昔から言ってたけどな」
「私は特別」
「知ってる」
「だったら世界へ行く前に、ここでやればいいじゃない」
「ここ?」
「この農園」
ローサは地面を指した。
「日本人も中国人もインドネシア人も働くんでしょう」
「ああ」
「だったら農園のルールを、みんなで決める」
「なるほど」
「次にホジャン島」
「うん」
「その次に周りの島」
グリフは少し黙った。
「そっちのほうが俺らしいか」
「最初から世界とか言うから、おかしくなるんだよ」
「手厳しいな」
「60過ぎても変わらないね」
*
グリフは笑った。
「俺たちが生きてる間に、どこまで行けるかな」
「さあ」
「インドネシア全体までは無理か」
「無理でしょうね」
「即答かよ」
「だって広いもん」
「じゃあ、この辺の島々くらい?」
「それでも十分じゃない?」
ローサは言った。
「その先は海翔と里奈にやらせれば」
「勝手に決めるなよ」
「親なんだから、少しくらい期待していいでしょう」
「あ」
ローサが思い出した。
「そういえば、その2人」
「何」
「また揉めてるみたい」
「また?」
「さっき里奈からチャット来た」
「何やった」
「海翔が怒ったんだって」
「原因は?」
「里奈が帰ってくるの遅かったらしい」
「何時?」
「夜10時過ぎ」
グリフの顔が変わった。
「10時?」
「うん」
「高校生だろ?」
「そう」
「そりゃ海翔が正しい」
ローサがため息をついた。
「ここにも面倒くさいのがいた」
「いや、待て。10時だぞ」
「友達とご飯食べてたらしいよ」
「それでも連絡くらい」
「したって」
「何時に」
「9時半」
「遅い!」
「あなた、完全に海翔側だね」
*
グリフは納得できない顔をした。
「いや、普通心配するだろ」
「海翔も同じこと言ってたみたい」
「ほら」
「それで里奈が、“お兄ちゃんはお父さんじゃない”って怒った」
「まあ、それは正しい」
「どっちなの」
「でも海翔は日本では保護者みたいなもんだろ」
「本人もそう思ってるから面倒なのよ」
「家族なんだから心配して当然だ」
「はいはい」
「10時は遅い」
「分かったって」
「日本は治安いいって言っても――」
「もういい」
ローサが手を振った。
「それでね」
「まだあるの?」
「里奈が私に、“お母さんからお兄ちゃんに言って”って」
「うん」
「私が海翔に、“もう少し里奈を信用しなさい”って送った」
「それは違うな」
「何が」
「高校生が10時まで――」
「また戻るの?」
「だって」
「そしたら海翔が、“お母さんは日本の高校生の生活分かってない”って」
「それは失礼だな」
「でしょう?」
「でも少しは正しい」
ローサがグリフをにらんだ。
「何?」
「……いや、何でもない」
「そのあと里奈からまた来て」
「何て」
「“お父さんにも言って”って」
グリフは胸を張った。
「俺は海翔に言ってやる」
「何を?」
「お兄ちゃんとして心配するのは正しい。ただし、言い方には気をつけろって」
「結局海翔側じゃない」
「公平だろ」
「全然」
「じゃあローサは何て言うんだ」
「10時くらいなら、ちゃんと連絡して、危ないところへ行かないならいいでしょう」
「高校生だぞ!」
「十六でしょう」
「まだ子供だ」
「あなた、十六のころ何してた?」
グリフが黙った。
「……」
「何してた?」
「昔と今は違う」
「便利だね、その言葉も」
世界平和について意見が一致した夫婦が。
高校生の娘の門限については、まったく一致しなかった。
「とにかく10時は遅い」
「8時ならいいの?」
「8時半」
「細かい」
「9時まで」
「今上がった」
「妥協だよ!」
ローサは笑った。
「みんなのことは、みんなで決めるんでしょう?」
「これは親の権限だ」
「独裁者」
「違う!」
「VOICEを世界に広げる前に、家族会議から始めたら?」
グリフは言葉に詰まった。
*
後に海翔がこの話を母から聞いたとき、
「結局、俺が一番まともだったじゃん」
と言った。
里奈は、
「3人とも面倒くさい」
と言った。
100年後の世界平和を目指すグリフの最初の難題は、
国家間の対立でも。
民族間の憎悪でも。
独裁国家の民主化でもなかった。
高校生の娘の門限だった。
そして、その問題については。
VOICE式の合意形成も、まだ成功していなかった。




