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父が東京へ戻った日

 2日後。

 父、グリフがやって来た。

 やって来た、というのも妙だった。

 もともとこの部屋は、祖母から父が相続したものだ。

 海翔にとっては、

 父が日本へ来た

 という感覚だが、法律上は、

 父が自分の家へ帰ってきた

 というほうが正しいのかもしれない。


「ただいま」

「おかえり」

 玄関に入ったグリフは靴を脱ぎ、室内を見回した。

 海翔は少し緊張した。

 昨日1日かけて片付けた。

 床は見える。

 洗濯物もない。

 ゴミ袋もすべて出した。

 冷蔵庫の中に、賞味期限が怪しいものが多少残っているが、そこまで見られなければ大丈夫だ。

 グリフはリビングまで歩いた。

「……まあまあか」

「まあまあ?」

「ああ」

「かなり頑張ったんだけど」

「普段がどんな状態だったか分かるな」

「うるさいな」

 グリフは笑った。

「そうだ。忘れないうちに」

 鞄から封筒を取り出した。

「金」

「おお」

 海翔が受け取る。

 妙に厚い。

「え?」

 中を見る。

「……多くない?」

「土産買うんだろ」

「まあ」

「借金も返すんだろ」

「友達から借りただけだから借金って言うなよ」

「借金だろ」

「そうだけど」

「余ったら持ってろ」

「返さなくていいの?」

「就職祝いも入ってる」

 海翔はもう一度封筒を見た。

「父さん、金持ちだな」

「今さらか」


 *


 実際、父はかなりの資産を持っている。

 ルンザットでは祖父ディオから事業を引き継いでいた。

 海翔が子供のころに比べても、島は大きく変わった。

 近隣の島から見れば、

 ルンザットで働きたい

 と言われるほど生活水準は上がっている。

 グリフは族長の一族でもある。

 その気になれば、今ごろ島の政治的な指導者になっていても不思議ではなかった。

 以前、海翔は聞いたことがある。

「父さん、政治とかやらないの?」

 日本国籍ではある。

 しかしルンザットには今も部族社会の名残があり、血筋や家系も無視できない。

 グリフなら、それなりの立場を担えるはずだった。

 だが父は、

「俺はこの島じゃ、ただの暇そうな金持ちでいい」

 と言った。

 金持ちというわりに、生活は質素だった。

 母ローサも同じだ。

 2人とも島の昔ながらの暮らしが好きらしい。

「贅沢したいなら日本に住む」

 というのが父の理屈だった。


 日本にも資産はある。

 大叔父の藤田家がオーナーだった藤樹堂という会社で、グリフは長く役員を務めていた。

 今でも顧問だったはずだ。

 かつてグリフが担当していたエスニックレストラン事業も成長し、現在では関東から東北にかけて20店舗ほど展開している。

 海翔は封筒をしまった。

「ありがと」

「ああ」

 グリフが時計を見る。

「今日の夕方、三浦も来るぞ」

「え?」

 海翔が振り返った。

「三浦さん?」

「そう」

「今日来るの?」

「ああ」

「久しぶりだな……っていうか、もうちょっと早かったらなあ」

「何だ。用事あったのか?」

「卒論」

「ああ」

「VOICEのこと書いてたでしょ。三浦さん本人から聞けたら、もっと詳しくできたかもしれない」

「もう出したんだろ」

「一昨日」

「じゃあ終わった話だな」

「そうなんだけどさ」

 グリフは笑った。

「三浦が来たところで、言えないことも多いぞ」

「そうなの?」

「あいつも今じゃ、ただのじじいじゃない」

「ただのじじいって」

「副大臣になったじじいだ」

「でも聞いたら結構しゃべりそう」

 グリフは少し考えた。

「……そんな気もしてきた」

「でしょ?」

「電話で話したときも全然変わってなかったしな」

「ギャグやってた?」

「さすがにやらん」


 *


 2人で夕食の買い物へ行った。

 料理はグリフが担当する。

 海翔は手伝おうとしたが、

「お前は野菜切れ」

 だけだった。

「俺、もう二十二なんだけど」

「包丁使える年齢と料理ができる年齢は違う」

「何だよそれ」

 とはいえ元料理人である。

 グリフが台所へ立つと、動きが速かった。

 香辛料の匂いが部屋に広がる。

 魚。

 鶏肉。

 ココナツミルク。

 唐辛子。

 日本ではあまり見ない香草。

「これ、久しぶりだな」

「向こうじゃ普通だけどな」

「日本で食うとうまいんだよ」

「向こうでもうまいだろ」

「ありがたみが違う」


     *


 夜。

 インターホンが鳴った。

『こんばんは。三浦ですけど』

「知ってるよ」

 グリフが玄関を開けた。

「入れ入れ」

「お邪魔します」

 三浦が入ってくる。

 室内を見回して、懐かしそうに笑った。

「変わってないなあ」

「そんなに変わらんだろ」

「最初の選挙のとき、ここで寝泊まりしてたからな」

「そうだったの?」

 海翔が聞く。

「してたよ。金なかったから」

「今でも金使わないでしょう」

「今は使わないだけ。当時は本当に無かった」

 グリフが窓の外を見る。

「歩いてきたのか?」

「いや。近くまで車で送ってもらった」

「SPとか付いてくるかと思った」

「俺にはいないよ」

「副大臣なのに?」

「全員に四六時中付くわけじゃない。俺はかなり自由」

「そのほうが三浦さんらしいですね」

「だろ」


 3人で食卓を囲んだ。

 三浦は一口食べるなり、

「うまい」

 と言った。

「昔よりうまくなった?」

「いや、昔もうまかった」

「じゃあ意味ない質問だな」

「グリフ、お前も変わったよな」

「そうか?」

「ああ」

 三浦はビールを飲んだ。

「俺と選挙やってたころ、もっと堅かったぞ」

「俺が?」

「“私は真面目な人間です”って全身から出てた」

「そんなことない」

「小言も多かった」

「お前が雑すぎたんだよ」

「そこは否定しない」

 グリフも笑った。

「まあ、俺も政治家になる前は似たようなもんだった。叔父さんにしょっちゅう怒られてたし」

「そうなの?」

 海翔が聞く。

「ああ。あのころは議員辞めて間もなかったから、政治家の癖が抜けてなかったのかもな」

 三浦がうなずく。

「今じゃ俺のほうが堅苦しく生きてるかも」

「副大臣だからな」

「失敗して学んだんだよ」

「本当に?」

「お前、失礼だな」


 *


 しばらくしてグリフが思い出した。

「そういえば海翔。三浦に聞きたいことあるって言ってなかったか」

「卒論はもう終わったから」

「何でもいいぞ」

 三浦が言った。

 海翔は少し考えた。

「じゃあ、卒論関係ないんですけど」

「うん」

「NINJA」

 三浦の顔が少し変わった。

「ああ……」

「どうなんですか、あれ」

「どうって?」

「本当にあんなにすごいんですか」

「知らない」

「え?」

「俺も詳しく知らない」

「副大臣なのに?」

「厚労副大臣だからな!」

「あ、そうか」

「防衛機密を俺に全部教える意味ないだろ」

 三浦も苦笑した。

「政府の中でもかなり情報絞ってるらしいよ」

「やっぱり?」

「あれ、不気味だろ」

「はい」

「俺も不気味」

「政府側の人が言わないでください」


 グリフが横から口を挟んだ。

「あれ、孫子だろ」

「何?」

 三浦が見る。

「孫子の兵法」

 海翔が嫌な顔をした。

「父さん、急に難しいこと言い出した」

「有名な言葉がある」

「何」

 グリフは思い出すように言った。

「微なるかな、微なるかな、無形に至る」

「何語?」

「日本語だ」

「日本語に聞こえない」

「調べろ」

「自分で説明してよ」

「調べたほうが覚える」

「面倒くさい親だな」

 海翔はスマートフォンを取り出した。

 検索する。

 続きがあった。

 微なるかな、微なるかな、無形に至る。

 神なるかな、神なるかな、無声に至る。

 故に能く敵の司命となる。

「えーと……」

 現代語訳を見る。

「極めて微妙で、ついには姿さえ見えなくなる。極めて神妙で、ついには音さえ聞こえなくなる。だから敵の運命を握ることができる……」

「そう」

「つまり?」

「敵にこちらの形、意図、動きを悟らせない」

「うん」

「相手は何に備えればいいか分からない」

「ああ」

「こちらは相手を見ているが、相手はこちらをつかめない。そうすれば主導権を握れる」

 海翔は感心した。

「中国の古典を使って中国に備えてるのか」

「皮肉だな」

 三浦が笑った。

「さすがグリフさん。難しいこと知ってるな」

「お前三浦だって聞いたことあるだろ」

「高山が似た話してたかも」

「高山?」

 海翔が聞いた。

「三浦さん、高山さん呼び捨てなんですか」

「いいのいいの。あいつ年下だし」

「防衛大臣ですよね」

「だから何だ」

「何歳くらい?」

「俺らより十くらい下じゃないか?」

 グリフが言った。

「俺たち今年で64だろ」

「ああ、そうか」

「三浦さんもう64なんだ」

「“もう”を付けるな」


 *


 グリフが聞いた。

「三浦、今は厚労だよな」

「ああ」

「外国人政策どうなってる」

 三浦が少し表情を落ち着かせた。

「難しくなってるな」

「やっぱり?」

「制度そのものは大きく変えてない。人手不足もあるから、少しずつ受け入れを広げる方向ではある」

「でも?」

「この情勢だからな」

 三浦はビールのグラスを置いた。

「それ以上は政治的に難しい」

「VOICEでも?」

「厳しい意見増えたよ」

「現実世界でもそうか」

「ああ」

 三浦はため息をついた。

「俺、今でも近所の居酒屋行くし、市井の感覚は拾ってるほうだと思うけど」

「うん」

「特に中国人への距離感は明らかに変わったな」

「敵視?」

「そこまでじゃない人が大半だけど、“なんとなく怖い”って感じ」

「中国人側もつらいだろ」

「居心地悪そうだよ。日本に10年以上住んでる人まで、“自分は関係ないのに”って顔してる」


 グリフが少し黙ったあと言った。

「今、ルンザットに劉志遠ってやつがいてな」

「中国人?」

「父親が中国系、母親がインドネシア人。本人は中国籍だ」

「へえ」

 三浦がグリフを見る。

「お前とちょっと似てるな」

「どこが」

「お前は日本とインドネシアのハーフで日本国籍」

「まあ、そこだけな」

「他は?」

「見た目は俺のほうがかなりいい」

 三浦がグリフの頭を見る。

「ハゲなのに?」

「うるせえな!」

「事実だろ」

「昔はあったんだよ!」

 海翔が笑った。

「昔の写真なら確かに」

「ほら!」

「でも今はない」

「お前まで」


 *


 グリフの髪については、海翔にも忘れられない記憶がある。

 海翔が高校生になるころまで、父には普通に髪があった。

 少なくとも、そう見えていた。

 ところがルンザットへ本格的に移住するとき。

 父は家族を集めた。

「話がある」

 深刻な顔だったので、海翔は何か大事なことだと思った。

 病気か。

 借金か。

 離婚か。

 グリフは言った。

「実は、髪を増やしている」

「……?」

 意味が分からなかった。

 そして後日。

 増毛していた部分を外した父が現れた。

 頭頂部から前方にかけて、ほとんど髪がない。

 両側と後ろだけが残っていた。

 海翔は衝撃を受けた。

 妹の里奈はもっとひどかった。

 中学生になったばかりだった。

「……お父さん……」

 うっすら涙ぐんでいた。

 母ローサだけが腹を抱えて笑った。

「ハゲてる! 本当にハゲてる!」

 父は、

「お前、知ってただろ!」

 と怒った。

 ローサは、

「知ってたけど、改めて見ると面白い!」

 と言ってさらに笑った。


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