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見えない防衛網

 2044年1月。

 海翔は、ようやく卒業論文を提出した。

 その翌朝。

 空腹で目が覚めた。

「……腹減った」

 目を開ける。

 頭が重い。

 口の中がひどく乾いている。

「昨日、飲んだな……」

 昨夜は友人たちと卒論提出祝いをした。

 そこまでは覚えている。

 1軒目。

 2軒目。

 たぶん3軒目。

 その先が怪しい。

「さすがに2日酔いか」

 布団の中から部屋を見回した。

 誰もいない。

「とりあえず、自分の家には帰ってきたらしい」

 そこは確認できた。

 腕を見ると、肘の近くに擦り傷があった。

「何だこれ」

 触ると少し痛い。

 ――転んだか。

 ――どこかにぶつけたか。

 記憶はない。

「まあ、いいか」

 大学生活の最後に一つ擦り傷が増えたところで、大した問題ではない。

 それより腹が減っていた。

 海翔は布団から這い出した。

「卒論も終わったし、ルンザット戻るかな」

 窓の外を見る。

 冬の東京だった。

 見ただけで寒い。

「日本、寒いんだよなあ……」

 ルンザットの気候を思い出すと、余計に嫌になった。

 そこで机の上に置かれたものが目に入った。

 父グリフのノート。

「あ」

 海翔は慌てて近づいた。

「汚してないよな」

 昨夜、酔って帰ってきた自分が、ビールでもこぼしていたら洒落にならない。

 1冊ずつ確認する。

「大丈夫。よし」

 自分の卒論より大事に扱っていた。


 *


 海翔はコンビニへ行き、おにぎり、カップ味噌汁、サンドイッチ、スポーツ飲料、それにプリンを買ってきた。

 統一感はなかった。

 2日酔いの人間が欲しいと思ったものを順番に籠へ入れた結果である。

 食べながら父へ電話した。

「父さん、元気?」

『おう。海翔か。何だ』

「いや、卒論終わったからさ」

『そうか。出したか』

「昨日出した」

『じゃあ卒業できそうなのか』

「その言い方やめてよ。たぶんできる」

『たぶんか』

「口頭試問は残ってるけど、ネットでやることにした」

『ふーん』

「だから春休み、そっち行こうと思って」

『いいんじゃないか』

「それでさ」

 海翔は少し声を柔らかくした。

「飛行機代、振り込んでもらっていい?」

『……』

「できれば、ちょっと多めに」

『多め?』

「ほら、お土産とかあるし」

『うん』

「あと、友達からちょっと借りてて」

『いくら』

「そんな大した額じゃない」

『いくら』

「……まあ、それは会ったときに」

『ふーん』

「4月から働くから。給料入ったら返すよ」

『じゃあ直接渡す』

「え?」

『俺、明後日くらいにそっち行くから』

 海翔の箸が止まった。

「え?」

『だから、日本行く』

「いつ決まったの?」

『少し前』

「先に言ってよ!」

『何で』

「何でって……」

 海翔は部屋を見た。

 床。

 机。

 脱ぎっぱなしの服。

 空き缶。

 なぜか椅子の下に片方だけ落ちている靴下。

「いろいろあるんだよ」

『何が』

「いろいろ!」

『そこ、俺の家でもあるんだから、いつ帰ってもいいだろ』

「いや、それはそうだけど……分かるだろ」

『全然分からん』

「……」

『お前、部屋汚してないだろうな』

「ないない。大丈夫」

 海翔は床を見ながら答えた。

『本当か?』

「大丈夫だって」

『まあいい。とにかく行くから、そのとき話そう』

「分かった」

 電話が切れた。

 海翔はしばらくスマートフォンを見た。

「明後日……」

 そして部屋を見る。

「今日、休む予定だったんだけどな」

 卒論提出後の最初の仕事が、大掃除に決まった。


 *


 夕方まで片づけたところで、海翔は力尽きた。

「続きは明日」

 ゴミ袋を3つ作った。

 なぜ大学生の部屋から、これだけ不要な物が発掘されるのか自分でも分からない。

 夕食を買ってきて、ビールを1本だけ開けた。

「昨日あれだけ飲んだのに、また飲むのか」

 自分で言いながら飲んだ。

 机には、提出した卒論をプリントアウトしたものが置いてある。

 何となく最初から読み返した。

「まあ……」

 ページをめくる。

「悪くないな」

 自分なりには満足していた。

 VOICEの誕生。

 自治。

 政治資金問題。

 年金。

 人口減少。

 産業政策。

 社会への波及。

 一つの制度が少しずつ怪物へ育っていく過程は、それなりに書けたと思う。

 ただし。

 一つだけ、大きなテーマをほとんど入れていなかった。

「安全保障なんだよな」

 これは意図的だった。

「現在進行形すぎる」


 *


 2040年ごろから、日本周辺の空気は明らかに変わっていた。

 中国では指導部が交代している。

 国内の景気停滞や社会不安もあり、新政権は以前より強い対外姿勢を示すようになった。

 東シナ海では中国海警局や海軍艦艇の活動が増えた。

 日本の離島周辺では、

 「航行上の警告」

 を名目にした無線での牽制が常態化していた。

 台湾周辺でも大規模演習が繰り返される。

 一度など、中国側が設定した演習海域が日本の排他的経済水域と極めて近く、

 「演習なのか、封鎖の予行なのか」

 と日本のメディアが連日報じたこともある。

 中国政府は、

 「通常の訓練であり、日本が過剰反応している」

 と回答した。

 日本政府は、

 「重大な関心を持って注視する」

 と回答した。

 国民からは、

 「注視って便利な言葉だな」

 とVOICEで突っ込まれていた。


 *


 一方、頼みのアメリカも以前とは違った。

「昔は世界の警察とか言われてた時代もあったらしいけど」

 海翔はビールを飲んだ。

 アメリカは、20世紀末から21世紀前半にかけて、何度も海外紛争へ深く関与した。

 そのたびに膨大な費用と兵士の犠牲を出している。

 国内には、

 「なぜアメリカ人が他国の戦争で死ななければならないのか」

 という感情が根強く残った。

 2040年代の保守政権は、その傾向をさらに強めていた。

 同盟そのものを否定するわけではない。

 しかし、

 「同盟国は、まず自国を自国で守る努力をすべきだ」

 という要求は以前より露骨になった。

 米大統領が演説で、

 「アメリカの若者は、十分な防衛努力をしていない豊かな同盟国の代わりに戦うために存在するのではない」

 と発言したことも大きなニュースになった。

 別の政府高官は、日本について、

 「重要な同盟国である。しかし同盟とは依存ではなく分担である」

 と語った。

「要するに、自分でもっとやれってことだよな」

 海翔はつぶやいた。

 アメリカが日本を見捨てたわけではない。

 だが、

 必ず助けに来る。

 そう無条件に信じられる時代でもなくなっていた。

「寄りかかりっぱなしは無理か」


 ***


 海翔は動画配信サイトを開いた。

 3年前の映像を検索する。

 防衛大臣記者会見。

「あった」

 再生する。

 画面に現れたのは高山だった。

「高山さんが防衛大臣になったころか」

 かつてVOICEを警戒し、三浦と対立した政治家。

 その後、外交・安全保障畑を歩き、防衛大臣になっていた。

 海翔は机の横から別のノートを取り出した。

「ここからNINJAだな」


 *


 記者会見の映像で、高山は少しだけ笑っていた。

『今回の新しい防衛構想ですが、正式には――』

 手元の資料へ視線を落とす。

『“統合自律運用のためのネットワーク化された分散ノード”と呼んでいます』

 記者席から、すでに何人かがメモを取っている。

『英語名では、Networked Integrated Nodes for Joint Autonomy』

 高山はそこで一度区切った。

『頭文字を取りますと、NINJAとなります』

 記者席から少し笑いが起きた。

『NINJA、ですか』

『はい』

『日本語の“忍者”を意識した名称だと思いますが』

 高山は真顔を作った。

『いえ。まったくの偶然です』

 1秒。

『……と言いたいところですが』

 また笑いが起こった。

『防衛政策は国民の理解が不可欠です。覚えていただきやすい名称にした、というのが正直なところです』

『かなり狙っていますね』

『広報担当は喜んでおります』

 そのくらいまでは会見も和やかだった。

『では、具体的な構想をご説明します』

 そこから高山の長い説明が始まった。

 海翔は迷わず再生速度を2倍にした。

「高山さん、話長いんだよな」


 *


 手元のノートを開く。

 これは珍しく手書きだった。

 専門用語だらけの高山の説明を、自分なりに噛み砕いてまとめたらしい。

 まず背景。

 ・日本への軍事的圧力は以前より高まっている。

 ・アメリカからも、日本自身の防衛力強化を求められている。

 ・しかし財政には限界がある。

 ・さらに人口減少で、自衛隊員の確保も難しくなっている。

「金もない。人もいない。でも危険は増えてる、か」

 そこだけ読むと身も蓋もない。

 続いてNINJA構想。

 ・キーワードは、小型、安価、大量、自律、分散。

 ・大型装備だけに依存せず、多数の小型無人システムを組み合わせる。

 ・可能な限り国内で製造できる設計とする。

 ・巨大な専用工場だけでなく、幅広い国内製造基盤を活用できるよう標準化する。

 ・大規模拠点へ戦力を集中させず、小さな拠点へ分散する。

 ・拠点の一部は移動可能にし、固定施設への依存を下げる。

 ・指揮機能も分散し、通信が一部途絶しても現場が一定時間行動できるようにする。

 ・AIは状況整理や情報統合を支援するが、重要な判断は人間が行う。

 海翔は見直した。

「要するに、でっかいもの1個を守るより、小さいものをいっぱい持つってことか」


 *


 映像では、記者から質問が出ていた。

『中国をはじめ各国では、人型ロボット技術も大きく進歩しています。NINJAでも、人型の無人機を大量運用するのでしょうか』

 高山が答える。

『人型についても研究対象ではあります。ただし、人間と同じ形にすること自体を目的にはしていません』

『では主力は?』

『詳細は申し上げられませんが、単一の万能機を作るよりも、役割を限定した複数種類の小型無人システムを組み合わせる方向です』

『昆虫を参考にしたものがあるという報道もあります』

『生物の構造や行動から着想を得た研究は行われています』

『昆虫型ということでしょうか』

『そこから先は想像にお任せします』

 記者席から笑いが漏れた。

 高山もわずかに笑った。

『ただし、一つ申し上げられることがあります』

『何でしょう』

『我々が重視しているのは、遠く離れた国へ大規模な攻撃を行う能力ではありません』

 会場が少し静かになった。

『日本へ接近し、あるいは日本国内へ侵入しようとする相手にとって、“どこに、どれだけの防御手段があるのか分からない”状態を作ることです』


 *


「なるほど」

 海翔は思った。

「確かに忍者だ」

 どこにいるか分からない。

 見つけにくい。

 一つ壊しても終わらない。

 巨大な兵器1台より、一見取るに足らない小さなものがあちこちにある。

 名称だけは冗談めいている。

 だが発想はかなり不気味だった。

 しかも日本の産業構造には合っている気がした。

 巨大兵器を少数生産するには、巨大企業と大規模設備が必要になる。

 だが、小型で標準化された機材なら、部品単位では全国の中小工場も関われるかもしれない。

「町工場でNINJAの部品作ってるとかあるのかな」

 あったとしても、何を作っているのか従業員自身が全部は知らない可能性もある。

 海翔は少し背筋が寒くなった。


 *


 記者が質問を続けた。

『お話を伺っていますと、市街地での戦闘まで現実的に想定しているように聞こえます』

 高山は少し表情を変えた。

『はい』

 短かった。

 記者側も一瞬詰まった。

『……市街戦を想定していると?』

『日本が攻撃される可能性を想定して防衛計画を作る以上、人口の多い地域で何も起こらないという前提には立てません』

『これまでより踏み込んだ発言ではありませんか』

『危機が以前より具体的になっている、と政府は認識しています』

『実際の市街地を使った訓練も行うのでしょうか』

『基本的には専用の訓練施設を使用します。建物、道路、地下施設などを模した環境を整備します』

『ただ、実戦では民間人がいます』

『そこが最も難しい点です』

 高山は答えた。

『装備だけ訓練しても、実際の都市防衛にはなりません。住民をどう避難させるか。行政とどう連絡するか。通信が途切れた場合にどうするか。医療をどう維持するか。そうした部分について、将来的には自治体や民間の皆様にも訓練へご協力いただく必要が出てくると思います』


 *


「これ、インパクトあったんだよな」

 海翔は覚えていた。

 翌日のニュースでは、

 『防衛相、市街戦を想定』

 『民間人参加の訓練も検討』

 という見出しが並んだ。

 それまで戦争は、

 海の向こう。

 ニュース映像。

 戦闘機。

 艦船。

 ミサイル。

 そういうものだった。

 高山は、

 自分の住んでいる町で起きるかもしれない

 という形に変えてしまった。


 *


 別の記者が手を挙げた。

『確認ですが、NINJAでは自衛官が一般市民の中に紛れて行動することも想定しているのでしょうか』

『いいえ』

 高山は即答した。

『そこは明確に申し上げます。自衛官は自衛官として行動します』

『しかし拠点を分散し、目立たなくするのであれば、市民と軍事要員の区別が曖昧になるのではないかという懸念があります』

『その懸念があることは理解しています』

『市民が攻撃対象と誤認される危険は?』

『だからこそ、制服、識別、指揮系統、施設運用などについて国際法上の区別を維持する必要があります』

 高山はそこで少し語調を強めた。

『NINJAは、市民を兵士に見せる構想ではありません』

『では何を分散するのでしょう』

『自衛隊の機能です』

『民間社会へ溶け込ませるわけではない?』

『違います。国民を盾にするような発想は採りません』


 *


 海翔はノートを閉じた。

「これが3年前か」

 NINJA構想は、すでに動き始めている。

 ただし。

 何が動いているのかが、よく分からない。

 発表当初、

 昆虫を参考にした小型無人機

 という言葉だけが1人歩きした。

 だが、その後具体的な姿はほとんど公開されなかった。

 大きさ。

 形。

 種類。

 能力。

 運用数。

 どんな任務へ使うのか。

 どれも曖昧だった。

 公開されているのは、

 小型。

 自律。

 分散。

 という概念だけである。

「今どき、小さい無人機なら屋内でも試験できるもんな」

 大型戦闘機なら隠せない。

 戦車でも限界がある。

 滑走路もいる。

 訓練場もいる。

 衛星写真に映る。

 だが、NINJAは違う。

 巨大な格納庫そのものが必要なのかすら分からない。

 ネット上では、

 地下の大規模模擬都市で試験している

 という噂もあった。

 証拠はない。

 一度、

 従来型装備を中心とする部隊とNINJA実験部隊が模擬戦を行い、NINJA側が圧倒した

 という記事が出た。

 防衛省は肯定も否定もしなかった。

「一番気になる回答だよな、それ」


 *


 基地の姿も変わり始めていた。

 海翔が知っている場所でも、自衛隊施設の近くにあった古い宿舎が取り壊された。

 発表は、

 老朽化に伴う廃止。

 それだけだった。

 では、そこに住んでいた自衛官はどこへ行ったのか。

 もちろん普通の住宅に住めばいい。

 自衛官だって日本国民である。

 マンションでも、一戸建てでもいい。

 ただ、有事の際に短時間で集まる必要がある職業なら、勤務先からあまりにも遠くへばらばらに住むのは不便なはずだった。

 それでも分散している。

 もしかすると、勤務先そのものが以前ほど固定されていないのかもしれない。

 海翔は窓の外を見た。

 普通のオフィスビル。

 倉庫。

 配送センター。

 工場。

 大型トレーラー。

 どれも、見た目だけなら何でもない。

 だがNINJA構想を知ったあとだと、少し違って見える。

「いや……」

 自分で考えて、首を振った。

「考えすぎだろ」

 そう思った。

 だが。

 敵から見ても、

 そう思わせること

 こそが、この構想の狙いなのかもしれない。

 どこにいるのか分からない。

 何が基地なのか分からない。

 どこまで準備されているのか分からない。

 攻めれば、何が出てくるのか分からない。

 海翔は小さくつぶやいた。

「自国民から見ても不気味すぎるだろ、NINJA」

 そして、3年前の高山の記者会見をもう一度見た。

 画面の中の高山は、あのころと同じ落ち着いた表情で、

 「抑止とは、相手に成功を確信させないことでもあります」

 と話していた。

 海翔は再生を止めた。

「……そういう意味か」

 NINJA。

 その名の通り。

 見えないことそのものが、武器になり始めていた。


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