同じ机に座る人たち
市民会議が始まった。
森岡は、これまで何度もVOICEの市民会議で司会を務めてきた。
自分の意見を言わないこと。
声の大きな人間だけに話を支配させないこと。
知識がない人間を恥ずかしがらせないこと。
分からないことが出たら、その場で確認すること。
それが自分の仕事だと思っていた。
円形に並べた机には、5枚の名札が置かれている。
本名は使わない。名の最初の2文字を使い、重なれば番号を付ける。今回は、うまい具合に重ならなかった。
《トシ》《カヨ》《ミカ》《アキ》《ヒデ》
森岡は、全員の顔を見渡した。
「最初に、年金のことをものすごく簡単に言います」
壁のモニターに、若者から高齢者へ向かう矢印を出した。
「今働いている人たちが、今の高齢者を支える。ところが、支える人は減り、支えられる人は増えている」
「それだけ?」
誰かが聞いた。
「今日は、それだけで十分です」
細かな仕組みは、必要になったときに調べればいい。
森岡はモニターを消した。
「まず、皆さんが何を不安に思っているのか、聞かせてください」
最初に口を開いたのは、50代の男性だった。
名札には《トシ》とある。
「そもそもさ。年金だけで、やっていけるのかって話なんだよね」
トシは、机の上で両手を組んだ。
「俺も、もう少しで60なんだけど、ほとんど国民年金だけなんだ。さっき試算してもらったら、月10万円に届かなかった」
自嘲するように笑った。
「今じゃ、ラーメン1杯1500円だろ。10万円もないんじゃ、相当きついよ」
「自営業だったのですか」
40代の女性、《カヨ》が聞いた。
「一度は就職した。でも、人間関係がうまくいかなくて辞めた。そのあとフードデリバリーをやったり、派遣で働いたり。まあ、どれも長くは続かなかった」
「未納期間があるのですか」
「ないよ。免除の手続きをしたことはあるけど、払えるときは払ってきた。それで10万円に届かないんだからな」
トシは自分の腕を軽く叩いた。
「体が動くうちは働くよ。でも、いつまでもつか分からない」
「ご家族は?」
「1人だよ。結婚なんてできなかった。養ってくれる子供もいない」
少し間を置いて、付け加えた。
「まあ、俺みたいなのは少数派だろうけど」
「極端な少数派ではありません」
森岡が官兵衛に尋ねると、壁に数字が出た。
「前年の調査では、1人暮らしで、いざというとき頼れる近親者がいない人は約5%です」
「5%か」
「65歳以上だけでも、およそ200万人です」
「けっこういるんだな」
トシは数字を見上げた。
自分だけではない。それが救いなのか、別の不安なのか、森岡には分からなかった。
「確認したいのですが」
カヨが手を挙げた。
「年金が10万円以下なら、生活保護のほうが多くありませんか」
「単身者の最低生活費を月14万円とすると、そうなります」
「では、年金をもらう年齢になっても働かないと暮らせない?」
「そういう方は、すでに少なくありません」
「でも、俺もいつかは働けなくなるよ」
トシが言った。
「そのときは?」
「ほかに収入や資産がなければ、年金との差額を生活保護で補うことになります。年金が9万円なら、差額の5万円です」
「なるほどね」
トシはそう言ったが、まったく納得していない顔だった。
その表情を見ていた30代の女性が、身を乗り出した。
名札には《ミカ》とある。
「私の知り合いに、仕事が続かなくて、ずっと遊んでいる人がいるんです」
声を聞いただけで、その知り合いが好きではないことが分かった。
「年金も、ほとんど払っていません。その人が年を取って働けなくなったら、いくらもらえるんですか」
「収入も資産もなく、生活保護の条件に当てはまれば、月14万円です」
「えっ。それって不公平じゃないですか」
ミカの声が大きくなった。
「トシさんみたいに真面目に払ってきた人は、生活保護から5万円。その人は14万円。払わないほうが得じゃないですか」
「トシさんには、9万円の年金があります」
「でも、最後に手元に入るのは、どちらも14万円ですよね」
森岡は少し考えた。
「働けなくなった時点だけを切り取れば、そう見えます」
「ほら」
「ただ、トシさんが65歳から75歳まで働けたとします。給与とは別に月9万円の年金を受け取れば、10年間で1080万円になります」
壁に計算が出た。
「生活保護は、収入があれば、その分が調整されます」
「でも、その人、すごく不摂生なんです。65歳で働けなくなるかもしれない」
「不摂生かどうかで決まるわけではありませんが」
「仮にです。65歳から月14万円なら、75歳まででいくらですか」
官兵衛が答えを出した。
1680万円。
「トシさんより600万円も多いじゃないですか」
「かなり条件を限定した比較です」
「でも、そういう人が実際にいるんです」
ミカは唇を尖らせた。
――元彼だな。
その場にいた何人かが、同じことを考えた。
森岡も、たぶんそうだろうと思った。
「理屈は分かるよ」
トシが苦笑した。
「生活できない人を放っておけない。でも、払ってきた人間が面白くないのも本当だ」
「そうですね」
森岡はホワイトボードに2つの言葉を書いた。
生活を守る公平。
負担に報いる公平。
「どちらも公平です。ただ、同時に完全には満たせない」
最初の論点が、ようやく見えた。
*
「話を変えてもいいですか」
《アキ》と書かれた名札の前で、20代の若者が手を挙げた。
「僕が年金をもらうのは、40年くらい先ですよね。そのとき、いくらもらえるんですか」
「正確には分かりません。今の条件が続くとして、試算だけしてみましょう」
官兵衛に尋ねる。
「名目では、月11万円前後です」
「今より増えるんですか」
「物価も上がります。今ならラーメン70杯分。2080年なら50杯分くらいです」
「えっ。実質的には減ってるじゃないですか」
「そうなります」
「それって、払った額の元を取るには、何歳まで生きればいいんですか」
「いい質問だねぇ」
それまで黙っていたヒデが、なぜか森岡より先に評価した。
「官兵衛に聞いてみます。かなり大ざっぱな計算ですよ」
数秒後、数字が表示された。
「90歳前後です」
「90歳!」
アキが椅子の背にもたれた。
「それなら、民間の年金保険のほうがよくない?」
ミカが言う。
「いや、自分で投資したほうがいいだろ」
トシも加わった。
「この制度、終わってるね」
カヨが、あっさり言った。
「制度そのものは維持できます」
森岡は訂正した。
「残せるんですか」
「保険料を上げるか、受け取る額を下げるか、受給年齢を遅らせれば」
「それ、維持できるって言うの?」
カヨが眉を寄せる。
「制度が残ることと、その制度で暮らせることは別です」
「俺みたいに、貯金も家族もない人は増えてるんですよね」
トシが聞いた。
「はい」
「じゃあ、やっぱり終わってる」
カヨは、ため息をついた。
森岡は、それ以上訂正しなかった。
*
ずっとタブレットを触っていたヒデが、顔を上げた。
「僕が考えるにぃ」
独特の間があった。
「皆さん、ちょーっと難しく考えすぎなんですよねぇ」
――どうして、この人は語尾を上げるんだ。
誰かが言ったような気がした。
「少し、いいですかぁ」
返事を待たずに立ち上がり、ホワイトボードへ向かう。
――たまにいるな、こういう人。
森岡は止めなかった。
こういう人は、ある程度しゃべらせたほうが早く座る。
ヒデは30代半ばだろうか。
ジーンズに黒のタートルネック、その上にジャケット。手には薄型のタブレット。
偶然だと言い張るには、そろいすぎていた。
――ジョブズかよ。
また誰かが言った気がした。
今度は、ミカが口元を押さえている。
ヒデはホワイトボードに書いた。
年金。
生活保護。
「この2つ、大ざっぱに言えば、同じですよねぇ」
「目的は違いますが、生活を支える公的なお金という点では重なります」
「でしょう。だったら、まとめちゃいましょう」
2つの言葉から矢印を引き、その先へ大きく書いた。
ベーシックインカム。
「これ、分かり――」
「分かります。全員にお金を配る制度ですよね」
カヨが途中で答えた。
ヒデは、一番おいしいところを取られた顔をした。
だが、すぐに笑みを取り戻す。
「そうそう。年金と生活保護を、これに変えるんです。18歳以上の全国民に、毎月14万円」
「全員に?」
アキが聞いた。
「ザッツ・ライッ!」
なぜか右手の人差し指を立てる。
「年金保険料もなくなるから、現役世代は手取りが増えます」
「俺も、年金9万円じゃなくて14万円?」
「ザッツ・ライッ! しかも、働いても減りません。14万円プラス給料です」
「お金持ちにも配るんですか」
「ザッツ・ライッ! ただし課税する。所得の高い人からは、あとで税金として戻してもらいます」
「それなら、低所得の人ほど手元に多く残せますね」
森岡は補足した。
同時に、誰が司会なのかも思い出してもらいたかった。
「でも、14万円もらえたら、働かないで遊ぶ人が増えませんか」
ミカが言った。
「グッド・クエスチョン」
ヒデが振り返る。
「食品や家賃にしか使えないポイントで配りましょう。遊ぶ金は、自分で働いて稼ぐ」
「それなら、まあ……」
ミカはうなずきかけた。
「ただ、使い道を決めると、制度が複雑になります」
森岡が口を挟んだ。
「外食はいいのか。通院のタクシーはどうか。家族への送金はどうか。決め始めれば、また役所の仕事が増えます」
「デジタルなら簡単ですよ」
「何を許すかを決めるのは、人間です」
ヒデの笑顔が、少し固まった。
「では、ポイント方式も選択肢として残しましょう。フレキシブルに」
「良い案だと思いますけど」
カヨが聞いた。
「財源はどうするのですか」
ヒデの動きが止まった。
「そこは、僕にもクリアなアンサーはないんだ」
胸を張るところではないはずだが、妙に堂々としていた。
「皆でディスカッションして、ソリューションをクリエイトしましょう」
――考えて無いのかよ!
今度こそ、全員の心の声が聞こえた気がした。
ヒデは満足そうに席へ戻った。
***
「では、その思いつきに値段を付けてみましょう」
森岡が立ち上がった。
「ただし、今日は制度が完成したあとの姿だけを考えます」
「完成したあと?」
トシが聞いた。
「今の年金から、どうやって新しい制度へ切り替えるか。それは法律や権利が絡む専門的な話になります。そこは、あとで専門家に考えてもらいましょう」
「難しい話は専門家に任せる?」
「役割分担です。私たちはまず、どこへ行きたいのかを決めます」
「橋の架け方より、向こう岸を決めるわけか」
トシが言った。
「そういうことです」
「成人全員に月14万円。年間で、約166兆円です」
「高っ」
アキが声を漏らした。
森岡は、ホワイトボードへ数字を書いた。
ベーシックインカム 166兆円。
「ただし、年金を統合すれば、その給付費73兆円を振り替えられます」
「残り93兆円」
カヨが計算した。
「さらに、ベーシックインカムを課税対象にすると、約23兆円が税金として戻ります」
「残り70兆円」
「企業が払っていた年金保険料を給与に回し、そこから入る税金が約5兆円」
森岡は、最後の数字を大きく書いた。
不足 65兆円。
部屋が静かになった。
あまりに大きな数字は、現実感を失わせる。
それでも、途方もなく大きいことだけは全員に分かった。
「やっぱり無理なのかな」
カヨが言った。
ヒデは急にタブレットへ視線を落とし、忙しそうな顔をしていた。
「でも」
アキが手を挙げた。
「14万円が入って、年金保険料がなくなって、企業が払っていた分も給与に入るんですよね」
「はい」
「だったら、所得税を上げても、収入の低い人は今より手取りが増えるんじゃないですか」
「わかりました。税率を上げて計算してみましょう」
官兵衛が、いくつかの税率を組み合わせ始めた。
森岡は、結果だけをモニターへ出した。
年収300万円 手取りは年間140万円増。
年収800万円 手取りは年間42万円増。
年収1500万円 手取りは年間137万円減。
「低所得の人ほど得をして、高所得の人は負担が増えるのですね」
カヨが言った。
「この税率なら、所得税で40兆円を確保できます」
「年収1500万円で137万円減るのか」
トシが腕を組んだ。
「俺には縁のない悩みだけど、本人は嫌だろうな」
「不満は出るでしょうね」
森岡は、不足額を書き直した。
残り25兆円。
「そこはVATだよ」
席へ戻ってから静かだったヒデが、再び割って入った。
「VATって何ですか」
アキが聞く。
「まだ若いからねぇ。VATは知らないか」
「私も知りません」
トシが言った。
「いや、失礼。VAXは、Value Added Tax。日本語では付加価値税です」
「付加価値税も知りません」
「消費税です」
――最初から消費税って言えよ。
また誰かの声が聞こえた。
森岡は、もう犯人を捜すのをやめた。
「外国ではVATと呼ぶことが多いんですよ。消費者だけじゃなく、企業が利益を減らして負担することも――」
「分かりました。ヒデさんは物知りですね」
アキが素直に言った。
「いや、それほどでも……」
急に声が小さくなった。
――この人、褒めると弱いな。
今度は間違いなく、森岡自身の心の声だった。
「では、ヒデさんのVATで25兆円を集めると、どのくらい上がりますか」
官兵衛が答えを出した。
VAT +5%。
「5%か。買い物のたびに取られると思うと、きついな」
トシがつぶやいた。
「でも、月14万円もらえるんですよね」
ミカが言った。
「私の年収なら、税金が増えても手取りは増える」
「生活保護と違って、働いても14万円は減らない?」
アキが聞いた。
「減りません」
「それなら、少しだけ働く人も増えるかもしれないですね」
「逆に、働かなくなる人もいるかもしれない」
ミカが返す。
「それは、やってみないと分かりません」
「それに、年金と生活保護をまとめれば、役所の事務も減りますよ」
ヒデが言った。
官兵衛に尋ねると、年間3000億円ほどの削減余地があると出た。
「3000億!」
アキが驚く。
「ただし、ポイントの使い道を細かく管理すれば、その分だけ役所の仕事は戻ってきます」
森岡が言うと、ヒデは露骨に残念そうな顔をした。
「自由にすれば簡単。でも、何に使われても文句を言わない覚悟がいる」
カヨが言った。
「そういうことです」
森岡はホワイトボードを見た。
166兆円から始まった数字は、どうにかゼロまでたどり着いていた。
もちろん、計算の上だけだ。
「それでも、この案を次の会議へ出しますか」
森岡が聞いた。
「俺は出したい」
最初に答えたのは、トシだった。
「9万円の年金を心配し続けるより、話し合う価値はある」
「私も」
カヨがうなずいた。
「全員が同じ金額なら、今の制度より分かりやすいと思います」
「私は、ポイント方式も」
ミカが言う。
「現金と、ポイント。両方の案を出しましょう」
「僕も賛成です。働いても14万円が減らないなら、今より納得できます」
アキも手を挙げた。
最後に、全員の視線がヒデへ集まった。
「僕は、もちろん賛成です」
満足そうに腕を組む。
「オリジナルの発案者ですからねぇ」
森岡は、ホワイトボードに並んだ数字を見た。
最初にヒデが書いたのは、たった1つの言葉だった。
ベーシックインカム。
財源もなかった。
細かな制度設計もなかった。
反対されたときの答えもなかった。
だが、5人で話し、数字を当て、穴を見つけていくうちに、少なくとも次の会議へ持っていける案にはなった。
市民会議は、賢い人が正解を教える場所ではない。
誰かが思いつく。
誰かが穴を見つける。
別の誰かが、その穴を塞ぐ方法を考える。
すると、また別の穴が見つかる。
たぶん、それでよかった。
この案は、合同市民会議で共有された。
反対意見は山ほど出た。
財源が甘い。
働かない人が増える。
金持ちが国外へ逃げる。
VATを上げれば物価も上がる。
ポイントで消費を管理するのは危険だ。
それでも、案は消えなかった。
反対されるたびに形を変え、削られ、付け足され、いくつかある政策案の1つとして国へ提出された。
*
海翔は、この話をVOICEの記録庫と、当時の参加者が残した投稿から拾っていた。
公式記録には、発言と数字が整然と並んでいる。
だが、ヒデが黒のタートルネックを着ていたことも、何度も「ザッツ・ライッ!」と言ったことも書かれていない。
《ジョブズみたいな人が、いきなり立ち上がって、ベーシックインカムと書いた》
その投稿を書いた者が、本当に同じ部屋にいたのかも分からなかった。
森岡が参加者の心の声を聞いたという部分に至っては、後から加えられた冗談だろう。
どこまでが事実で、どこからが脚色なのか。
海翔には判断できなかった。
ただ、そのグループからベーシックインカム案が出されたことは、公式記録にも残っていた。
ほかの案と混ざり、専門家に穴を指摘され、何度も修正され、VOICEの全体投票へ進んだことも事実だった。
そして今、ベーシックインカムは正式に採用され、5年後の実施へ向けた準備が始まっている。
最初の案が、そのまま採用されたわけではない。
支給方法も、所得税とVATの割合も、物価が上がったときの金額も、あとから何度も作り直された。
市民会議が決めたのは、どこへ行きたいかだった。
今の制度から、そこへどう橋を架けるのか。それは法律家や社会保障の専門家、官僚たちへ引き継がれた。
橋はまだ完成していない。
それでも、向こう岸は見えている。
それでも、財源すら考えていなかった1人の思いつきが、国の制度を変えるところまで来た。
専門家だけで作れば、もっと早かっただろう。
計算も、ずっと正確だったはずだ。
だが、専門家だけなら、最初から机に載らなかった案かもしれない。
市民会議の価値は、正しい答えを出すことではない。
突飛な案を、突飛だという理由だけで捨てないこと。
誰か1人の正解ではなく、皆で引き受けられる不完全な答えへ近づけていくこと。
海翔は卒業論文の余白に書いた。
――思いつきを政策に変えるのは、賢い1人ではない。穴を見つけ合える複数の人間である。
書いてから、少し考えた。
「これも、ちょっと格好つけすぎかな」
そう言って笑ったが、消しはしなかった。




