年金会議の入口
海翔は、この年金問題をかなり重要な出来事として扱うことにした。
VOICEが政府と協力し、国民の間で利害が大きく対立する国家的な問題を解決しようとした、最初の本格的な事例だからである。
もちろん、その後VOICEは多くの政策に関わっていく。
医療。
教育。
人口減少。
税制。
エネルギー。
安全保障。
しかし、それらをすべて卒業論文で追う必要はないと海翔は考えた。
飛行機の歴史を書くとして、ライト兄弟が飛行機を作り、飛べるようにしていく過程と、その後に飛行機が旅客輸送、軍事、物流、観光などへ使われていく話は、少し性格が違う。
VOICEについても同じだ。
どのように生まれ、どのように政治制度へ変化していったのか。
そこまでを追えばいい。
その後、完成したVOICEを社会が何に使ったかは、別の研究になる。
「となると……」
海翔は父のノートをめくった。
「年金は外せないな」
*
黒沢がV監の委員に選ばれたのは、72歳のときだった。
本人に言わせれば、
「どうして私なんでしょうね」
という人選だった。
特別な経歴があるわけではない。
大学教授でもない。
元官僚でもない。
大企業の経営者でもない。
若いころには金持ちになりたいと思った。
30代で一度、小さな会社を起こしたこともある。
うまくいかなかった。
2年ほどで畳み、借金を返しながら会社員に戻った。
結婚した。
子供もできた。
その後は普通の会社員として働いた。
課長。
部長。
そこまでは行った。
だが役員候補になるような人間ではなかった。
60歳で定年。
再雇用で数年働き、その後は警備員や施設管理のアルバイトをした。
70を過ぎてからは、週に2、3日だけ働いていた。
自分では、
ごく普通の人生
だと思っている。
V監の代表選挙へ立候補したのも、大きな野心があったからではない。
「もう自分のために何かしようって年でもないからね」
候補者紹介の動画でそう話した。
「若いころは金持ちになりたかったし、偉くもなりたかった。でも、どっちもなれませんでした」
そこで笑った。
「だったら最後くらい、少し世の中の役に立ってから終わってもいいかなと思いまして」
その言葉が意外なほど支持された。
華々しい経歴を持つ候補者よりも、
失敗して、働いて、家庭を持ち、定年して、年を取った普通の人
であること自体が評価されたのかもしれない。
*
そんな黒沢が、年金問題の担当チームに入ることになった。
担当といっても、年金制度を黒沢自身が決めるわけではない。
市民会議をどう構成するのか。
どんな資料を出すのか。
専門家をどう配置するのか。
議論の進め方に偏りがないか。
それを判断する役である。
ある日、黒沢は途中経過を説明するため、デジタル庁を訪れた。
「市民会議の進め方について、ご報告に来ました」
案内された部屋には、担当職員の二宮がいた。
黒沢が聞いたところでは、VOICE創設期には北村という官僚が長く担当していたらしい。
その北村はすでに昇進し、別部門へ移っていた。
そして、その日は政治家も1人同席していた。
三浦だった。
黒沢は少し安心した。
官僚というものは、どうも緊張する。
こちらが何を言っても、
――その話はすでに全部分かっています。
という顔をされるような気がする。
実際の二宮はそんな人物ではなかったが、黒沢の側に勝手な引け目があった。
その点、三浦には妙な親近感がある。
「黒沢さん、どうも」
三浦が先に立ち上がった。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ」
「僕も途中から参加させてもらいます」
三浦と二宮は、黒沢が来る前まで何か別の話をしていたらしい。
2人とも笑っていた。
黒沢も少し肩の力が抜けた。
*
簡単な世間話のあと、本題へ入った。
「まず、市民会議の参加年齢についてです」
黒沢が資料を開いた。
「今回は15歳以上にしたいというのが、V監側の結論です」
二宮が顔を上げた。
「15歳ですか。中学生も入りますね」
「はい」
「市民会議としては初めてでしたっけ?」
「いえ。VOICEのSNS機能を未成年にどこまで使わせるかという議論で、10代の参加者を入れた前例があります」
「ああ。北村さんが担当していたころですね」
「そう聞いています」
三浦が口を挟んだ。
「僕はいいと思いますよ」
2人が見る。
「年金って、70歳の人だけの問題じゃないでしょう」
「はい」
「15歳なら数年後には保険料を払う側になる。しかも一番長く制度の影響を受ける世代です」
黒沢もうなずいた。
「V監でも同じ意見でした」
*
「もう一つ、いつもの市民会議と違うところがあります」
黒沢が続けた。
「通常は、V監や運営側である程度の原案を作ります」
「そうですね」
二宮が答えた。
「ゼロから48人に考えてもらうより、そのほうが早い」
「はい。VOICEは、まず作ってみる。それで駄目なら直す、というやり方をしてきました」
三浦が笑った。
「間違ってたら、ためらわず変える」
「それがVOICEの文化ですからね」
「ところが今回は、その方法を取らないことにしました」
二宮の表情が少し真剣になった。
「年金だからですか」
「はい」
黒沢は答えた。
「今回、VOICEで出た結論は、法的には参考意見です。最終決定は国会です」
「ええ」
「ただ……」
黒沢は少し言葉を選んだ。
「最近はVOICEの提案が、かなり高い割合で実際の政策に取り入れられています」
三浦の笑顔が少しだけ薄くなった。
「そうですね」
「そうなると、事実上の影響力はかなり大きい」
「はい」
「年金は、一度決めたあとに『やっぱり来月から戻しましょう』とはできません」
二宮がうなずく。
「数千万人の生活設計に影響しますからね」
「はい。企業の雇用計画にも影響します。数年単位で制度を維持することになるでしょう」
「だから最初から解決案を置かない?」
「そうです」
黒沢は別の資料を2人へ渡した。
「まず、問題点と、それぞれの立場の主張だけを整理しました」
*
表紙には、
『年金制度をめぐる現状と主な論点』
――2039年時点・VOICE情報利用監督委員会整理資料
と書かれていた。
冒頭には、この資料の目的が簡潔に記されていた。
この資料では、どの意見が正しいかを決めません。解決策も示しません。
年金問題では、ある人にとって望ましい変更が、別の人の負担になることがあります。
まず、それぞれの立場を知ることから始めます。
二宮は数ページ読み進めた。
「かなり平易にしていますね」
「15歳でも読めることを基準にしました」
「専門用語をほとんど使っていない」
「使う場合は、その場で説明を入れています」
三浦もページをめくった。
現役世代。
高齢者。
若者。
企業。
政府財政。
資産のある高齢者と、年金だけで暮らす高齢者。
会社員と自営業。
子育て世帯。
それぞれの立場が並んでいる。
*
資料は最初に、公的年金の基本的な仕組みを説明していた。
自分が払った保険料が、そのまま自分専用の口座に貯められているわけではないこと。
現在働く世代の保険料や税金などによって、現在の高齢者を支える部分が大きいこと。
そして将来、自分が高齢者になれば、その時代の現役世代に支えてもらうこと。
少子高齢化が進めば、そのバランスが難しくなる。
ただし、
「明日突然、年金がなくなる」
という意味での破綻ではない。
問題は、
誰がいくら払い、誰がいくら受け取るのか。
そこにある。
給付を減らす。
保険料を増やす。
税を増やす。
受給開始時期を遅らせる。
長く働いてもらう。
どの案にも負担する人間がいる。
全員が得をする魔法の解決策はない。
*
高齢者側の主張としては、
「何十年も保険料を払ったあと、老後になって約束を変えられても対応できない」
「年金だけで暮らしている人間にとって、月数千円の減額でも大きい」
という意見。
現役世代側からは、
「社会保険料はすでに重い」
「自分たちが高齢者になったとき、同じ条件でもらえる保証があるのか」
という意見。
若者からは、
「自分たちが参加していない時代に作られた制度の負担を、なぜ引き受けなければならないのか」
という疑問。
一方で、
「自分もいつか高齢者になる。老後に困窮する社会にもしたくない」
という意見も併記されていた。
高齢者も一枚岩ではない。
現役世代も一枚岩ではない。
企業負担を増やせば企業だけが損をするとも限らない。
賃金。
雇用。
価格。
最終的にはどこかを通じて国民に影響する。
税金を投入すれば、年金以外に使える予算が減る。
国債なら将来世代に回る。
最後にはこうまとめられていた。
高齢者の生活を守る必要がある。
現役世代の負担にも限界がある。
将来世代へ負担を押しつけすぎることもできない。
年金問題とは、この3つをどのように両立させるかという問題です。
*
「これなら10分くらいで読めますね」
二宮が言った。
「そのくらいを目標にしました」
「中学生でも分かる」
「専門家からは、単純化しすぎだという意見も出ました」
「でしょうね」
「なので、細かい数字や制度は全部別紙にしました」
黒沢はもう1冊の資料を出した。
「海外例も参考資料として付けます」
ドイツ。
フランス。
スウェーデン。
デンマーク。
韓国。
受給開始年齢を上げる。
平均寿命に合わせて調整する。
長く働いた場合の給付を増やす。
保険料を上げる。
子育て期間を加入期間として評価する。
やり方は違う。
しかし結局、
長く働く。
多く払う。
受取額を調整する。
税を投入する。
受給時期を柔軟にする。
それらの組み合わせだった。
「結局、外国にも魔法の方法はないわけですね」
三浦が言った。
「ありません」
黒沢が答えた。
「そこも、あえて最後に書きました」
「いいと思います」
三浦は資料を閉じた。
「どうです、二宮さん」
「私も問題ありません」
「じゃあ、この方向で行きましょう」
黒沢は思わず息を吐いた。
V監の同僚から、
最近は政府側もVOICEの内部運営へ細かな注文をしなくなった
と聞いていた。
それでも政府庁舎へ来れば緊張する。
「ありがとうございます」
*
席を立とうとして、黒沢は少し迷った。
「あの……三浦さん」
「はい?」
「一つお願いがあるんですが」
「何でしょう」
「写真、一緒に撮っていただいてもいいですか」
三浦が目を丸くした。
「僕と?」
「はい」
「もちろんいいですけど」
黒沢は少し照れた。
「実は昔からファンなんです」
「え?」
「芸人時代の配信も見ていました」
「そんな前から?」
「最初の選挙の街頭演説も一度見ました」
三浦の顔が本当に嬉しそうになった。
「えー、そうだったんですか」
「そのころは私も同じ選挙区でしたから」
「じゃあ1票入れてくれた?」
「……それは秘密です」
「そこは入れたって言ってくださいよ」
二宮が笑った。
黒沢はスマートフォンを渡した。
「二宮さん、お願いできます?」
「はい。お2人、もう少し寄ってください」
2人が並ぶ。
「撮りますよ」
シャッター音。
黒沢は画面を確認した。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
三浦は黒沢の顔を見ながら思った。
最初の選挙。
あれから、もう10年以上になる。
候補者だった自分。
駅前で誰にも相手にされず演説していた日。
VOICEという名前すらなかったころ。
「お互い、年を取りましたね」
黒沢が笑った。
「黒沢さん、それ僕に言います?」
「三浦さんも、もう60過ぎでしょう」
「言わないでくださいよ」
黒沢は笑いながら部屋を出ていった。
三浦は閉じた扉を少しの間見ていた。




