その一球を、VOICEは見逃さない
海翔は、2038年の記録を読みながら、思わず声に出した。
「三浦さんの思惑とは裏腹に、VOICEで事実上の自治が動き出して、2年でもう国政に口を出すことになったのか」
三浦は、少なくとも3年。
できれば5年。
VOICE内部だけで市民自治の経験を積ませたいと考えていた。
国の法律。
税金。
外交。
安全保障。
そうした本物の政治には、まだ触らせない。
小さな社会の中で、議論して、決めて、間違えて、直す。
それを十分に経験してから、次へ進む。
慎重に育てるつもりだった。
しかし現実の政治は、三浦の予定どおりには動かなかった。
「政治家側の失投だな……」
海翔は父のノートをめくった。
「VOICEが見逃すはずもないか」
*
佐野は、通勤中にニュースを読むのが日課だった。
電車に乗ると、鞄から薄型のタブレットを取り出す。
新聞社。
経済専門サイト。
海外ニュース。
業界紙。
政治情報。
主要な見出しを一通り眺める。
気になったものだけAIに要約させ、必要なら原文まで読む。
佐野は、大手建設会社、
鳳城建設株式会社
の渉外部長だった。
全国に支店を持つ大手ゼネコンの一角で、道路、鉄道、再開発、官公庁施設、海外インフラまで幅広く手掛けている。
佐野の仕事は、単なる営業ではない。
政府の政策動向。
公共事業予算。
都市計画。
そうした政治・行政の動きを把握し、経営陣へ報告する。
政党や業界団体との窓口も渉外部が担っていた。
政治献金についても、実務上の原案は佐野の部署で作る。
もちろん、佐野1人で決めるわけではない。
法務。
コンプライアンス。
経営企画。
財務。
最終的には経営会議と社長の決裁を経る。
大企業だけに、政治資金については特に神経質だった。
その朝、佐野が気になったニュースはVOICEだった。
利用者数が3,000万人を超えたという話ではない。
運営費の問題だった。
VOICEは機能が増え続けている。
サーバー。
通信。
セキュリティ。
AIによる議論整理。
市民会議。
本人確認。
異議申し立て制度。
利用者が増えれば、それだけ費用も増える。
財政難を理由として、政府与党の一部から、
VOICE利用者にも一定の費用負担を求めるべきではないか
という案が出始めていた。
月額500円程度。
民間の動画配信やSNS関連サービスと比較すれば、それほど高額ではない。
だが年間では6,000円になる。
家族で複数のアカウントを利用していれば負担はさらに大きくなる。
特に子供向けVOICEを利用している家庭では、実質的に親が負担することになる。
佐野は記事を読みながら思った。
――これが通れば、VOICEには結構痛いな。
500円。
その金額だけで生活が破綻する家庭は少ない。
だが、
「そこまで払ってまで使わなくてもいいか」
と思う人は相当いるだろう。
VOICEには毎日政治議論へ参加するヘビーユーザーもいる。
一方で、
「市役所への要望があるときだけ使う」
「話題になっている案件を見るだけ」
というライトユーザーも多い。
そうした人々から先に離れる。
利用者が減れば、VOICE上の数字が、
国民全体の意思
から遠ざかる可能性もある。
政治家周辺と付き合いのある佐野は、最近、永田町でVOICEへの警戒感が強くなっていることも聞いていた。
――財政だけが理由じゃないんだろうな。
そう思った。
*
出社すると、そんなことを考えている暇はなくなった。
朝から打ち合わせが続いた。
海外部門との会議。
公共工事の入札制度に関する報告。
来年度予算への要望内容の確認。
社内メールは件名だけ流し読みして、
緊急
本日中
今週
程度に分けただけだった。
「昼までには読むか」
そう思っていたら、もう昼になっていた。
佐野は昼食を1人で取ることが多い。
部下が嫌いなわけではない。
むしろ関係は悪くない。
だからこそ一緒に食事をしたくなかった。
部長と同じ席になれば、若い社員は気を遣う。
仕事の話をするべきか。
酒の話でもするべきか。
箸を置くタイミングまで気にする人間もいる。
――昼くらい好きに食わせてやればいい。
佐野は会社から少し離れた店へ行くようにしていた。
その日は、昔ながらの蕎麦屋だった。
天ぷらそばを注文する。
壁際のテレビでは昼のニュースが流れていた。
最初は海外の災害ニュースだった。
その途中。
画面が切り替わった。
速報
の文字が出る。
佐野は箸を止めた。
『自由共和党所属の衆議院議員3名が、本日午後、議員辞職の意向を表明する見通しです』
「3人?」
思わず小さく口にした。
全員、与党の若手から中堅に差しかかる世代だった。
詳しい理由について、昼の時点では、
政治資金をめぐる問題
としか報じられていなかった。
「これは……」
佐野はスマートフォンを取り出した。
政治部の知人からメッセージが何件か来ていた。
どれも短い。
『かなり大きい』
『建設絡みらしい』
最後の一文を見た瞬間、佐野の食欲が少し落ちた。
*
詳細が分かったのは、その日の夜だった。
翌日発売予定の週刊誌の記事が、各メディアへ流れ始めた。
問題になっていたのは、
日本国土創建株式会社
という中堅建設会社だった。
同社の渉外課長が内部資料を持ち出し、週刊誌へ提供したらしい。
資料によれば、会社側から複数の政治家や秘書へ、政治資金収支報告書などに記載されない現金が渡されていた疑いがあるという。
正式な政党献金ではない。
政治資金パーティーでもない。
帳簿に残らない現金だった。
公共事業や規制をめぐる便宜供与との関係も疑われていた。
夜のニュース番組では、政治記者が解説していた。
『現時点で名前が出ているのは3人ですが、資料にはほかの議員を示す記述もあるとされています』
司会者が聞く。
『大物議員も含まれているのでしょうか』
『その可能性があります。今回辞職する3議員だけで終わるとは、永田町では考えられていません』
佐野は自宅でテレビを見ながら、腕を組んだ。
「まずいな」
建設業界全体へ視線が向く。
そこまでは避けられない。
*
翌朝。
さらに悪いニュースが入った。
日本国土創建の渉外部長が、東京都内のホテルで倒れているところを発見された。
大量の睡眠薬を服用したとみられ、意識不明のまま病院へ搬送されたという。
遺書の有無は公表されていなかった。
佐野はニュースを閉じた。
「他人事じゃないな……」
そして立ち上がる。
「今日は忙しくなりそうだ」
*
会社へ着くと、予想どおりだった。
秘書がすぐにやってきた。
「社長がお呼びです」
「今?」
「はい」
佐野は鞄を置く間もなく、社長室へ向かった。
社長はすでにニュース資料を机に広げていた。
「佐野君」
「はい」
「大変なことになったな」
「はい」
社長は少し間を置いた。
「まず念のため確認する」
「はい」
「うちから、問題になるような金は出ていないな?」
佐野は即答した。
「私が把握している範囲ではありません。当社の政治献金、政治資金パーティー券購入等については、社内規程に基づき、法務・コンプライアンス部門の確認を経て適正に処理しています」
「そうか」
「念のため、過去分についても再確認を始めています」
社長はうなずいた。
「業界全体への波及はどう見る?」
「避けられないと思います」
「やはりそうか」
「捜査機関は、日本国土創建から政治家側へ流れた資金だけでなく、受け取った政治家と他企業との関係も確認する可能性があります」
「うちは?」
「現時点で調べた過去5年分では、今回名前が出ている三議員への企業献金、パーティー券購入とも確認されていません」
「それより前は?」
「資料が古いので、もう少し時間をください」
「分かった」
社長が聞いた。
「世論は?」
「テレビ各社の正式な世論調査はまだです」
「VOICEは?」
「すでに部下に調べさせています」
佐野は答えた。
「関連スレッド数、賛同数、コメントの傾向をAIで分類しています。午前中には中間報告を出せます」
「そうしてくれ」
「はい」
佐野はそこで少し間を置いた。
「社長」
「なんだ」
「失礼を承知で、私から一つ確認してもよろしいでしょうか」
社長の表情がわずかに硬くなった。
「言ってみろ」
「万一何かあるなら、善後策を1時間でも早く考える必要があります」
「……」
「私が把握していないルートで、政治家側へ資金提供、あるいはそれに類する働きかけを行ったという報告が、経営陣まで上がっていませんか」
遠回しだった。
だが意味は明白だった。
――俺の知らないところで何かやってないですよね?
と聞いている。
鳳城建設は巨大企業だった。
渉外部が正式な政治窓口ではある。
しかし長い歴史を持つ会社には、佐野が把握していない古い人脈もある。
会長と政治家。
相談役と元大臣。
地方支店長と地元議員。
経営者同士の個人的な付き合い。
佐野は、それを完全には信用していなかった。
社長は数秒黙った。
「今のところ、私は聞いていない」
「承知しました」
「何か分かったら私にもすぐ報告しろ」
「もちろんです」
佐野は頭を下げた。
「大変失礼いたしました」
社長室を出る。
廊下を歩きながら思った。
――これで何か出ても、俺が把握していなかったことは一応言える。
そしてもう一つ。
――録音しときゃよかったな。
一瞬そう思った。
すぐに首を振った。
「いや、それはそれで問題か」
*
自分の部屋へ戻ると、佐野は指示を出した。
「テレビ持ってきてくれ」
「テレビですか?」
「小さいのでいい。ニュースを常時見たい」
部下にも、空いている会議室でテレビやネットニュースを確認してよいと伝えた。
「今日は通常業務より、こっち優先でいい」
昼前。
部下が紙のレポートを持ってきた。
「VOICEの中間集計です」
「メールじゃないのか」
「部長が紙でと言われましたので」
「ああ、そうだった」
佐野は受け取る。
社内メールの誤送信。
転送。
外部流出。
この状況では少しでも避けたかった。
レポートの1ページ目には大きく、
VOICE関連世論・速報分析
と書かれている。
その下に、AIによる要約があった。
---
【VOICE内の主要論点・AI要約】
1.政治家への未記載資金に対する強い批判
「違法かどうかだけでなく、企業と政治家が一般国民には見えない場所で利益交換をしていたのではないか」という不信が最も多い。
2.企業献金制度全体への見直し要求
今回の現金授受と合法的な企業献金は別制度であるとの指摘がある一方、「合法献金でも政策への影響力を買っているのではないか」とする意見が急増している。
3.公共事業受注企業からの政治献金への批判
国・自治体から受注する企業が政党や政治家側へ資金を提供することについて、「税金が政治資金として還流しているように見える」との批判が多い。
4.VOICE有料化案との関連付け
「国民には政治参加するため月500円払わせる一方、企業は多額の資金で政治家へ接触できるのか」という批判が急増。
5.政治資金のVOICE上での全面公開要求
企業・団体献金、政治資金パーティー、業界団体からの資金提供について、VOICE上で企業名・政党名・金額を検索可能にするよう求める意見が増加。
6.与党だけでなく全政党を対象に調査すべきとの意見
「与党だけの問題として処理すべきではない」「野党も含めて同じ基準で公開すべき」とする意見が多く、党派的な事件としてではなく政治制度全体への不信に発展する傾向がある。
7.建設業界への批判
特に公共工事との関連から建設会社への批判が集中。
一方で「業界全体を一括して犯罪者扱いするのは不当」とする反論も一定数存在する。
---
佐野はそこで紙を止めた。
「最悪の組み合わせだな」
政治資金問題だけでも大きい。
そこにVOICE有料化案が重なった。
国民には政治参加の料金を払わせる。
企業は政治家に金を出す。
制度上はまったく別の話である。
しかし世論にとっては、非常に分かりやすい対比だった。
次のページを見る。
作成した部下のメモが添えられている。
『VOICE内で各企業の政党別政治献金額と、国・自治体からの公共工事受注額を並べた一覧が複数作成されています。当社名も掲載されています。当社について違法行為を指摘する内容は現状確認できませんが、批判的コメントは増加しています。何らかの声明を検討する必要があると考えます。』
「そこまでやってんのか……」
佐野は眉間を押さえた。
公開情報をAIで集計すれば、個人でも簡単に作れる。
鳳城建設が自由共和党へいくら出した。
野党へいくら出した。
政府から何円の工事を受注した。
その数字を横に並べる。
因果関係がなくても、
何か関係があるように見える。
それが怖かった。
――声明出すか。
――いや、何も疑われていない段階で出したら、逆に怪しまれるか。
――リスク管理部門と相談するか。
――当然するべきだ。
佐野が電話へ手を伸ばした。
その瞬間、個人用のスマートフォンが鳴った。
*
画面には、同業他社の渉外部長の名前が出ていた。
「もしもし。佐野です」
『佐藤です。今、大丈夫ですか』
「大丈夫です」
『どうです、そちら』
「どう、と言われても困りますが」
佐野は苦笑した。
『結構大事になりそうですね』
「そうですね」
佐野は努めて落ち着いた声で言った。
「半年くらい尾を引くつもりでいたほうがいいかもしれません」
『半年ですか』
「短く見積もって収まらなかったときのほうが困りますから」
『なるほど』
「そちら、何か動きます?」
『まだ何とも』
「うちもです」
『上は?』
「それも何ともですね」
「そちらは?」
電話の向こうで少し沈黙があった。
『まあ……そちらも同じだと思いますが』
「はい」
『何もない、と私個人が100%確信できる状況ではない、とだけ言っておきます』
佐野は目を閉じた。
「まあ、そうでしょうね」
『佐野さんも?』
「私も同感です」
大企業ほど、組織が大きい。
そして歴史も長い。
今のコンプライアンス制度が整う以前から続く人間関係まで、現役の渉外部長がすべて知っているわけではない。
2人とも、それ以上は言わなかった。
*
国会では、野党の追及が始まった。
予算委員会。
野党第1党の議員が総理へ質問した。
「総理、これは3人の議員個人の問題ですか。それとも自由共和党としての問題ですか」
総理は答える。
「現在、事実関係を確認している段階であり、捜査にも関わるため、予断を持った発言は控えます」
「またそれですか」
野党席から声が飛んだ。
質問者は続けた。
「国民にはVOICEを利用するため年間6,000円を負担させようとしている。一方で、企業は政治家へ何百万円、何千万円という金を渡していた疑いがある」
与党席がざわついた。
「VOICE課金と今回の事件は別問題です」
総理が答える。
「国民から見れば同じ政治の問題です!」
野党議員が声を強めた。
「普通の国民が政治へ意見を伝えるには金を取る。企業が政治家へ金を渡すことについては放置する。それで国民が納得するとお考えですか」
拍手が起きる。
別の野党議員はさらに踏み込んだ。
「公共工事を受注する企業から政治資金を受け取ること自体について、全面的な規制を検討すべきではありませんか」
「合法的な企業・団体献金と、今回報道されている未記載の資金提供は区別して議論すべきです」
「国民が聞いているのは合法か違法かだけではありません」
野党議員が言った。
「金を持つ者ほど政治家に近づける現在の政治の仕組みが公平なのか、と聞いているんです」
テレビには、その部分が何度も流れた。
*
夜。
佐野は会社から帰ってもニュースを見続けた。
政治記者が今後の見通しを話している。
『今回の問題は、かなり長期化する可能性があります』
『与党への影響は?』
『少なくとも短期的には大きいでしょう。ただし、野党側にも政治資金をめぐって問題がないのかという点は、当然調べられることになります』
野党第1党の党首も会見していた。
『徹底的な真相究明を求めます。これは自由共和党だけの問題ではなく、日本の政治と企業の関係そのものを問う問題です』
佐野はテレビを見ながら思った。
「これはしばらく続くな」
長い戦いになる。
会社としても、過去の政治資金関連記録を洗う必要がある。
場合によっては数十年前まで遡ることになるだろう。
*
ところが翌朝。
佐野の予想をさらに超えるニュースが飛び込んできた。
タブレットを開いた瞬間、速報が並んでいた。
『野党第1党・前代表、議員辞職へ』
「え?」
佐野は記事を開いた。
前党首にも、別の企業から報告書に記載されていない資金が渡っていた疑いが浮上したという。
自由共和党とは別ルート。
日本国土創建とも別企業。
事件として直接つながっているかは、まだ分からない。
だが世論にはそんなことは関係なかった。
「与野党そろってか……」
佐野は椅子へ深く座った。
これで話が変わった。
与党の政治資金疑惑ではない。
政治家全体の資金問題
になった。
VOICEを開く。
昨夜まで、
『与党は説明しろ』
だったタイトルが、
『全政党の企業・団体献金をVOICEで公開すべき』
へ変わり始めていた。
別のスレッドも急速に伸びている。
『政治献金制度そのものを市民会議で検討してほしい』
佐野はその文字をしばらく見た。
「……そこまで行くのか」
昨日までは、汚職事件だった。
一夜で制度論になっている。
そして制度論になれば、VOICEは最も得意だった。
大勢が参加する。
専門家が資料を出す。
AIが論点を整理する。
市民会議を開く。
案を作る。
投票する。
VOICE内部で2年間続けてきたやり方を、そのまま国政へ持ち出せばいい。
佐野はタブレットを閉じた。
「気の抜けない日が続きそうだな」
*
海翔は、そこで父のノートを閉じた。
この事件そのものは、今では政治史の教科書にも載っている。
だが学校では、
「2038年政治資金事件を契機として、VOICEによる国政制度改革要求が高まった」
という一行程度で終わる。
父の記録では違った。
企業の渉外担当者。
政治家。
官僚。
記者。
一般利用者。
それぞれが、
――まずい。
――利用できる。
――変えたい。
――変えられたくない。
と考えて動いている。
海翔は論文へ入力した。
VOICEが国政へ本格的に関与する契機となったのは、制度設計者による計画的な権限拡大ではなかった。既存政治への不信が、すでに意思形成の方法を身につけていたVOICE利用者へ新たな役割を求めた結果であった。
少し考えた。
もう一文加える。
市民はVOICEによって政治へ参加する方法を覚えた。そして一度その方法を覚えた市民に対し、「この問題についてだけは従来どおり政治家に任せてほしい」と求めることは、以前よりはるかに難しくなっていた。
海翔は画面を見た。
「三浦さんが怖がってたの、これか」
VOICE内部だけで民主主義の練習をする。
そんな状態は長く続かなかった。
人々が一度、
自分たちで考え、話し合い、決める
という経験をしてしまえば、現実の政治で大きな問題が起きたとき、
「じゃあ、これも自分たちで考えよう」
と言い出す。
止めるほうが不自然だった。
政治家側の失投。
その一球を、VOICEは見逃さなかった。




