第7話 “走りだせ 走りだせ”
――夜の闇が、ゆっくりと引いてゆく。
霊湖から立ちのぼる魔力を含んだ水蒸気が、街を淡く染め上げている。
朝晩に立ち込めるこの赤い霧にちなみ、朱円は別名〝赤霧の都〟とも呼ばれている。
赤煉瓦の道沿いには、連なる赤い灯籠がまだ微かに明かりを灯していたが、それも次第に朝の光に溶けていく。
商人達が店を開ける音が、あちこちで小さく鳴りはじめる。
生姜と香草の香りを立てる屋台の支度も、そろそろ始まる頃だ。
まだ街全体は、半ば夢のなかにいるような静けさを纏っている。
けれど、その霧の向こうで……確かに、都は目覚めつつあった――
――そして、どこかこの世の外側に取り残されたような部屋で、1人の少年もまた、静かにまぶたをひらいた。
「んあ? 朝ァ?」
タイガは寝起きの声であくび混じりに呟き、身を起こした。
あたりを見回せば、ぼんやりと光を返す、半透明の壁。どこか幻想的で、閉ざされた空間。
「あれ? ……あ、そっか。水晶の中に閉じ込められたんだっけ」
台座の上に据えられた〝永遠の石〟。
自分がその中に閉じ込められていることを思い出し、彼はまた1つ伸びをした。
「ふあ~~~……今日中に〝賢者様〟が出してくれるって言ってたけど……何時くらいになるんだろ……」
こんな異常な状況にもすっかり慣れた様子で、タイガはぼやきながら体を捻る。
と、その時――コツコツコツと外から足音が響いてきた。
やや急ぎ気味の、ヒールの音。
そしてまもなく、マスタールームの扉が開かれた。
「坊や! お待たせ。〝賢者様〟を連れてきたわよ!!」
入ってきたのは、ギルドマスターのお姉さん。
手にした扉を押さえながら、タイガに向けて声を弾ませる。
「え!? マジで!? 早かったね!!」
思っていたよりも早い到着に、歓喜の声を上げる。
「さあ、〝賢者様〟。こちらに……」
彼女が手をかざすと――その背後から、1人の老人がゆっくりと姿を現す。
背を丸め、長い白髪をひとつに束ねている。
その衣装は濃紺を基調に、全体に魔法陣の意匠があしらわれており、よく見ると布地の縁はかすかに光を放っている。
褪せた色味の中にも、威厳と風格を感じさせる装束だった。
そして、彼の手に握られていたのは――1本の荘厳な杖。
漆黒の魔法木に刻まれた精密な魔術文字が、表面で微かに蠢いていた。
頭頂部には金属の輪と水晶が組み合わされた複雑な装飾が施されている。
見る者の視線を吸い寄せるような、その杖は――まさに〝賢者〟の名にふさわしい威容を誇っていた。
「おー!! あなたが〝賢者様〟?」
タイガが嬉しそうに声をかけると、老人は糸のような目をさらに細くして、のんびりと口を開いた。
「おあ? おーい! 賢者様ー! 呼ばれてるぞー!!」
「いやあなたが、その賢者様ァ!!!」
即座に飛んだマスターのツッコミが、石造りの天井に木霊した。
普段は余裕のある大人として振舞っている彼女の思わぬリアクションに、タイガも思わず目を丸くする。
「え? ……ああ、そうじゃった。ワシがかの賢者…………え~と……」
老人はおっとりと頭をかきながら、なぜか自己紹介の途中で、しばし黙考する。
「ワシの名前なんじゃっけ?」
「ボケてるじゃん!? このおじいさん!!」
タイガも思わずツッコむ。
昨日はどちらかと言えば、猫耳の少女を振り回していた彼だが――今この瞬間ばかりは、ツッコミ役を買って出るしかなかった。
「あー、えーと……ワシの名前は……マ……ガ、ガガッ……ガガガガガガガガガガ……ッ!!!!」
「なんかバグってない!? いいよ無理に思いださなくて!!」
老人の口から謎の電子音のような声が飛び出し、タイガは焦りと困惑の入り混じったツッコミを返す。
肩をガクガクと震わせながら小刻みに痙攣するその姿は、まるで呪いにでもかかったようだ。
「ねえ……大丈夫なの? このおじいさん」
「う~ん……今日一番に呼べたのが、この方だったの……腕は確かなんだけどねェ……」
マスターは額に汗を浮かべながら、少し申し訳なさそうに答えた。
「ねえ賢者様。今日はそこの水晶に閉じ込められちゃった坊やを、出してあげてほしいんだけど、いい?」
「んが……! おう、任せておくのじゃ!」
ピタリと痙攣が止まり、賢者は腰を伸ばして静かに水晶の前へと進み出る。
「……さて……」
立ち止まると、彼は凛とした眼差しで水晶の奥にいる少年を見つめた。
さっきまでのヨレヨレ具合がまるで幻だったかのように、今の彼の姿はまさしく〝知恵の体現者〟だった。
その重たい視線に、タイガもゴクリと固唾を呑む。
……だが。
「あら? この水晶はなんじゃったかのう?」
「〝永遠の石〟よ!! ギルドの管理品で何度も見てもらったでしょ!!!」
「ああ、そうじゃったそうじゃった。〝永遠の石〟か」
とんでもない肩透かしに、タイガも水晶の中でズッコケた。
「ほ、本当に大丈夫なの……?」
不安要素はどんどん増していく。
それでも賢者は、そんな懸念をよそに、くるりと振り返ってにっこり笑った。
「……さて……それじゃあ今度こそ……いくぞ!」
そう気合いを入れるように一息つくと、賢者は水晶の表面に手をかざし、軽く力を込めた。
「そいや!」
まるで軽業でも始めるかのような掛け声とともに、賢者の手から淡い輝きがにじみ、水晶全体に光が走る。
「うお! まぶし……わあっ!?」
水晶内が光に包まれ、思わず目をつむったタイガだったが、次の瞬間、体がぐるりと裏返るような感覚に襲われ――
ドスンッ!
と尻もちをついた。
「痛ってて……なにが起こって……って、ええっ!?」
目を開いた彼が見たのは、透明なレンズのような水晶の壁ではなく、ギルドの床だった。
見下ろす賢者の顔。そして、何にも遮られていない広い視界に、ようやく状況を理解する。
「……で、出られた……?」
「まあ、こんなもんじゃな」
ぼそりと漏らした賢者の言葉に、タイガはパッと顔を輝かせた。
「すごいよ、おじいちゃんっ!! どんだけ暴れても出られなかったのに、こんな簡単に! ありがとう!!」
「はは、礼には及ばんよ」
目の前の老人は涼しい顔で答える。
だが、さっきの一瞬で、実はとんでもなく精密な魔力制御が行われていたのだ。
その事を、タイガは知る由もない。
「それじゃあボク、猫ちゃんを探してくる!!」
勢いそのままに彼が立ち上がると、マスターが少し驚いたように目を見開く。
「あら、もう行っちゃうの? それじゃあこれ」
ギルドマスターは小さな革袋を取り出し、タイガにそれを手渡した。
「〝18万ディジー〟よ。昨日のクエストの報奨金」
「わあ!! ありがとう!!!」
彼は袋を受け取ると、それを大事そうに腰のポケットへとしまい込む。
<タイガの合計所持金:18万9,900ディジー>
「マスター!! 1日……“くそお世話になりました!!!”」
大げさに深々と頭を下げるタイガに、彼女も柔らかな笑みを返す。
「ふふ、いってらっしゃい。また来てね」
そうして軽やかに別れの挨拶を交わすと、青い影はピュ〜ッと風のように、ギルドを飛び出して行った――
「……あ、そういえば仮登録……まあいいか。また会う機会が出来たわ」
「あれがお前の新しいお気に入りか。面白い小僧じゃな……」
「ふふ、そうでしょ?」
「ああ、あやつはきっと〝アレ〟じゃな……あの……なんじゃったか……バ……バ、バンッ……バババババババババババババババッ……!!!」
「いやいいから!! また無理して思いだそうとしなくても!!!」
マスターが慌てて肩をさすり始めると、賢者の痙攣も緩やかに収まっていく。
そんなドタバタを背に、タイガはもう――夜明けの都市へ飛び出し、猫耳の少女を探して走り始めていた――
◆ ◆ ◆
「――いっそげ! いっそげ!」
空がまだ藍色を帯びたまま、明るくなり始める頃。王都の石畳の路地を、元気な足音が鳴り響く。
通りには朝靄がふんわりと漂い、空気はしっとりとした心地いい冷たさを含んでいた。
屋台の準備を始めた商人達が、ちらほらと店を開け始めている。
「猫ちゃんに伝えたいことがあるんだ! 早く行かない……と……」
そこで、ふいに鼻がぴくりと動く。
「……あっ、いいにおい~!」
タイガの足が、ズザアアアッ!! と勢いよく止まった。
焼きたてのパン・煮詰めた肉・甘い果物――
さまざまな香りが、完璧なハーモニーで食欲を刺激する。
「んまそ~~~……はっ!? いかんいかんっ! 猫ちゃんを探すんだ!! 寄り道してる暇なんて――」
と言いつつ、鼻だけは名残惜しそうに屋台の方へ引っ張られていく。
……そして。
◆ ◆ ◆
――静かな早朝の都市に、ドタドタと駆ける足音と、その動きに合わせてガサガサと暴れる袋の音が響く。
「ねふぉふぁんがふぁびふぁっふぁうまえふぃふぁやふみつふぇなふぁ!
(猫ちゃんが旅立っちゃう前に早く見つけなきゃ!)」
タイガの手には、肉まんのような〝ナニカ〟がパンパンに詰まった袋があった。
<タイガの合計所持金:18万9,850ディジー>
しかもその袋――
「ピギー!!」
……時々、悲鳴を上げる。
袋がびくっ! と揺れたが、タイガは全く気にする様子もない。
「おいひ~!! あむっ!!!」
むしろ、その叫ぶ〝ナニカ〟を頬張りながら、タイガは元気よく商店街を駆け抜けていった。
先程、彼は確かにこう言っていた――
『はっ!? いかんいかんっ! 猫ちゃんを探すんだ! 寄り道してる暇なんて――』
だが現在――
「ん~!! んめェ~~~!!!」
「ピギー!!」
寄り道は、しっかりしていた――
◆ ◆ ◆
――カーテンの隙間から、優しい朝日が差し込む。
かすかに赤みを帯びた光が、絨毯とベッドを染めていた。
外からの暖かな風が、ふわりとレースのカーテンを揺らす。
「……ん……んん……っ」
その風に揺られて、少女の猫耳がピコッと立ち上がる。
「んあ~……」
掛け布団を抱えたまま、ごろごろと転がる。
顔にはまだ眠気が残り、毛並みの整っていない尻尾がユラユラと揺れていた。
その時、コンコンと部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「朝食出来たアルヨ~」
「……ふわ~……わかった~! 今起きたばかりだから、準備したらいく~!」
訛りの強い声に、少女は欠伸まじりに返事をした。
「最高の寝心地だったな~。めっちゃぐっすり眠れたにゃ~♪」
両手を頭上に上げ、しなやかに背を反らせて伸びをする。
「ん~!! でも、夢が見られなかったのは残念だ。こんにゃいいベッドなら、まるで天国にいるみたいな夢が……」
その言葉の途中で、ふと胸の奥がざわめいた。
思い出したのだ。眠る直前まで浮かんでいた、あの記憶を――
――
――――
――――――
――森の中をトボトボと歩く、幼き日の自分。
行ってはいけないと言われていた範囲をはるかに超え、道なき道をさまよう。
目からは大粒の涙がこぼれ落ち、顔はぐしゃぐしゃにゆがんでいた。
『うぐ……っ! どうじて……どうしてミャーは……おかあ゛さん……っ!!!』
森は静まり返り、鳥のさえずりさえ聞こえない。
自分の泣き声だけが、どこまでも響いていく。
あの日のことを……きっと忘れることはできない――
――
――――
――――――
「――あー……でもやっぱ、夢は見なくてよかったかもにゃ……」
少女はひとり、窓際へと向かい、光の差す方向を見つめる。
「……支度するか……」
小さく一息ついてから、彼女は鏡の前へと歩いていく。
床から天井まで届くほど大きな姿見だ。
磨かれた鏡面には、眠たげな猫のような自分の姿が映っていた。
少しボサボサになった髪に、彼女は思わず眉をひそめる。
「うわ……ひでェ寝ぐせ……」
右側は橙、左側が白に分かれたツートンの髪。
その毛先が、あっちこっちに跳ねている。
クシを手に取り、ゆっくり、丁寧に梳く。
毛流れを整え、色の境目をなぞるように何度も。
そして右の前髪を器用に三つ編みにしていくと……
「よし……」
最後にぴこっと。
頭の上の猫耳を、指先で軽くつまむようにして立たせた。
「こんな感じかな……」
鏡の中の自分を、じっと見つめる。
瞳も髪と同じように左右で色が違う。
右の瞳は橙、左の瞳は青。
パッチリと大きな目元は、でもどこかつり気味で、何もしていなくても常にちょっとムスッとして見える顔つきだ。
(……相変わらず〝機嫌悪そうな顔〟だな……)
自分でもそう思いながら、少女はふいっと視線をそらす。
鏡の前であまり長く自分を見つめているのは、性に合わなかった。
髪の手入れにひとまず満足したのか、彼女はこくりと頷く。
次に、着替えるためにベッド脇にかけてある身軽な旅装へと手を伸ばした。
暗い赤茶色のケープ。
何度も旅路をともにした相棒だ。
布地には小さなほつれや擦り傷が残っている。
ケープを腕にかけたまま、彼女はもう一度窓辺へ戻る。
窓の外には、王都の全貌が広がっていた。
赤い屋根に、赤茶けた壁。
それらが朝日に照らされ、街全体がうっすらと朱に染まっている。
名前の通りの朱色の街並み。
「……」
一瞬だけ、その景色に見惚れる。
けれど、少女はすぐに視線を引き戻し、窓を閉める。
カーテンを引き、外の朱色を、1枚の布の向こう側へと追いやった。
遠く、まだ夜を引きずった王都の空の下。
そこを〝ある少年〟が全力で駆けていることを、彼女は、まだ知らない――
◆ ◆ ◆
――カーン!! カーン!!! と、鉄を打つ乾いた音が王都の通りに響く。
「うん? なんだ?」
タイガは立ち止まり、音のする方向へと顔を向ける。
その先では、屈強な男が火花を散らせながらハンマーを振るっていた。
鍛冶師らしき男が、近くの商店で働く青年と言葉を交わしている。
「おう、おやっさん! 早朝から精が出るねェ!!」
「ああ!! うるさくして悪いな。昨日急に大量に武器が売れちまってよ!! 今店の在庫がなくて大変なんだ」
活気ある商店街の一角。なんてことのない朝の会話――のはずだった。
だが、タイガの耳にある言葉が引っかかった。
「あはは! 大繁盛で忙しいってのか、うらやましいもんだね」
「あ~……まあ商人としてはうれしい限りなんだがね……」
「なんだい? 訳アリの客かい?」
鍛冶師は少し声を落とし、眉をひそめる。
「いやぁ……お客さんは〝王国調査隊御一行様〟でよ~」
「あれま! ま~た、あいつら〝調査地〟で実力行使しようってのか!?」
「え? 〝王国調査隊〟?」
その言葉に、タイガは聞き覚えがあった――
『――それが〝王国調査隊〟。猫ちゃんは、そこにお呼ばれされたのよ』
『……あいつら、ちょっとね。やり方が〝過激〟なのよ――』
――ギルドマスターが言っていた、彼らに関するよくない話。
それが、タイガの胸に引っかかった。
「さあな……あいつらが調査で何をしてるかは知らねェが、〝とんでもねえもん〟まで買っていきやがったぜ」
「〝とんでもねえもん〟? なんだい、それは……?」
「……はやく猫ちゃんを見つけないと!! うあァむッ!」
タイガは焦ったように、両手に持った肉まん(?)を片っ端から口に押し込み、一気に飲み込む。
そして、喉を詰まらせながらも走り出した。
~あとがき~
第8話は明日の18時に投稿です。
第1章完結まで毎日投稿中!!
『永遠の石』について――その2。
永遠の石は、加工によって様々な用途に転用されている。
冒険者ギルドで用いられるものは、近づいた者の体内から血を抜き取り、それを内部に封印するよう調整されている。
さらに、その血液から対象者の〝ステータス情報〟までも抽出する機能を持ち、専門の解析師がいれば即座に閲覧が可能となる。
そのため、冒険者がギルドに登録する際には、この永遠の石によるステータス開示が必須とされ、さらに定期的な更新が義務付けられている。
ギルドが管理する冒険者の情報は、すべてこの石を通じて得られたものを基盤としているのだ。
なお、加工を施したギルド用の永遠の石は〝血を持つ生物〟以外には反応しなくなっている。




