第65話 “生まれ変わっても”
――小鳥のさえずりが聞こえた。
閉じていた意識の奥に、光が少しずつ染み込んでくる。
遠くで車の音がして、廊下の向こうでは誰かの話し声がかすかに弾んでいた。
「……ん……」
ロマはゆっくりと目を開けた。
白い天井。
薄く差し込む朝の光。
消毒液の匂いがわずかに残る、見慣れた個室。
昨夜のことを思い出した瞬間、ロマは反射的に隣を見た。
「……ミドリ……?」
そこに、彼女の姿はなかった。
布団は少しだけ乱れている。
隣にいた彼女の温もりが、まだ布団にかすかに残っている気がした。
けれど、栗色の髪も、淡い緑の病衣も、もうそこにはない。
ロマは身体を起こし、ぼんやりと部屋を見渡す。
すると、机の上に小さなものが置かれているのが見えた。
「……輪ゴム?」
赤、水色、黄色、白。
いくつもの色をした輪ゴムが、机の上にそっと並べられていた。
無造作に置かれているようで、よく見ると小さな輪が連なるように重ねられている。
それはミドリがよく持っている、カラフルな包帯や絆創膏の飾りと同じ色合いだった。
言葉はない。
けれど、ロマにはなんとなくわかった。
「……置き手紙の代わりか? 全く……」
そう呟きながら、ロマはその輪ゴムを1つ指に引っかけた。
小さな輪は、朝の光を受けて、ほんの少しだけ明るく見えた――
――
――――
――――――
――朝のプレイルームは、いつも通りにぎやかだった。
小さな子ども達がブロックを積み上げ、別のテーブルではボードゲームに夢中になっている。
テレビからは明るい音楽が流れ、看護師に怒られない程度の笑い声が、部屋のあちこちで跳ねていた。
その部屋の隅、本棚の隣にロマは1人で座っていた。
手元の本の表紙には、剣を持った少年と、空に浮かぶ城が描かれている。
ページをめくる音だけが、ロマの周りでは妙に静かに響く。
その隣に、ふわりと軽い気配が降りてきた。
「……」
ロマは目線だけを動かす。
ミドリだった。
淡い緑色の病衣。
肩から背中へ流れる栗色の髪。
頭には、ピンク色の絆創膏の形をした髪飾り。
いつも通りの姿なのに、昨夜のことを思い出したせいで、ロマはどうにもまっすぐ見られなかった。
ミドリも、すぐには何も言わない。
2人の間に、少しだけ妙な沈黙が落ちる。
気まずいような。
照れくさいような。
いつもの軽口さえ、今はうまく出てこなかった。
「……それ、面白い?」
先に口を開いたのは、ミドリだった。
ロマは本に視線を落とす。
「……うん。面白いよ」
「へえ~……初めて見る本だ。どんな話?」
ぎこちないながらも、2人は会話を紡いでいく。
「よくある〝転生モノ〟だよ。現世で死んだ主人公が、神様の力で〝異世界〟に送られる」
「あはは! ホントによくある展開」
「ああ。たぶん、こういうのが好きな人から見ても、平凡な話だと思う」
そう言いながらも、ロマの声には少しだけ柔らかさがあった。
「でも、オレは好きなんだ。感動するわけでも、笑えるわけでもない。山も谷もない、ただ凪が続いていく。でもそれがいいんだよ」
「ふ~ん……そっか。異世界での平凡な日常みたいな話なんだ」
ミドリはロマの横顔を見つめる。
目の前の本に広がる世界を語る彼の顔は、いつもより穏やかなモノだった。
「主人公も好きなんだ。気取らないし、かっこつけない。いつだって謙虚で、それで困った人は放っておけないいいヤツだし」
ロマはページの端を指でなぞる。
「それで……1番好きなのは……〝始まり〟かな」
「始まり……?」
「うん。こういう話って最初、主人公が唐突に現世で死ぬんだ。その事を神様に告げられるってパターンも多いね」
語りながら、ロマは少しだけ目を細める。
「でもそれを主人公は『あ、そうなんですか』って直ぐに受け入れるんだ。自分の〝死〟を」
「っ……!!」
その瞬間、ミドリの目が見開かれた。
だがロマは、それに気づかないまま語り続ける。
「達観してるよね。葛藤する主人公もいいけど、こういうのもなんだか……ん?」
そこでようやく、ロマはミドリの表情が変わっていることに気づいた。
唇はきゅっと結ばれ、膝の上の手は病衣の裾を強く握っている。
さっきまで柔らかかった深緑の瞳に、静かな怒りとも悲しみともつかない色が滲んでいた。
「……私は、好きじゃない……」
「え……?」
小さな声だった。
けれど、その言葉ははっきりとロマの耳に届いた。
「……」
ミドリは何も言わずに立ち上がる。
「あ……おい!! ミドリ!!」
そのまま歩き去ろうとする彼女を見て、ロマは慌てて立ち上がった。
手にしていた本を急いで棚に戻し、彼女の後を追う。
ミドリの背中は、いつもより小さく見えた。
淡い緑の病衣だけが、白い廊下の奥へ、ふわりと揺れていく――
――
――――
――――――
――病院の屋上。
いつもと同じ白い世界。
けれど、昨日とは少し違って見えた。
同じ青空なのに。
同じ風なのに。
2人の間に落ちた沈黙だけが、さっきよりもずっと重かった。
「あ……えっと……」
ロマは何か言おうとして、結局口を閉ざす。
追いかけてきたはいいものの、どう声をかければいいのかわからなかった。
さっき自分が何を間違えたのかも、まだはっきりとは掴めていない。
ミドリはフェンスのそばに立ち、街の方を見ていた。
その背中は、怒っているというより――どこか寂しそうだった。
そして……先に口を開いたのは、やはりミドリだった。
「……私ね」
その声は、いつもより少し低かった。
「自分の好きなように自由に生きて、人生に後悔がなくて……だから〝死ぬその瞬間に、笑って逝く〟……そんな人は、好きだよ」
ロマは黙って聞いた。
「そういうのは、かっこいいと思う。最後までちゃんと自分の人生を生きたんだなって……きっと、すごく強い人なんだろうなって思うもん」
ミドリはそこで、フェンスの金網にそっと指をかけた。
パステルカラーの包帯が巻かれた細い指が、冷たい金属に触れる。
「……でも、突然死んじゃって。神様に『あなたは死にました』って言われて。それで『そうですか』ってすぐ受け入れるのは……なんか違う」
ミドリの声が、少し震えた。
ロマは息を呑む。
なんて声を掛けたらいいか……
「……えっと……その……ご、ごめん」
小さく呟いた。
だが何に対して謝ったのか、自分でもよくわからなかった。
彼女の気持ちを、まだわかっていない。
ミドリはフェンスにかけた指に、ほんの少しだけ力を込めた。
「……ロマくんはさ」
そして彼女が振り返る。
「……っ!!」
深い緑の瞳は、ようやく、いつもの笑みを取り戻していた。
だけど……
「いつか自分が死ぬ時……笑えると思う?」
「え……っ!? それは……」
言い淀む。
即答出来るはずがなかった。
だって、それは……
「……きっと……無理、だろうな……」
口に出したくない、〝現実〟だからだ。
「いや、〝きっと〟じゃないな……〝絶対〟だな……」
「……そっか……」
その答えを聞いても、ミドリは笑みを崩さない。
それはきっと、空気が暗くならないため。
けれど……
「それは……嫌だね、悲しいね……」
一瞬だけ、その笑みが崩れた。
漏れた言葉は不器用で、けれど確かな彼女の本音だった。
だがすぐにミドリは笑みを戻す。
「ねえ! そういえばさ。〝生まれ変わったら〟何になりたいかって話したじゃん?」
「え? ああ……そうだね……キミはスライムになりたいんだっけ?」
ミドリが空気を明るくしようと話を変え、ロマもそれに応じた。
「うん! それでね、そういえばロマくんが何になりたいか、まだ聞いてなかったな~って思ってさ」
「んえ? オレ? そうだな……生まれ変わったら……」
ロマは思考を巡らせる。
そして、出した答えは……
「……別になんだっていいな」
「へ?」
「人間だろうと、モンスターだろうと。なんなら別に木や草でも構わない」
ほとんど答えになっていない、無欲な言葉に聞こえた。
「なにそれ~……退屈な答え……」
「はっ、退屈で結構」
いつもとは逆に、ミドリに呆れられる。
その反応に、ロマは拗ねたように顔を横にそらした。
そして……彼女には目を向けず、言葉を続けた。
「……なんだっていいんだ。どこぞの〝ラノベの読み過ぎのスライム〟と、同じ世界に生まれ変われたら……」
「ふぇ……? そ、それって……」
そっぽを向いたままだが、ロマの耳まで赤くなっていることに、ミドリは気づいた。
彼女も少し頬を染めながら、ニヤニヤとロマに詰め寄る。
「へ~? 生まれ変わっても、〝一緒〟になりたいんだ~」
「……っ!!」
その言葉に、ロマの顔はさらに赤くなる。
「私のこと好きすぎじゃ~ん!!」
「く……っ!!! 好きすぎッて……なんだよ!! そんなにおかしいか!!?」
「へへ~、別にそうじゃないけど~?」
ロマは恥ずかしさを隠すように叫ぶ。
それをミドリは、心底愉快そうに笑う。
「なんだよ……!!! 心の底から楽しそうにして……!!」
「そうだよ、だって嬉しいもん!!」
ロマとは対照的に、ミドリは自分の気持ちをまっすぐ表に出す。
「そっか……生まれ変わっても、ロマくんがいる。それなら、私……」
「……なんだよ……それなら?」
ふいに小さくなったミドリの声。
ロマはまだ気恥ずかしさを引きずりながらも、聞き返す。
「ううん!! なんでもない!!」
けれどミドリは満面の笑みで、それを流した。
よくわからないけど、彼女が満足そうにしているから、ロマはそれ以上問い詰めなかった――
――
――――
――――――
――それから、他愛ない会話を気が済むまで続けた。
けれど、そろそろ病院の看護師達が、ロマとミドリが病棟にいないことに気づいてしまう。
そうなる前に、2人は屋上を後にした。
「ふふっ。生まれ変わったら、私の仲間にしてあげるよ!! 我がスライム冒険団の仲間にね!!」
「おいおい、スライムなのに冒険者になるつもりかい?」
「うん!! せっかく生まれ変わるんだもん、好きなことを好きなだけやるんだ~!!」
階段を下りる2人の間には、さっきここを登った時とは正反対の、穏やかな空気が流れていた。
「そっか……まあでも、〝現世〟でも出来るだけ好きなことをしようよ。一昨日みたいに抜け出してさ。もちろん今度は無理のない範囲で」
「……そうだね……きっと今だって、まだ出来ること……が……」
その声が、途中でかすかに乱れた。
けれど、ロマは気づかなかった。
階段を下りる足音と、自分の声に紛れて、その小さな違和感を聞き落としてしまった。
「はは。でもあんまり抜け出してちゃ、オレら問題児になっちゃうな。ミド……」
そう言い、振り返った瞬間――
ミドリの顔が、こちらに急接近していることに気づいた。
「っ!!?」
ロマは思わず目を見開き、その場に固まる。
深い緑色の瞳が、すぐ目の前にあった。
そのまま彼女は、ロマの顔に――
ぶつかることなく、その横を通り過ぎる。
ロマの背後へと消えていく、ミドリの姿。
次の瞬間。
――バタン!!
白い廊下に、鈍い音が響いた。
「え……?」
一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。
だがすぐに、全身の血の気が引いた。
ロマは弾かれたように振り返る。
「っ!!?」
階段の下――
淡い緑の病衣が、廊下の白さの中に沈んでいる。
栗色の髪が頬にかかり、ピンク色の絆創膏の髪飾りだけが、場違いなくらい鮮やかに見えた。
そこにあったのは……
床の上に、横たわっている――
――
――――
――――――
「――ミドリィ!!!」
叫びながら飛び起きる。
その衝撃で、散らかった部屋に埃が舞った。
「……はあ……っ!! はあ……っ!!!」
動悸がする胸をぐっと押さえ、確認するように部屋を見る。
「……」
時間をかけ荒い呼吸を整える。
そしてロマは、忌々しそうに呟いた。
「……昨日とは比べものにならないな……これは……」
第66話は明日の20時10分に投稿です。
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