第64話 “ひとつまざり”
「へ……? ふふ、ロマくんってば、変なの」
ミドリは口元に手を添え、くすくすと笑った。
風に流れる栗色の長い髪が、朝の光を受けてほんのり金色を帯びる。
病院の屋上という無機質な場所で、彼女だけが絵本の中から抜け出してきたみたいに見えた。
そんな彼女に笑われて、ロマは少し顔を赤くする。
「ぐ……悪かったね。昨日は眠れなかったんだ……外に出たのなんて、本当に久しぶりだったから……」
「興奮して眠れなかったの? 子供みたい」
「うるさい」
ぷいと顔を背けるロマに、ミドリは楽しげに目を細めた。
深い緑色の瞳が、笑みの形にやわらかく歪む。
「そう言うキミはどうだったんだ? 昨日仲良く外出して、一緒に怒られたじゃないか」
「私は熟睡だったよ~?」
ぶっきらぼうに返したロマの言葉に、ミドリはニヤニヤと答える。
「昨日は凄くはしゃいじゃったから、部屋に戻ってすぐに寝ちゃったもん」
そう言ってから、彼女の視線が少しだけ遠くへ流れた。
「服も着替えずにさ、ベッドにダイブした瞬間に意識を手放して……夜ご飯も食べずに、さっきまで寝てたんだから」
「……え……それって……」
その声に混じった、ほんのわずかな影。
ロマはそれを聞き逃せなかった。
「そう、朝までホント熟睡してたの……まるで〝死んじゃった〟みたいにね」
「……ミドリ……」
その言葉に、ロマの胸の奥がきゅっと縮む。
「あはは!! ごめん。あんまりいい冗談じゃなかったね。忘れて!!」
「……やっぱりキミ……昨日、無理してただろ……」
ロマは後悔する。
昨日、どうしてもっと早く気づけなかったのか。
彼女の足取りも、息の浅さも、いつもより白かった頬も……本当は全部、見えていたはずなのに。
「大丈夫だって!! ロマくんはホント、心配性だな~」
けれどミドリは、明るい声で笑った。
まるで、重くなりかけた空気ごと無理やり空へ放り投げるみたいに。
「そんなに私がいないと寂しいの~? うりうり~!!」
茶化すように、ミドリがロマの肩を指先でつつく。
だが、ロマは笑わなかった。
彼女の深い緑の瞳を、まっすぐに見つめ返す。
「……うん。寂しいよ、キミがいないと……」
「……へ……?」
突然の真剣な声。
あまりにも真っすぐな言葉に、今度はミドリの方が固まった。
「あ……ろ、ロマくんにしては、随分と直接的だね……」
頬を赤くし、ミドリは慌てたように視線を逸らす。
いつもとは逆の立場になったことが少しおかしくて、ロマは小さく笑った。
「はは……そうだな……自分でもびっくりしてる。まるで〝誰か〟に影響を受けたみたいだ」
何かを思い出しかけて、ロマの笑いが途切れた。
(……こんな真っすぐに、言葉を出せる〝誰か〟……誰だっけ……)
思い出そうとしても、頭の奥にもやがかかったみたいに、その輪郭だけが浮かばない。
「う……そ、そんなことよりもさ!! 今年も〝アレ〟が、そろそろ来るよね!!」
ミドリは恥ずかしさをごまかすように、急いで話題を変えた。
「〝アレ〟……? ああ、あの〝人形劇〟か……」
「そうそう!! 今年も楽しみだね~!!」
ミドリは無邪気に笑う。
さっきまでの翳りは、その明るい笑みに隠れてしまったみたいだった。
そんな彼女に、ロマはわずかに呆れた顔をする。
小児科病棟には、年に1度、ボランティアの人達が人形劇を上演しに来る。
長く入院している2人には、すっかりおなじみの催しだった。
ただ、その出来栄えは……
「楽しみって……わざわざやってきてもらってて悪いけど、あんな子供騙しの劇……それに毎年、内容変わらないじゃないか……」
「そんなことないよ!!! 毎回ちゃんと違うところがあるよ!!!」
幼稚だと言われたのが不満だったのか、ミドリはむっと頬を膨らませる。
「いやいや……物語は毎回、勇者が悪者に捕らわれた姫を助け出して終わりだろう? 違うところっていえば……その悪の親玉が毎年違うってとこくらいだろ」
「そう!! 去年はドラゴンで、一昨年は大蛇だった!! 今年は何になるのかな~!!」
ミドリにとっては、その小さな違いも楽しみの1つなのだろう。
ロマは再び、呆れたように息を吐いた。
「魔王とかなんじゃない? 主人公勇者だし」
「確かに……!! むしろ今までなかった事の方がおかしいくらい! いい考察だね、ロマくん!!」
「いや考察って……こんな単純な考えが……」
大げさに褒められ、ロマは少し居心地悪そうに目を細める。
「ふふ……!! 当たるか見ものだね~! 今年は思いっきり楽しまないと……!!」
そう言いながら、ミドリはフェンスのそばへ歩いていく。
屋上の風が病衣の裾を揺らし、長い髪をさらさらと流した。
そして、ぽつりと呟く。
「だって……これで〝最後〟なんだから……」
その声は、風に混じれば聞き逃してしまいそうなほど小さかった。
「別に〝一般〟に移るからって、人形劇くらいは見に来てもいいだろ? 来年も、その先も……」
「ふふ、そうだね……そう出来ると……いいね……」
ミドリは軽く笑う。
けれど、その表情には隠し切れない寂しさが滲んでいた。
「はあ……まだ成人もしてないのに、なんでここを卒業しないといけないんだろ……」
「なんか症状や病院によっては、18歳とか20歳までOKなとこもあるらしいけど」
「え!? ホント!?」
ミドリはがばっと身を乗り出した。
その瞳が、一瞬で輝きを取り戻す。
「今度、先生に聞いてみよ!!」
「いや……なんでそんなに小児科病棟から離れたくないんだ? 騒がしいだけじゃないか」
「そんなことないよ!! 下の子はみんな可愛いし、仲良しだもん!! ……離れたくないよ……」
仲のいい子達の話をする時には弾んでいた声が、最後のひと言でふっと沈んだ。
「そっか……じゃあ残れるように祈ってるよ」
「……ロマも残ってよ」
今度は、ロマまで離れてしまう心細さが声に表れていた。
「オレも? ……そうだな、考えとく」
「そこはさっきみたいに、真っ直ぐに言ってほしかったけどな~」
冗談めかして言うミドリに、ロマはいつもの調子で返す。
「別にオレだけ一般に行っても、同じ病院にいるんだから会えるだろ」
「あ、そっか。〝同じ病院〟にいれば……そうだよね」
「……?」
その言い方が、ロマには妙に引っかかった。
だがその時の彼は、まだその意味を知らなかった――
――
――――
――――――
――その日の夜。
病室の明かりは消え、窓の外には街の灯りがぽつぽつと滲んでいた。
遠くで車の走る音がかすかに聞こえ、廊下の向こうからは看護師の足音が、一定の間隔で近づいては遠ざかっていく。
ロマは個室のベッドに横になったまま、天井を見つめていた。
(……昨日……やっぱり無理させたよな……)
昼間の屋上で見た、ミドリの笑顔が脳裏に浮かぶ。
明るく笑っていた。いつも通り、冗談も言っていた。
けれど、その笑顔の奥にあった影を、見て見ぬふりなど出来ない――
『――まるで〝死んじゃった〟みたいにね』
(ミドリ……)
たったひと言を聞いただけで、息が詰まりそうになった。
冗談だと言われても、あの時の苦しさは忘れられない。
それに――
『――〝同じ病院〟にいれば……そうだよね』
ミドリが最後に呟いた言葉。
その意味を考えようとすると、嫌な想像ばかりが膨らんだ。
(〝同じ病院〟……? どういう意味だよ……そりゃあ……まるで……)
考えても答えは出ない。
それに眠気のせいで、考えも纏まらない。
(ミドリが……遠くに……行ってしまうみたいで……ああ、ちくしょう……なんで……眠気が……)
昨日の疲れが、体の奥に残っていたのだろう。
やがて意識はゆっくりと沈み、天井の白さも、窓の外の灯りも、少しずつぼやけていった。
外の風の音、布団の温もり。
それら全てがロマを夢の世界へ誘う。
ゆっくりと開く扉の音。
近付いてくる静かな足音。
布団をめくられ、ほんの一瞬外の寒さが中に入ってくる。
だが、その後に、布団とは違うもう1つの温もりがロマを包みこむ――
「――ん……?」
寝ぼけた頭では、その感触の正体がわからない。
まぶたを持ち上げると、すぐそばに見慣れた〝栗色の髪〟があった。
覚醒した意識が最初に認識したのは、ロマの胸元にしがみつくようにしてベッドへ潜り込んでいるミドリの姿だった。
「……んえェッ!!?」
ロマの顔が、一気に熱くなる。
「ミドリ……っ!!? ど、どうして……!!?」
個室。
夜中の病院。
同い年の女の子が、自分のベッドに潜り込んできた。
状況だけ見れば、完全にまずい。
「ま、待て待て待て……!! 看護師さんに見つかったら、いやその前に……これは、その……っ!!!」
ロマは必死に言葉を探す。
だが……
「……」
ベッドに入ってきたミドリは、何も言わなかった。
「み、ミドリ……?」
彼女は布団の中で、ロマの病衣の胸元を握りしめ、俯いたまま肩を震わせている。
そこでようやく、ロマは気づいた。
「っ……!!」
ミドリの目元に、涙が浮かんでいた。
「ど……どうしたんだよ……」
さっきまでの狼狽が、すっと引いていく。
代わりに、胸の奥に重たい不安が落ちた。
やがて、ミドリは小さな声で呟いた。
「……怖い夢を、見たの……」
「夢……?」
聞き返したロマに、ミドリはゆっくりと語り始めた――
――
――――
――――――
――深い深い、海の中。
右も左も、上も下もわからない。
ただ、身体だけがゆっくり沈んでいくんだ。
真っ暗闇で、何も見えない海の底へと……
必死にもがこうとして、手を伸ばして。
それで、気づいた。
自分の指が、どろどろに〝溶けて〟いることに。
暗い海の中へ、身体が少しずつほどけていく。
指から腕へ。
腕から肩へ。
胸へ。
足へ。
何もかもが水に混ざって、自分だったものが、どこにも残らなくなっていく。
叫ぼうとしても、口ももう形を保っていない。
助けを呼びたくても、誰の名前も浮かばない。
そして、いつの間にか全身が――
――
――――
――――――
「――そんな……そんな〝悪夢〟を……見たの……」
「……ミドリ……」
言葉にしながら恐怖が蘇ったのか、ミドリは布団の縁をギュッと握った。
「あはは……ごめんね。子供みたいだよね……怖い夢を見て、眠れなくなるなんて……」
ミドリは無理に笑おうとする。
けれど、口元はうまく上がらなかった。
その代わりに、瞳から涙がひとつ零れ落ちる。
「でも……あの夢……まるで……まるで私の存在が、この世界から消えちゃうみたいで……」
震える声。
いつもなら冗談に変えてしまうはずの彼女が、今は何ひとつ隠せていなかった。
「お願い……今日だけだから……一緒にいて……ロマくん」
ロマはしばらく何も言えなかった。
女の子が自分のベッドにいる。
その事実に、まだ心臓は落ち着かない。
だけど今、目の前にいるミドリは、からかいに来たわけでも、ふざけに来たわけでもない。
ただ、怖かったのだ。
自分が消えてしまう夢を見て。
誰にも気づかれず、誰にも覚えてもらえず、ひとりでいなくなる夢を見て。
「……わかった」
ロマは迷った末に、布団の上からそっとミドリの手に自分の手を重ねた。
触れるというより、ここにいると伝えるためだけの、ぎこちない仕草だった。
「……好きなだけ、ここにいればいいよ」
「うん……ありがとう」
ミドリは少しだけ安心したように頷き、布団の中で目を閉じた。
それでも、その手はまだ小さく震えていた。
「……ロマくん」
「なんだい?」
ミドリはささやくように問いかける。
「もし……私が消えちゃっても、ロマくんは私のこと覚えててくれる?」
「っ……!!」
(ミドリが……もし、消えたら……)
その言葉に、ロマの胸の奥がまた痛む。
喉がきゅっと締まりそうになる。
それでも深く息を吸って、ゆっくりと言葉を返した。
「……ああ……忘れない……それに、その時は一緒だ……」
「え……?」
「約束しただろう? いく時は、一緒だって」
「……そっか……そうだったね……」
それ以上、ミドリは何も答えなかった。
けれど、重ねた手の震えが、ほんの少しだけ弱まった。
窓の外で、夜の街の灯りが静かに揺れている。
病室の中は暗く、狭く、ひどく静かだ。
まるで2人だけが、世界から切り取られた場所にいるみたいだった。
それでも、全く寂しくはない。
それは2人が、今夜……今夜だけは、ひとつにつながっているから――
第65話は明日の20時10分に投稿です。
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